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「我思う、ゆえに我あり」の本質はどんなに否定しようが「思う何かが在る」だけはどうしても否定できないと言う事だ。この思いとは言葉によって思索をし判断する思いであり、つまり「思いがある」とは「理性がある」と言う事だ。理性があるのは人間だけだ。だからね「我思う、ゆえに我あり」と言うのは人間とは何か?という思索であり、その答えは「理性がある」と言う事だ。だから人間のイデアとは「理性がある」と言う事だ。人間とは何か?その答えは「理性を持つ動物である」と言う事になる。
まあ、デカルトもこのことには気が付いていないがイデアを理解した私ならばこれらのことも分かるわけだ。これで間違いはないと思うが皆さんは私の気づきをどのように思いますか。

質問者からの補足コメント

  • 例えば三角形の定義を哲学的に言えば三角形のイデアと言える。三角形の定義、イデアは「内角の和が180度」と言う事、これも絶対と言える。そしてこれが三角形のイデアだ。「内角の和が180度」のものをすべて三角形と言う。そして「内角の和が180度」は三角形にだけしかなく他の角形には絶えているものだ。ゆえに絶対だ。イデアは絶対と言えるのだ。
    三角形のイデアとはあらゆる三角形には必ず共通してあるものであり、他の角形には絶えているのだ。
    人間のイデアはあらゆる人間に共通してあるものであり、対する他の動物には絶対にないものと言える。デカルトの言う「我」とは他の人間が考えてもそれは「我」なのだ。この我はすべての人間にある「我」なのだ。ゆえに思いがあるとは人間のイデアと言える。

      補足日時:2023/08/29 19:24

A 回答 (26件中21~26件)

「我思う、ゆえに我あり」証明できません。


https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/questio …
「認識するものを認識することはできない」インド哲学の祖ヤージュニャヴァルキャは「自己とは認識するものである。認識するものを認識することはできない。認識するものを認識するとなると、さらにそれを認識する必要になり、無限遡行に陥る。」
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この回答へのお礼

コメントありがとうございます。
「我思う、ゆえに我あり」は証明するとかしないとかではなくどんなに否定しようが「思いがある」と言う事は絶対に否定できないと言う事。絶対であるものをデカルトは発見したのだ。絶対であるものはイデアなのだ。では何のイデアかと言えば人間のイデアと言う事になる。人間のイデア「思いがある=理性がある」と言う事だ。

お礼日時:2023/08/29 19:08

デカルトは『宇宙論』をはじめ世界全体を理性の力で、科学的に解明しようとした先駆者であった。


 とともに、彼は一切の根本である人間それ自身の「心」というテーマに、生涯、取り組み続けたのである。彼の青春の魂は一生を貫いて、確かなる人間完成への道を求めてやまなかったといってよい。
 この点について、デカルトの最後の著作であり、死の直前に出版された『情念論』にふれておきたいが、詳しくは省きますが、人間の感情、すなわち「心」それ自体をテーマとしたものであります。
・・前後して
一六二八年、喧騒を避けてオランダに独居した彼は、思索に次ぐ思索の糸を、かの有名なが″コギト″すなわち「私は考える、それゆえに私はある」との一点に結びつけたのである。その堅牢な足場に、彼は両足を踏ん張って立った。まさしく″アルキメデスの支点″であったであろう。精神界のアトラスのごときその姿は、近代的自我の目覚めを告げる暁鐘であり、同時に、近代哲学の広大な流れの礎石をおいたのである。
 炉部屋の啓示以来、九年の歳月を貫くものは、神の束縛から解放された人間が、なお生きる基盤を求め抜く、自立への意志であった。その苦闘の足跡は、″コギト″の名とともに、永遠に人間解放の歴史上から消えることはあるまい。
 いわゆる哲学の″第一原理″を見据えたのちのデカルトの関心は、形而上学を根本として、ほとんど学問全般におよんでいる。若き日の啓示にあった「諸学問の統一」という課題を忠実に実行しようとしたわけだが、ここでは割愛しておきたい。
 私が、デカルトの思想遍歴に注目する最大の理由は、混沌に直面した彼の目が、まず″内″を向いたということである。自身「運命に、よりはむしろ自分にうち勝とう、世界の秩序を、よりはむしろ自分の欲望を変えよう、と努め」『方法序説』たと述べているように、内面を凝視することが、彼の第一義であった。その点がパスカルと同様、彼を、当時の多くの科学者や数学者と分かつ点であった。彼らが、超一流の科学者でもあっただけに、この事実は、なおさら際立ってくるのである。
 事にあたって自らを省みるということは、人間誰しも困難なものだ。ややもすれば、混乱の渦中に巻き込まれ、右往左往を繰り返してしまう。時代が濃霧に包まれていれば、なおさらのことである。アテナイにおけるソクラテスとともに、デカルトも、ほかならぬ″汝自身″を問うことから出発したのであった。その掘削作業、内面への問いかけの深さが、以後、数百年にわたる彼の哲学の影響性を支えていたといえるであろう。
 だが、その掘削作業は、岩底まで至っていたであろうか。最近の深層心理学は、意識の極限ともいうべき″コギト″をさらに突き抜けたところに、なおかつ大海のような無意識、集合的無意識層が広がっていることを解明している。それは、縦に人類数千年の歴史を通じ、横に世界をも包み込む広がりをもっという。それに対し、デカルトの″コギト″は、あくまで個我であった。「私は考える、それゆえに……」の保証するものは「私」の存立する基盤のみであった。
それは、ユングやフロイトの深層心理学には及びません
仏教で説く大我には遥かに及びませんでした。
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この回答へのお礼

