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どっちが悪いか論争に最適解を出すための考え方を自分なりにまとめました。 皆さんのご意見をお聞かせください。 あくまでも完全な自論なのでそれを踏まえた上で流し読み程度でお願いします。

■ 「悪」とは
「悪」とは・・・
起こり得る未来が予想できるのにも関わらず、勝手な自己判断や勝手な私情と都合(めんどくさい・嫌・ムカつく・好奇心)で相手の立場を損ねる・相手に損失を与える行為。

■ 判断方法
まず、どっちが悪いのかは、未来予知可能か、未来予知不可かという「未来予知能力」で判断します。
仮にお互いが未来予知可能だった場合、どちらの出来事がその未来の起こる確率がより高く、そして予想しやすいかを「未来予知容易度」で判断し、高い方を結果として「悪い」と評することになります。(厳密に言うとどっちも悪いですが)

■ 例1(自分が悪い)
友達を家に呼んだが、机の上に今にも落ちそうな花瓶が置いてあったが、めんどくさかったのでそのまま放置し友達を招き入れたところ、友達が誤って落とし、割ってしまった。

▶︎ この場合、自ら友達を誘っているので、友達が来るという未来は当然100%予想できます。
ですから、花瓶を生かすも殺すもその人次第、花瓶の運命はいくらでもコントロール可能ということです。
しかし「めんどくさい」というその人の自己都合で花瓶はなおざりにされ、結果友達に割られてしまった。
家に来た友達は、まさかこんなところに花瓶が置いてあって、まさか今にも落ちそうな不安定な状態で、まさか落ちるなんて思いません。つまり「未来予知不可」な状態というわけです。
よって、今回のケースで悪いのは、唯一「未来予知可能」な状態であった友達を誘った人、という結論になります。

■ 例2(相手が悪い)
友達に誘われたので家まで向かい中に入ると、机の上には少しの衝撃で今にも倒れそうな花瓶が置いてあったが、なんとなく大丈夫だろうと思って特に友達には確認せず、そのまま花瓶の横を通った。 その衝撃で花瓶は落ちて割れてしまった。
花瓶の持ち主も、まさかそんな状態で置いてあったとは思いもしなかった。

▶︎ この場合、どう見ても落下しそうな花瓶が目の前にあるわけですから、花瓶が落下する未来は容易に予想でき、例1に同じく、花瓶の運命はいくらでもコントロール可能ということです。
しかし「なんとなく大丈夫だろう」という、勝手な自己判断を下してしまい、結果的に花瓶を割ってしまった。
「こんなところに花瓶を置くやつが悪い」という反論が予想できますが、花瓶を置いた持ち主はまさか落下する状態だとは思わなかった、つまり「未来予知不可」な状態にあるわけです。(もっぱら注意不足ではありますが)
よって、今回のケースで咎められるべきは唯一「未来予知可能」な状態にあったその友達、という結論になります。

■ 例3(どっちも悪い)
友達を家に呼んだが、花瓶が不安定な状態で置いてあるということは事前に分かっていた。 しかしめんどくさかったのでそのまま放置していた。
家に来た友達も、明らかに落下しそうな花瓶が目の前にあったが、まぁ落ちないだろうという自己判断を下し、そのまま友達のいる部屋に向かった。 その衝撃で花瓶は落下して割れてしまった。

花瓶の持ち主は「どう見ても割れるの分かってるじゃん。なんで言わないの?」と責める。
友達は「いや、そもそもこんなところに置くやつが悪くない?」と反論をする。

▶︎ 例1と例2の考え方からある程度分かるとは思いますが、この場合は綺麗に「どっちも悪い」が成立するパターンです。
「どっちも悪い」というのはすなわち、どちらも「未来予知可能」な状態にあるということです。
花瓶が落ちるかもしれない…という未来は両者が予想できたのにも関わらず、お互いがお互いの自己都合と自己判断により「花瓶を割る」というバッドエンドを選んでしまったことになります。
そのためこのケースではお互いがお互いの非を認め、素直に謝るのが得策といえるでしょう。

■ 例4(どっちも悪いpart2)
お菓子好きな生徒の多い教室にお菓子を保管するとき、食べられないように「食べるな」と貼り紙をしたが、案の定友達に勝手に食べられてしまい、友達をキツく責めたが「こんなところに置くやつが悪いだろw」と言われ逆ギレされた。

▶︎ この場合、どちらにも「未来予知可能」な状態にあります。
お菓子好きな生徒の多い場所にお菓子を放置すれば、例え「食べるな」と貼り紙をしていても、誰かがその忠告を無視して勝手に食べるかもしれない、という未来は少なからず予想できます。
そして「食べるな」と書いてあるのに勝手に食べれば怒られる、という未来も当然分かります。

