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今どきは、問われて「大丈夫です」と答えることが、一般となってきているようです。

「今日、この後に飲み会に行かない?」「大丈夫です」
「領収書は必要ですか?」「大丈夫です」
「お代わりはいいですか?」「大丈夫です」

この「大丈夫」を使う心理を見つめてみると、「行きません」「不要です」「いりません」とストレートに云えないから、でしょうね。
云い換えれば、自身の気持ちをはっきりと云えない、伝えられない、と云う事です。

そう思うと、何やらこの先の日本の行く末を案じてしまいます。

「こんな柔な精神で、今後に起きるであろう激動の世界を、乗り切ることが出来るのだろうか?」と。
このように問われた、貴方のご返事は「大丈夫」ですか?

※ こんな柔な精神状態の“国民”で構成されている日本と云う国の存在は消滅してしまう、と思っているのですが、このような取り越し苦労をする私は「大丈夫」でしょうか?
それとも、こうした考えを持つこと自体が、狂ってますか?

質問者からの補足コメント

  • 回答を頂きながら、思いました。

    言葉には、重みとか軽さとかが、あるのだなぁ、と。

    言葉の重みが、軽くなって来ていませんか?

      補足日時:2023/09/15 21:09
  • 「マジで。」を、受け止められました。だから、「仏心からでしょ?」の問いかけ言葉は取り消します。

    私に対しては以前同様、変化球を投げてくるから、バットがボールに当たらないのです。
    それに“姿勢”も変わってませんしね。

    多分、木造さんは“高みの見物者”なのでしょう。

    No.16の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2023/09/16 09:05
  • 何となく思っていたことを、はっきりと回答して下さった人が現れました。

    これで、この質問は閉めようと思います。

    学ぶところ、多かったです。
    皆様、有り難うございました。

      補足日時:2023/09/16 18:26

A 回答 (30件中1~10件)

一時はやった「僕的には・・・・・」、と似たようなもの。


僕的→自身の主張を強く出さない・・・、とも言われますが、実際のところは、批判、責任追及を逃れるため、自己責任皆無なんですね。
女性に多いのが、典型が痴話喧嘩?で「死んでやる!」、「さよか、首つるんやったら足ひっぱたるで」俺だったらそう言ってやる、と言っていた男性もいます、きわめて善良な良心を持った相手でないと、通用しません。
その他、迷惑、やたら副詞の類を使い倒して、大げさに表現、相手がビビッて、相手が勝手に判断して行動すれば、言ったほうに責任はありませんね。
>云い換えれば、自身の気持ちをはっきりと云えない、伝えられない、と云う事です。
と言えばかわいらしい、と言えばかわいらしい、でも、もっと言いなはれ。
すべて他人任せで自己責任皆無、どう、とでも受け取れるので聞いた側が勝手に判断の必要がありますね、言った当人は、そんなこと言っていません、批判も責任追及もかわせますね。
詐欺師の「まあ、元本保証みたいなもんですわ」。
確かに「元本保証です」とは言っていませんね。
なんのことはない無責任体質丸だし、なんです。
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この回答へのお礼

私はそこまで厳しい見方はしていませんが、おっしゃるように責任回避的心情が有るのではないかと、薄々とですが感じます。

若者達が使うようになった「大丈夫です」を、大人たちも使うようになって、定着するという図式なのでしょう。

こうした柔な言葉が、いとも簡単に普及すると云う日本の社会に、先行きの不安を感じてしまう、という処からこの質問を思い付きました。

お礼日時:2023/09/16 18:21

はい(^^)普通に使ってます。

ストレートに言いたいのですが私の知り合いはストレートに言われたら逆ギレする人が多く(もう既にストレートに伝え済みです)うんざりして表面上だけの付き合いしてます。好きな人(彼氏)や好きな友達には和気あいあいとした深い付き合いをしていますけどね。私は柔ではないと信じたいですが結果的に柔かもしれません。ですがハッキリとNOを周りの人々に言えます。だから逆ギレされる事が多いです。表面上物腰の柔らかい人間でいることも多いです。普段は波風立てません。
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この回答へのお礼

日本人は、精神の繊細さを誇るばかりでなく、自身の気持ちをはっきりと“主張”することの、必要性に気付くべきですね。

曖昧な言動からは、あいまいな交際しか生まれないでしょ?。

★ もう、今の日本人には潔さなんて、無くなりましたね。

お礼日時:2023/09/16 17:58

私は表面上「大丈夫です」と言う波風立てないタイプです。

ですが心の中では悪人やパワハラ野郎セクハラ野郎に食って掛かります。気性は荒いです。
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この回答へのお礼

あいのさんも、普通に“大丈夫です”を使ってますか?