コメントありがとうございます。
>デカルトの″コギト″は、あくまで個我であった。<

そこが違うんだな。我とは人間全般にも共通するものでもあるし、人間個人であるデカルトにもあるものなのだ。「思いがある=我」我とは人間のイデアを示している。個人的なイデアはまた別のものだ。

お礼日時:2023/08/29 06:49

西洋人の自己はデカルトのいう通り主観による観測によって成り立っています。


そして人間が動物と異なるのは理性があるからだと西洋人は考える。

しかし我々東洋人は違います。

東洋人は自己というものは周囲に観測されることで成り立っていると考えます。
そして人間も森羅万象の一部でしかなく、理性を持とうが動物と変わらないと考える。

日本人が世間を気にし、主観視点のゲームより三人称視点のゲームを好むのはそのせいだと言われています。
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この回答へのお礼

コメントありがとうございます。
>しかし我々東洋人は違います。<

東洋人も人間であれば同じです。人間は知性を持つ動物です。ゆえに人間だけに在るものそれを人間のイデアと言います。

お礼日時:2023/08/29 06:26

パスカルとデカルトは理性の評価において対照的ですが、それは理性を違う側面から評価したからだとも言えます。

なので「パンセ」の一番有名な一説においてデカルトの思想を考えるのも無駄ではありません。

「自分の命のわずかな持続が、前後の永遠の間に挟まれていることを考えるとき、また自分がそこにいて見てもいるわずかな空間が、私が知らず私に縁のない無限の空間の中に沈みこんでいくことを考えるとき、わたしは恐れとおののきを感じ、自分が何故かしこにではなく、ここにいるのかと自問するのだ。わたしをここにおいたのは誰なのか?誰の命令、誰の指図によって、この場所とこの時間がわたしに割り当てられたのか?」

デカルトの「考える我」とは、自然に打ち勝つような強力な権力を備えたもの(たるべし)という評価です。それをパスカルはもっと謙虚に考えています。人間の動物と分かつべき「理性」などは小さきものである(しかしそれにもかかわらず偉大である)というのがパスカルの立場です。
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この回答へのお礼

コメントありがとうございます。
要するにパスカルもこれについて良く分かっていないと言う事でしょう。

お礼日時:2023/08/29 06:22

「どんなに否定しようが「思うな何かが在る」だけは否定出来ない」と言う事が「我思う故に我あり」の本質ではありません


「我思う我あり」のその本質を知るには「我思わず我無し」を理解しなければならない
因みに「我思わず我無し」とは我をおもわないので我を思う我をすらも無いと言う事
つまり我という存在が観念でしかないと言う事する。我が観念であるので我が思うその思うも当然観念
そう思わせる理性もまた観念
つまり全ては観念によるもので存在していないと言う事
故にその本質は理性でなく情報となります
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この回答へのお礼

コメントありがとうございます。
我思わずなんてない。思いは絶対に否定できないのだから。
我とはすべての人間に共通する我であり、これは人間のイデアと言う事だ。

お礼日時:2023/08/29 06:20

もっと研鑽しなさい。

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この回答へのお礼

コメントありがとうございます。

お礼日時:2023/08/29 06:20

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