しかし、この2つの未来の予想のしやすさ度合い(未来予知容易度)を天秤にかけた時、それが高いのは圧倒的に後者の「食べるな」と書いてあるのに勝手に食べて怒られること、ですよね。
これが、未来予知容易度によって相手への評価が変わることの良い例でしょう。
どんなに注意書きをしたとしても、教室にお菓子を放置したことについても多少のリスクはあるわけで、その部分をしっかり説明できるかどうかでその人への好感度が決まります。

■ 未来予知能力の変化
未来予知能力というのは一定のものでは決してなく、その時々の状況や心理状態によってかなり流動的に変化します。

1.低確率の未来
例えば、危険を予測して毎回毎回細心の注意を払っていたが、その発生回数が少ないと、未来予知能力は低下し、だんだん注意が疎かになってしまいます。
車の運転がいい例です。
毎日安全確認をしていた人も、1000回やって何も起きなかった場合、1001回目もどうせ同じ結果になるだろう、起きもしない未来のために毎日行動するのが億劫だ、と感じ、注意を怠ってしまう。
これが低確率の未来に対する未来予知能力の低下というやつです。

2.SNS上での未来予知能力の低下
SNSの世界では、未来予知能力が低下する傾向にあると私は思います。
なぜなら、悪口や誹謗中傷といった「言葉の攻撃力」は、現実世界での直接的な言葉よりもうんと下がるからです。
現実で人に向かって悪口を言うのと、SNS上で文字を使って悪口を言うのとでは、例え同じ言葉だとしても攻撃力は違うと思います。 やはり直接面と向かって悪口を浴びせられる方が、言葉の攻撃力は遥かに高く、そのダメージは凄まじいものでしょう。
そのため、「自分の発言で誰かが嫌がるかもしれない」という未来予知能力は、言葉の攻撃力が多少低いSNSにおいては低下するものと結論づけられます。 (あくまでも私の完全な自論ということを忘れないでください。)

3.外的要因による未来予知能力の低下
やはり人間といえど、先の未来を100%完璧に予測することは不可能です。 さらに、私たちの脳も常にパーフェクトな状態で動いてるわけではないので、未来予知能力というのはその時々で"かなり"ばらつきがありますし、外的要因によっても大きく変化します。
普段未来予知能力が高い人でも、愛する人が突然亡くなれば、その瞬間は未来予知能力が著しく低下し、注意散漫になり、ひどい言葉をかけるようにもなるかもしれません。
そんな背景のある人が他人につい悪口を言ってしまった場合、正常な心理状態の人と同等な評価を下すべきか否か?これは十分な検討が必要なところです。

そもそも個々の持つ素の未来予知能力には差があります。 「こんなの誰でも分かるだろ!」というのが分からない人もいます。
それを踏まえた上で、様々な要因によって未来予知能力が変化するので、その変化も考慮に入れたて、どっちが悪いかを区別する必要があります。

自分たちが元来持っている未来予知能力を、全人類が持っているわけではありません。
自分が予測できるのだから、あの人も予測できるだろう、だからあの人には確実に悪意がある。
と決め付けて批判すれば、あっという間に加害者に早変わりです。
「どっちが悪いか」を考える前に、まずは相手に未来予知能力がどれほどあるのかを調査することが最優先です。

■ まとめ
どっちが悪いかどうかは、未来予知能力の有無で判断し、未来予知可能なのにも関わらず、自己都合で相手に損失を与えた場合、その人が「悪い」と評される。

そもそも、「良い」「悪い」というのは、人間が後付けする評価にすぎません。
例えで出した「花瓶が落ちるかもしれない未来」というのはあくまでも事実として未来に存在しているだけであり、それが良い/悪いの評価とは別次元にあるということを忘れないでください。
実際に「花瓶が落ちた」という事実が発生したことで、その人に損害があればそれは「悪い」評価になりますし、特に損害がないのであれば「良い」も「悪い」もないですし、むしろ割れてくれたことで何かメリットをもたらしたのであれば「良い」評価になります。

このように、事実はひとつですが、評価は状況によって様々に変化します。 その事実が、その人にとっての害になればそれは「悪い」と評され、そしてその事実を、未来予知可能な状態なのに自己都合で発生させた場合、その人自身が「悪い」と評価されるでしょう。

我々は毎日、様々な選択をしています。
そして人は賢い生き物で、未来をある程度予測できます。 つまり、我々は未来を選択できるのです。

相手に損失を与える未来を選択したのであれば、もちろんその全責任はその選択者に委ねられます。 そしてそれは「悪い」という評価で返ってきます。

質問者からの補足コメント

  • あくまでも例えなのでそういう細かいところを突かれると困りますね。 別に花瓶じゃなくてもいいんですよ。

      補足日時:2023/05/27 00:12
  • >ムカリン2さん
    ありがとうございます。
    例2に関しては私もどっちも悪くないとか、「事故」とか色々考えていましたが単に文章の構成上、そっちが都合良かったので「どっちも悪い」と解釈しました。