お礼日時:2023/09/16 15:17

個人の人生と日本の未来を一緒にしてしまうとそうなりますよ。



昔から「そうであった」はずです。改めて気が付いて「このままでは不味い」という気持ちを持ったわけです。しかしそれ(心配を始めた人)は自分だけでは無いと思ってください。その上で「何とかなってきたのは何故か?」と考えると面白いと思います。

「この人は大丈夫なのだろうか? 心配である」

と言う人が沢山いたという事ですよ。

以下は長いのでお暇なときにでもどうぞ。

先日「子供が言う曖昧な言葉を無視せずに言いたいことは何なのか探り出して、言葉の言いかえをしてあげることで子供のストレスが抜ける」と言う記事を読みました。質問者さんが言う様に「自分の考え」を上手に伝えられず、ストレスをためてしまうというのは子供の頃からあるということです。

「物事を解決するには本人の意思だけではなく、他の人
 の共感(心配)を引き出せなければならない」

この様に発想転換してみてください。私たちには「大丈夫」という言葉を聞くと「無理をしていないか?」と心配する習慣がありませんか? 言葉の意味だけではコミュニケーションじゃないんです。周囲の反応を前提にしての文化であり、暗黙知も雄弁に語るんですよ。「自分の意思を正しく表現する甲斐(=心配している人が沢山いる状況なので意味がある)がある」というわけです。

「自分の考えを伝えても協力する気が全くない集団を作
 りあげていたら意味が無い」

なので質問者さんは「心配させられるシーンが多くて心が疲れる」と言っているのであって「そういう人(質問者さん)がいる日本の将来」が暗いとは思えません。またそういう話をして大丈夫だと質問者さんが思っているという訳でして、そこに暗黙知があると私は思います。

また先ほどの記事から読み取れるのは、

「子供たちが使う言葉の印象を乗り越えて、本当は気の
 優しい素直な子供が言葉遣いを知らないだけかもしれ
 ないと考える大人が現存するという事である」

ですよね。「こういう事がいいたんじゃないの?」という和訳は日本語に対しても行いますよね? そういう事をされたりしたりした経験は誰にだってあると思います。

「日本語は曖昧なのではなく繊細であり、操作が難しい
 「人間のプロ」のプロ仕様言語である。その場を凌ぐ
 活用法も可能であるが、自分の感じ方や思いを繊細に
 表現しようと発想を変えると奥が深い」

結局のところ「言葉の通り信じてしまう危険」と言う点に集団の防御力がドレくらいあるのかが重要になります。この時に自分を標準に考えてしまえば心配の度合いも大きく成りますし、かといって、(全ての人が)「考えても仕方ない」と言って投げ出してしまえば(確かに)日本全体として問題に成ります。

「心配で仕方ないという人を探し出して、解決にあたれ
 るように他の仕事を免除し、皆で助けてあげるという
 方法を取れば良い」

仏教の中で千手観音の話が出てきますよね。お釈迦様が「天上天下唯我独尊なんだよ」と諭しても「ほおって置けない自分はどうしようもない」と心配と手助けを辞めなかったそうです。そのため好きなだけ人助けが出来るようにと千本の手を与えたとか。

ですので「正しい」としか言わない人には力を貸さず「心配である」と言う人に「こういう正しさがある」「こういう状況である」「こういう対立がある」「こういう幸せがある」と色んな情報を与えて「こういう解決方法がある」「こういう妥協がある」「こういう人が助ける力を持っている」「こういう頼み方をしないと上手くいかない」などの解決方法も教えるわけです。

ただし「力を貸した人は、その人に任せて自分は心配をしないで良い」という暗黙の了解がある事も事実です。これがまたいいんですよね。

何故かというと、

「心配で仕方なかったので助かります」

と言ってくれる場合は正しい人を選んで力を貸したことになります。

「俺はそれは正しくないと思う。
 俺の意見を聞いてくれよ」

等と反応する人は「そこまでじゃない」という事で力を貸さないで良いと分かるからです。「天上天下唯我独尊」を守るためには千手観音のような人を見つけて力を貸すべきであり、「何が正しいのか」ばかりを語る人を選んではいけないという事でしょう。無駄に成ります。

なので正しく(笑)表現するならば、

「大丈夫等と言う曖昧な言葉を使う若者に出会うと
 その子が自分の思考をまとめたり、自分の願う事
 を明確に出来ず、ストレスをためて自分に負けて
 しまうのではないかと心配になります。そういう
 子供が増えていないか?と日本政府や大人達が手
 を打っていないのではないか?と思って不安にな
 りまいた。私の情報が不足しているだけなのかも
 しれませんが、私の方の気がめいってきました。
 皆さんはその様な気持ちにならないのですか? 
 だから皆さんに何かしろと言う訳じゃないんです。
 心配で苦しくなったので何某か安心できるような
 話が聞けたらと思い、質問の形にして見ました」

