10代と話して驚いたこと

司馬遼太郎が神学について次のように書いています。

<ヨーロッパにおいては、
ーー神などあるはずがないではないか。
というただひとつの常識的疑問を破るために、むかしからいまにいたるまで、あるいは累計何千トンになるかと思えるほどに多くの神学論文が書かれてきたのである。>

質問は、賢者の皆様は上記の説明にうなずかれますか?

A 回答 (2件)

進学論文の主たる意志が神の存在の肯定だから この説明の主張は論理的だ。



ただし 「神などあるはずがないという常識的疑問」という言葉は 「誰もが神などあるはずがないと思っているのが常識だ」と主張している。
これについては見識が狭義だろう。

死に臨んで祈る者 教会で祈る者 子どもの手術の成功を祈る者。
こういった行為もまた 常識的なものだ。
多様性のある価値観の上では 司馬遼太郎氏の定義は 「おかしい」となるだろう。
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この回答へのお礼

早速のご回答ありがとうございます。
前提になっている<「神などあるはずがないという常識的疑問」>が妥当でない、ということですね。

お礼日時:2023/10/05 12:23

ピント外れの内容だと思います。

神学の論文は基本的には神の存在を証明しようとするものではないからです。「神が存在してイエスがキリストである」と言った事を前提として認めた上で「この問題についてどう考えるべきか」と言う事を論じているのが神学の論文です。
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この回答へのお礼

早速のご回答ありがとございました。
<ピント外れの内容>なのですね。
神学は、神の存在を前提にして<「この問題についてどう考えるべきか」と言う事を論じているの>のですね。

お礼日時:2023/10/06 16:33

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