    例4に関しては法律の話をするとそうですが、私の場合は法律というより哲学的な話も多少入ってるので、お菓子をその場に置くことが「悪い」というよりは、そのような環境下にお菓子を置くことで、食べる輩がいるかもしれないという未来の可能性は0%ではありません。
    そこにお菓子を置かざるを得ないのであれば別ですが、他にも選択肢がある中であえてそこを選んだのであれば、その未来はより可能性として高いのかなって予想です。

      補足日時:2023/05/27 11:50
  • >ムカリン2さん

    「外に出たらいきなり殺人犯が立っていた」という可能性も0ではありませんが、「お菓子好きな生徒が多い」ということから、可能性としては高い方だと思います。
    法律の話をすれば問答無用で食べた人が悪いのはその通りです。

    最後の車の例に関しては飛び出してきた人に責任があるのはその通りだと思います。

    横断歩道に関しては、これも法律的な話をするとそうですが、そういう法律的な話を一旦取っ払って、可能性だけに焦点を絞れば、渡っている人は車が向かってくることを認知しているわけですから、避けようと思えば避けれたわけですね。
    だから渡っている人も「悪い」とか責任があるとかそういうわけではなくて、可能性として存在しているという話です。 回避可能な未来だった、という話です。

      補足日時:2023/05/27 11:51
  • >ムカリン2さん

    しかし、この場合は別でしょう。
    渡っている人が向こうから車が来ることは認識していたが、車は停止義務があるので止まるであろう。 だから私がわざわざ避ける必要はない。 でもその結果轢かれてしまった。 この場合であれば車が完全に悪いと思います。

    「車がまさか停止義務を無視してこちらにやってくるかも」というような危険察知能力が異常に高いのにも関わらず、そのまま進んだのであれば、上でも申し上げたように「回避可能な未来だった」という事実として残ります。

    しかし「車が来てるのは分かるが、止まるだろう」
    これは低確率の未来に対する未来予知能力(予見可能性)の低下ってやつです。 常識的に考えて車が停止義務を無視するなんて少ない可能性をそもそも普通の人は視野に入れないわけです。

    ポイントとしましては、分かっているのにやったかどうか、です。

      補足日時:2023/05/27 11:51
  • >tmklさん
    ありがとうございます。
    犯行の態様、動機の悪質性など様々な指標があると思いますが、一部例を出していただけるとありがたいです。

    また、過失でも責任は問われる、というのは法律的にはそうですが、評価としては責任はあるけど「悪くはない」という評価になるかと思います。

    予測できなかったけど事実として起きてしまった、のであればそれに携わった人が何かしらの対処はしないといけないと思います。

      補足日時:2023/05/27 11:59

A 回答 (13件中11~13件)

タコつぼの中でのお話。

お伺いしました。

人間であれ、社会であれ、外面的な善悪は相対的、可変的なものであり、それを絶対的、固定的と見なすのは人の心であり、心が言葉の呪縛にかかっていると言える。

人間の善悪の本質は、どちらか一方によるのではなく、
どちらも含むと指摘したい。
その善悪を含む量的割合は、各個人によって異なるのである。
ここで、善と悪とは一体何であるのかという疑問が出てくる。
この点に関しては、後に論ずることとする。

人は何が善であり、何が悪であるかということを、
多くの場合理解している。しかしながら、実践にいたる際、
障壁として“感情”が存在することも、認識している。
「殺人がいけないことは誰でも知っているが
、殺人行為はなぜなくならないのか」という疑問を
例に挙げていきたい
人は一定の倫理的規範を持ってはいるが、感情がその規範を超え、
本来悪であると考えている行為に及んでしまうのである。
ここで取り上げられる感情は愛、良心、慈悲といった、
善に分類されるようなものではなく、自己中心性を帯びた
怒りや嫉妬、所有欲といった感情である。
これらの感情がある限り、人々は悪を完全に克服し
真に善を実践しえないのである。
そのため、いかにこういった感情を克服するか、
ということが重要になってくる。

感情が発現する際に、さまざまな理由があると考えられるが、
そのほとんどは欲望に起因するといってよいであろう。
つまり、自己の欲望が満たされない状態から、善悪問わず
(多くの場合は悪であるが)、ある感情が生まれるのである。

人間の貪欲性を引き出す欲望を、いかにコントロール
することができるか、という点についても
議論を深めていかねばならない。
まず、欲望にはどのようなものが含まれるか
ということを見ていく。
種を維持するための本能的欲望、名誉欲、所有欲、権力欲、
また、知識欲、美への欲求、人間的な愛や慈悲等を、
欲望の例に挙げる。