と言う表現があってるんじゃないでしょうか。日本の将来と個人の人生については分けて考えませんとね。「実は大丈夫である」と言う人が沢山いるというのが現実かも知れません。

「曖昧な言葉を使い続けて本当に自分の望みを分か
 らなく成る人が出てきてしまうのは、その人を心
 配する人が傍にいないか、その人を心配する人も
 同じ状態であるためである。それに対しては個人
 の人生とし、その人が自力で解決する事が望まし
 い。しかし心配で仕方が無いという人には手伝い
 くらいはしないといけない」

つまり、私は貴方を心配して回答をするわけであり、その上で「そうしたくない人」には回答しないわけです。これは個人の感じ方による自由意思での行動です。

では人は生まれた時から自立できていたのか? と問うとそんなわけないです。非科学的な話になりますよ。なのでいつの間にかそうなったんですよ。ではそれまでの間「どうして大丈夫だったのか?」と言う謎が出てきます。そうならないでも大丈夫ならば無駄な話ですし「そうなるまで誰かが助けてくれていた」と言うのが正解であるならば「今度は自分が助ける側になる」というのが筋でしょう。

「自分一人で自分が立派になったのだという人が増
 えてしまうと日本はダメになる」

という事は言えると思います。「こっそりと助ける」という営みに意義を見出せず、この習慣(想い)が継承されなくなるからです。

「こっそり助けられていたのに、それに気が付かな
 い鈍い人をこれ以上助けるべきか? という問題
 で常に悩む。しかしそれは俺の限界でしかなく、
 他の人間のプロは耐久して何とかしてしまうかも
 しれない」

という風に考えれば、日本はストレス耐性の化け物ばかりがいると思いますよ。そんな中で「日本人は気づかいしすぎる」と否定から入り「自分が正しい」と言ってしまうのは日本人的には「自分に負けた人」ですよね。

「オープンマインドとかどの口がいうの? 相手に
 改めさせたいって本音が出てるじゃないの?」

ですよね。私が思うに日本は日本人にとっても「人間のプロ」のレッドオーシャンですよ。ここに参加するのは大変でしょう。

また「自分は弱いのでは?」と考えてしまう日本人がいても仕方がないです。不安になるでしょう。ですので縦に繋がることが大事だと思っています。

「俺も昔はそうだった。今の俺を見て君はどう思う?
 大丈夫だよ」

と先輩方に言って貰うだけでいいんです。それを聞けば自分の力を取り戻せますからね。その言葉を聞くだけで良いのですから簡単でしょう。

しかし「その言葉を貰うための努力」くらいは自己責任としてするべきだと思いますよ。それすらせずに勝手に自滅する人達が増えてしまうのならば「日本は大丈夫か?」ではなく「その様な国民しかいない日本は生き残ってはならない。世界の為に成らない」と言う話になりかねません。

「日本は大丈夫か? と言う前に、こんな自分を生
 かしておく日本は生き残って良いのか?」

と自問自答するほうが日本人らしいと思います。そういう人がいたら私は慰めたいと思いますし、幸せに成って欲しいと思いますし、ずっと心配していたいと思います。それが自分の幸せの一つだからです。

雑駁としました。同じことを心配している人が沢山いるということ。その中で心配で仕方ないという人(自分より心配してそうな人)を無理のない範囲で手伝えば何とかなる(大丈夫)という事です。

(気が向いたら)「平易な言葉で言い換える」というお手伝いを(少しでもいいので)しようと思う事で解決すると考えています。

以上、ご参考になれば。
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この回答へのお礼

この質問上での私が、Gloryさんの見立て通りの人間であれば、頂いた質問文の模範は非の打ちどころがありません。

でも私は、頭を抱えて悩んでいる訳ではないのです。
日本語の乱れ、と云う言葉がありますが、そうした思いを含めた上で「大丈夫です」という挨拶に、なんか力のなさを感じてしまうのです。

相手への気遣いの言葉として、使われ始めたのかもしれませんが、広まったという事から考えると、使う人達の、既製品を使う“安易さ”を感じてしまうのです。

お礼日時:2023/09/16 15:16

日本人には「他人に迷惑をかけない・面倒をかけない」という倫理観があります。

この倫理観が聞き手に聞く手間をかけないとなりそれが省略に繋がったのです。
「一言で済むなら一言で済ます」
という事です
これは逆の立場にも当てはめられること。つまり話し手に手間を話す手間をかけさせないと言う事です
一言で済ますために聞き手は省略された文言を埋め合わせるのです。これが「一を聞いて十を知る」と言う事です。 
上記をまとめると
話し手は「一を話して十を知らせる」
聞き手は「一を聞いて十を知る」
となります 
話して・聞き手共に一言ですがその言葉の奥には10の意味合い隠されているのです
たった一言ですが10の重みがあると言う事です
これが「省略の美学」です
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この回答へのお礼

