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鉄砲はなぜ種子島に来たのでしょうか?
種子島という狭い島でなく、王直が知っている九州西岸の方が、戦いが多く鉄砲の需要が高く、大きな商売になると思いますが。
(種子島に船が漂着した、とはしないことにします)

A 回答 (4件)

1541年のとある日、ポルトガルの商人は中国船に乗船して航海をし、東シナ海が嵐が起きやすく流されやすい海であったため、中国船は流されてしまい、薩摩国の一部である種子島に漂流したとの記録があり、もともとは武器を売りに商売で鹿児島に上陸する目論見であった途中のトラブルによる漂流となったと言われています。

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この回答へのお礼

早速の御回答ありがとうございます。
どうしても、漂流ですか。

お礼日時:2022/12/10 15:24

鉄砲が最初に伝来したのは、種子島ではないという説もいくつかあり、その通りかもしれない。


しかし、種子島に鉄砲が伝来してすぐに、その鉄砲が島津家に持ち込まれ、以後、島津の支援もとで鉄砲生産が開始されている。戦国時代の島津の強さは早くから鉄砲の生産と改良に力を入れていたことが大きく影響している。

さらに言えば、当時の種子島では、「本能寺の変」で有名な京都の本能寺系の法華が布教活動を展開していた。その関係で、本能寺は、多くの戦国大名に鉄砲と火薬を流通させる役割を担っていた。

本能寺の変での信長の最後は、大量の火薬に火をつけて大爆発させたものと云われるが、本能寺にそれほど大量の火薬があったのは、本能寺が鉄砲と火薬の流通と販売に直接かかわっていた証拠だろう。
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この回答へのお礼

法華経ですね。

お礼日時:2022/12/12 07:46

なんだい?


その漂流はないとしますってのは

ちゃんと歴史を考えよって気には
ならなんのか?
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この回答へのお礼

ノーコメント

お礼日時:2022/12/10 17:29

当時の中国である明とポルトガルの国交は決裂状態であり、中国船と言ってもあれは密貿易船だったのです。

密貿易ですから、博多とか九州西岸と正規貿易はできません。そこで九州でも辺地の種子島に意図して船をつけました。当時倭寇が中国沿岸を荒らしていたことになっていますが、倭寇は元々密貿易船だったのです。本来はうまく交渉して密貿易を行っていましたが、交渉が決裂すると海賊として暴れており、日本側の情報は中国の密貿易側も承知していました。したがって九州本島の鹿児島ではなく、あえて種子島に船をつけたのです。日本ではこれを1543年としていますが、ポルトガルでは1541年としています。これはポルトガル人が1541年に既に日本のことを承知して近くまで来ていたことを意味します。

その時は余り多くの鉄砲を積んでおらず、とりあえず鉄砲を1挺2,000両という金額で購入したそうです。これは現代のお金に換算することは難しいですが、少なく見積もっても1,000万円を超える大金だったそうです。

これに気を良くしたポルトガル人は約10年後、大量に鉄砲を日本で捌こうと持ち込みましたが、日本では既に大量生産されており、売ることを諦めました。
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この回答へのお礼

早速の御回答ありがとうございます。
<密貿易ですから><九州でも辺地の種子島に意図して>なのですね。

乗船していた王直は、日本側の本拠地として平戸を使っており、私には、実質密貿易が盛んだったような気がしますが。

お礼日時:2022/12/10 17:37

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