性格いい人が優勝

讃岐に流された身分が高い人達は、崩御した後に都に帰還されますが、京から指示が来るまで、みな、崇徳上皇の時と同じように金山の野沢井(八十場)の冷たい湧水でご遺体を保存されたのですか?
夏場でなくとも20日間もそのままの状態にしておくのは、憚られるのではないでしょうか。
勝手に埋葬が行えないというのもあったのかも知れませんが、取り決めなどはなかったのでしょうか?

A 回答 (3件)

> 夏場でなくとも20日間もそのままの状態にしておくのは、憚られるのではないでしょうか



夏冬に限らず、死亡後にすぐ埋葬するようなことはあまりなくて、ある程度の期間は放置?して、殯のような期間をおくのが貴賤にかかわらず、普通ではなかったかと思います。
https://www.yoriso.com/sogi/article/mogari/
https://e-saikaku.co.jp/faq_khn/post-20699/
たぶん 14世紀、15世紀だと、3,4日程度が死亡から葬儀までの期間としては普通であったろうと思います。
ただし、触穢を嫌うだけでなく、触穢を禁じる行政の意向が酷く強く行われて、長く遺体を置いておくことを禁じ、死の翌日に埋葬、火葬するようになって、実際に短期で埋葬したり、火葬したり、あるいは、埋葬や火葬を行うまでは「生きていたことにする」という虚構の扱いも多かったようです。
讃岐の夏季だと腐敗も早いでしょうが、それでも、数日程度で腐敗するものではないです。 魚や獣肉でも、数日は大丈夫ということも多いです。

> 崇徳上皇の時と同じように金山の野沢井(八十場)の冷たい湧水でご遺体を保存されたのですか?

崇徳でも、数日で火葬された可能性が高いと思います。 保元物語や平家物語、源平盛衰記では、日数不明ですが、死後特別のことはなく火葬されたようになっています。その後、1406年に世尊寺行俊が白峯寺再建時に書き残した『白峯寺縁起』で、崇徳院の死亡を京都に注進し、遺体を野沢井で冷やした、9月18日に荼毘にしたと書いていますが、これは白峯寺や水薬の縁起由来を宣伝するために作成した『(かっこつき)伝承』ようなもので、事実関係の伝承ではないのでしょう。

> 讃岐に流された身分が高い人達は、崩御した後に都に帰還されますが、京から指示が来るまで、みな、崇徳上皇の時と同じように金山の野沢井(八十場)の冷たい湧水でご遺体を保存されたのですか?

流刑というのは、後で許されて戻ると言うのが、けっこうあったようです。流刑先で死ぬというのもあったでしょうが、流刑地に行くまでに死ぬということも合ったようです。 讃岐に流罪となった身分の高い人に、どのような人がいるのかがわかりませんが、野沢井で死後に冷やしたという例はたぶん一例もないでしょう。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%81%E7%BD%AA
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古代中世で特に遺体を特別扱いされ、現在まで墓が伝わるのは天皇だけです。


将軍や摂関でも遺体を埋めた墓の正確な位置は不明です。
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詳しくないのですが、そこにはそこの生活、暮らし、があったのかもしれません。

そういう事を仕事にしていた人もいたと思います?
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