頂いた説と“大丈夫です”が繋がってるとは思えないのです。

この言葉が使われることになった“動機”は、違うところにあるような気がしまて。

だから、調べてみたいとは思うのですが、なんせ我が頭が思うように働いてくれません。

お礼日時:2023/09/16 14:47

>「今日、この後に飲み会に行かない?」「大丈夫です」



自分が誘った側なら、「OKってことですか?」と聞き返します

会話とは、一度のやり取りで全て終えなければならないわけではないので、分からなければ聞き返せばいいだけの話
質問者の危惧は無意味です

また海外では、日本語を使えない外国人と日本語で会話することはないので、仮に英語であればYes・Noをはっきり伝えることになり、ここでも質問者が危惧する問題は起きません
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この回答へのお礼

意味が通じてしまう事に危惧しているのです。

お礼日時:2023/09/16 13:07

日本人は省略が好きなんだと思います。


「いいです」「結構です」「大丈夫です」、文章の末尾で使う相手に柔らかく伝える表現のような気がします。
自分の問いの末尾に付け替えると、意味が解ります。

私は子供の頃、延々と状況を説明して相手に理解して貰おうと話していました。ある時気が付きました。状況説明は、自分が何を話そうとしているのかも判らなくなります。それから、省略の方が伝わり易いと判断できます。会話では、相手に考えて貰うことが必要なのです。
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この回答へのお礼

省略挨拶言葉が一部に、あるいは若者に、自然と抵抗なく通用することになってしまうところが、怖いですね。

★ 安易さの裏に潜む黒い影が次第に濃くなって来ている。

お礼日時:2023/09/16 12:18

お礼について〈ないから、違和感を感じる人がいるのではないでしょうか。



確かに昔は私も違和感を感じておりました。
しかし、今でもよく聞くフレーズなので特に違和感は感じておりません。
皆さんそうだろうと思いますので“立派に”通じていると表現した次第です。
それに違和感があった昔でも、私は意味は十分理解できましたし、皆さんもそうだったのではないでしょうか。
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この回答へのお礼

ヤッパリ馴れ、ですかね。

私は人付き合いが少ないので、あまり体験してませんが、ここで接しているうちに違和感が減じてきているようです。

★ やばいなぁ。

お礼日時:2023/09/16 10:26

曖昧文化の日本だからいいんじゃありませんか



アメリカの様にイエスかノーではなく、曖昧な言葉が多い日本だからいいんじゃありませんか、そして日本語は曖昧な言葉が多いと言われることがありますが、それは日本の文化やコミュニケーションの特徴の一つでもあります。日本人は相手の気持ちや状況を察することが重視されるため、はっきりとしたイエスかノーではなく、曖昧な言葉を使って表現することが多いのです。これは、相手に配慮したり、自分の意見を押し付けなかったり、調和を保ったりするための方法として、長い歴史の中で培われてきたものだと考えられます。

しかし、日本語だけが曖昧な言葉を使う言語ではありません。世界には他にも曖昧な言葉を好む言語や文化が存在します。例えば、中国語や韓国語も日本語と同様に敬語やニュアンスによって意味が変わる言葉が多くあります。また、アラビア語やトルコ語などの中東や中央アジアの言語では、直接的な否定や拒絶を避けるために、曖昧な返答をすることが礼儀とされています。さらに、フランス語やスペイン語などのロマンス系の言語では、比喩や暗示を多用して美しく表現することが好まれます。

これらの言語や文化は、日本と同じように曖昧な言葉を使う目的や効果が異なるかもしれませんが、共通しているのは、コミュニケーションにおいて相手との関係性や感情を重視するということです。曖昧な言葉は、単に不明確であるだけでなく、柔軟で豊かな表現力を持つものでもあるのです。
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この回答へのお礼

成程。

日本以外でも曖昧な表現を使う国が結構あるのですね。

多分、違和感を感じる原因は“語感”ではないかと、思い始めています。
それと“過ぎる”と云う感じも有るのではないでしょうか。

丁寧語も、それが過ぎると不快感が生じますし、へりくだる姿勢も同様です。

※ 私は「お売りください」という言葉が、いつまでたってもなじめません。

お礼日時:2023/09/16 09:38

「自身の気持ちをはっきりと云えない、伝えられない」のではなく、「自身の気持ちをはっきりと云わない、伝えない」のです。



それでいながら「大丈夫です」で意味は立派に通じている。そして「行きません」「不要です」「いりません」よりも拒否の語感を弱めている。つまり、相手が受ける拒絶感を弱め、人間関係を婉曲に保とうとしている。

以上のことから考えれば、「大丈夫」は言葉の軽重ではなく柔軟性で測るべき問題と思います。
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この回答へのお礼

“立派に”通じてないから、違和感を感じる人がいるのではないでしょうか。

お礼日時:2023/09/16 09:26

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