欲望とは人を悪へ走らせることもある反面、文化や技術
の進歩を促す働きもしているという点を見逃してはいけない、
欲望について、それらを踏まえた上で、大きく 2 つに分け、
周囲を自分に従えようとする魔性の欲望と、
周囲と調和を求める愛に向かう欲望に分類する事ができる。
魔性の欲望と愛に向かう欲望は、相反する性質を含んでいる。

ここで、双方に密接にかかわる性質として、恩を感じる感情
というものがあるのではないかと思われる。
生命や宇宙といった普遍的なものを指す。
これらに対する恩をどれだけ多く持ち、感じることが
できるかによって、各個人が、どちらの欲望に傾くかが、
決まるのではないであろうか。
いかに魔性の欲望を抑え、愛に向かう欲望を発現するか
という問題を提起したい、
それは不断の闘争によってのみ、実現されると
結論付けられる。そして、その際に自己超克という働きを
重要視したいのである。

更に、善と悪について、何が善であり何が悪であるかとい
う問題をここで堀り下げる。
善と悪は時代によって変遷する。善と悪は流動的であり、
一概に判断することはできない。
実際行動への適用となると、これは過去においても現在でも、
道徳律というものが各々の文化において違っているように、
きわめて多様である、と見たい。
善悪を一概に分類することができないとする反面、
ある行為が善であるか、悪であるか、と判断する際に、
重要な判断基準が「生命の尊厳」である。

善悪の判断は、「生命の尊厳」という基準に、
適しているか否かを精査する必要がある。
この生命という定義について、
単なる人間生命や動物といったものだけ
ではなく、大地、空気、水、いかなる無生物であれ
含まれる。ましてや、自分と同じ民族や宗派に偏重した
「生命の尊厳」などではないのである。

「生命の尊厳」という言葉は、とても重い印象を与える
人々が口にする食物から、ただ通り過ぎた道に生えている
草木、取るに足らないと思えてしまうようなものにまで、
尊厳があると考えるのである。
もし本当に、そのように捉えることができるのであれば、
人々はきっと、それらを無下に扱わないであろう。
その精神があれば、それがいかなる取るに足らないものであれ、
大切にするはずである。
そして、それらを守るためであるならば、自己を犠牲に差し出す、
という精神が確立されるのではないだろうか。
それなくして、利己から利他の精神は築かれないに違いない。
その点を踏まえて、善悪を判断する基準に「生命の尊厳」を
据えたのでる。

人類が抱える問題があまりにも多く、
それらの解決はとても困難であるように思われる。
解決の方途として、
“小我”から“大我”へと変換しゆく、自己超克の実践を
具体的に例示している。
そして、他者に与える善が形式だけでなく、
自己を否定し他者の立場に立った愛(抜苦与喜)
である必要があると結論付けたい。

ニーチェの『善悪の彼岸』
東洋哲学の『善悪不二、邪正一如、逆即是順』
トルストイ等の文学に学びましょう
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質問内容は善悪の問題ではなくて「責任問題」です


責任について 
責任能力を有する者は自らの自由意志によって成した行為の責任を負う
これがいわゆる故意 
逆に言えば過ち=過失についてはそれ自体の責任は無いとなります
なお責任には刑事責任と民事責任とがあります
1について
刑事責任
過失によって花瓶を落した友人には花瓶を落した事自体の責任は無い
花瓶の所有者については
故意に友人に花瓶を落として破損させようとしたわかけではない事から花瓶が落下して破損した責任は無い
民事責任 
過失とは言え花瓶を落として破損させ友人に損害を与えた責任はある(過失責任)
花瓶の所有者は落下しそうな状態で花瓶を放置した責任がある
(管理責任(過失責任))  
よって花瓶の所有者と花瓶を落下させて破損させた友人どちらにも過失責任があることから両者の責任を相殺して過失の程度が重い方がその分の責任を負いますが、今回の場合花花瓶の価値が瓶の所有者が落下しそうな状態で放置する程度しかないことから花瓶が落下して破損した事で受けた被害が軽微であると考えられるので夫々の過失は相殺されてどちらにも過失責任=民事責任は無いとなりますね
以上
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花瓶は飾って使用するのを目的として作られた物ですから、消耗品なので適切な使用をしていたのならば、破損しても誰も悪くありません。



もし、花瓶に骨董品や芸術品としての付加価値があるのならば、所有している管理者の責任だと思います。
花瓶を飾ってはいけません。
持ち主から預かって展示する場合には、花瓶に保険を掛けた方がいいと思います。
破損した場合は、管理者の責任です。
当然、貴重な物ですから、拝観料も取れると思います。
貴重な文化財は、誰もが拝観できるように、管理能力のある施設に引き取って貰って保管して貰うのが適切な対応だと思います。
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