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小牧長久手の戦いで徳川軍はたった17000人はなぜですか?
旧武田領の大半を手に入れていたので50000人は動員できたのではないのでしょうか?
戦は兵の数が勝敗を大きく左右するので17000人はあまりに少ないと思いまして…

A 回答 (3件)

小牧長久手の戦いは、織田信長の後継者をめぐる秀吉と家康の戦いですね。



ですから先のお答えにあるように「同盟者である織田信長との関係も保つ必要」なんてはずがありません。またこの時点で武田氏は滅亡していますので、「東海地方で武田家の勢力を抑える」ということもないです。

家康は、沼田を領有していた信濃国上田城主・真田昌幸と対立。昌幸が上杉氏・秀吉方に帰属して抵抗し、これに手を焼いていました。また領国内では天正11年(1583年)から12年(1584年)にかけて起こった地震や大雨に戦役の負担が重なって、領国経営に深刻な影響が出ていました。

その中での出兵ですから限度があったのですよ。『龍門寺拠実記』には、天正12年(1584年)に小牧・長久手の戦いで多くの人々が動員された結果、田畑の荒廃と飢饉を招いて残された老少が自ら命を絶ったと記されています。

家康にとっては幸いなことに天正13年11月29日(1586年1月18日)に天正大地震がおこり、近畿地方を中心として甚大な被害をもたらします。そのため秀吉も戦争どころではなくなり、家康と講和をしたものです。

歴史にイフはありませんが、天正大地震が起こらなければ、おそらく秀吉は物量作戦で家康を滅ぼしたでしょう。
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この回答へのお礼

天才やな

詳しく教えて頂きありがとうございます!
地震がなければ秀吉に滅ぼされていたかも?!はじめて知りました。とても勉強になりました(^^)
真田や地震の影響があったんですね、とても知りたいことだったんでありがとうございます(^o^)

お礼日時:2023/08/17 17:58

旧武田領も支配下に入れたばかりで不安定です。

北条と同盟を結びはしましたが、完全に信用できるのかまだ不安。真田と上杉とは揉めているので軍勢を引き剥がせない。
などなどから、三河遠江から動員可能な基礎兵力にプラスアルファという兵数なんでしょう。
それに、徳川はあくまでも助っ人で、主力は信雄軍のはずですからね。
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小牧長久手の戦い(天正10年、1582年)における徳川軍の兵力が約17,000人だった理由には、いくつかの要因が考えられます。



諸将の分散: 当時、徳川家康は東海地方で武田家の勢力を抑える一方、同盟者である織田信長との関係も保つ必要がありました。そのため、多くの武将が諸地域に分散しており、全ての諸将を一堂に集めることが難しかった可能性があります。

戦略的状況の制約: 徳川軍は当時、織田信長の傘下にありました。信長自身も他の地域で戦っており、人材や資源の配分には限界があったかもしれません。また、小牧長久手の戦いは、信長の急死によって徳川軍が戦線を切り替える必要が生じた状況下で行われました。

補給・戦闘の条件: 戦国時代の戦闘は、食料や資源の確保、補給線の確保などが非常に重要でした。特に遠征先での長期の戦闘は、補給の難しさから兵力を大規模に集めることが難しかった可能性があります。

戦争において兵力は重要ですが、戦略、戦術、指導者の判断など様々な要因が勝敗に影響を与えます。兵力の少なさが戦闘結果に影響を与えた可能性もありますが、小牧長久手の戦いの勝敗は複雑な状況の中で生まれた結果と言えるでしょう。
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この回答へのお礼

ありがとう

補給線がとても重要だったんですね。
とても詳しく教えて頂きありがとうございます!
池田恒興がこっちにつかなかったのが痛かったんですね。
どうする家康を楽しく見れそうです(^o^)

お礼日時:2023/08/17 18:01

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