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キリスト教の原罪と 贖罪について質問です。

まず2つの 聖句をあげると、

(創世記 1:28 )
神は彼らを祝福して言われた、「生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ。また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ」。

(創世紀9:1)

それで、神はノアと、その息子たちを祝福して、彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地に満ちよ



とあります。

神様は人を増やそうと命令していて、誰かを殺そうとは命令しておられないと思います。
人を減らすようなことはしない。

むしろ 生まれることを望んでおられる。

これを確認したいと思います。


一方で アダムとエバが蛇にそそのかされて、食べると死ぬことをになる 知恵の実を食べてしまった。

2人は神のようになるという言葉を受けて、食べてはいけないと言われた 知恵の実を食べて 神様に背き、罪をおかし、永遠に生きる見込みを失って死ぬことになった。

これが 原罪ということだったと思います。

そこへ、こ の原罪を贖うために 代償として イエスキリストの命を 十字架にかけた。
イエスキリストがその死を持って 原罪を償った贖ったということだと聞いています。


そうすると、現在によってアダムとイブが死ぬことになった この2つの命、まず2人がいなくなるわけです、そしてこの子孫 もう 原罪を引き継ぐので、これらはの命も失われたわけです。

これで 無数の命が失われることになります。

人が死んでいなくなるわけです。

言葉が直接 すぎたらごめんなさい。

それなのに贖罪によって、イエスキリストの命も失われます。

十字架にかけられて死んでしまうからです。

と考えると、人がひたすら失われていませんか?


それはこの文章の冒頭であげた、創世記の2つの聖句「生めよ 増えよ 地に満ちよ」という神様の命令や意志に矛盾してるし 反してると思います。

神様は人を増やしたいわけです。
命を増やしたいわけです。

ところが この 原罪と 贖罪の考え方では、ひたすら 人が減っていきます。

一説によれば神様は 十字架にイエスをかけられることを計画にされ、イエスの前の時代に生まれてきた 預言者たちはイエスが十字架にかけられることをあらかじめ 述べていた。

イエスも十字架にかけられる前日に、ペテロによって 十字架にかけられるようなことがあってはなりませんと言われたけれども、イエスはペテロをあなたは人のことを思って 神のことを思っていないと退けて、十字架にかけられます。

もちろん イエスは様々な 奇跡を起こす力を与えられていたので、十字架を避けることもできたでしょう けれども、十字架にかけられる方を選んだ。

でもそれって本当に神様が望んだことなのかなと思います。

先ほども言った通り 神様は誰の死も望んではいなくて、むしろ人が増えていくようにと思っているわけであって、アダムや エヴァ それの子孫の死もイエスの死も望んでいないと思います。

では 何なんだろうと考えた時、サタンの思惑ということが浮かんできます。

永遠の命を見込まれていたアダムとエバをそそのかし 知恵の実を食べさせて、死に追いやり、原罪を贖う 目的でイエスキリストを十字架にかけ、死に追いやり、大勢の人を死に至らしめた。

例えば アダムとエバが原罪を負った贖いとして、イエスの死によらなくても あるいは、新たな命を誕生させることによって贖わせることもできたと思うんですよね。

アダムとエバの原罪を贖う方法として、もしあなたたちが新しい命を誕生させれば、赤ちゃんを生み出せば、あなたたちの原罪を取り払いましょうと全知全能の神様ならできたと思うんです。

ということは原罪による死、その子孫の死、 それを贖うための死、これらはとても サタン的だなと思います。

死ぬことでしか 何かを表現できないからです。

神様ならば 誕生させることで全てを表現してくれるんじゃないかと僕は思います。
イエスの贖罪後も 人は死んでいます。
本当に神様が望んだ贖罪であれば、それが神様的なものであれば、直ちに 永遠の命が与えられると思うんです。
それから 2000年経ったと言われる今も人は死んでいきます。それは 原罪と 贖罪がサタン的なものであり、神様の意志にそぐっていないからじゃないですかね。
例えば 子供がお腹を空かせて親に食べ物を求める時。親はできるだけ早く食べ物を与えたいと思うと思います。
ところが 永遠の命が与えられるのは 今ではない。死を恐れ 苦しむ人もいるのにです。神様ならば 直ちに 永遠の命を与えてくれるんじゃないですか?
原罪、贖罪、 ハルマゲドン、 復活はサタン的じゃありませんか?

、各キリスト教 宗派が述べているような、イエスが十字架にかかって原罪を贖ったという話を否定しているわけではないです。

少し 十分に 言語化できてないところもあり、大きなコンセプトを説明しきれていないとは思います。

神様は人を増やそうとする、サタンを人を減らそうとすると基本的な認識に立って、ならば イエスを十字架で殺したのもサタンだと言えるとます。
つまりこの贖罪の方法はサタン的だと。逆に
神様によれば誕生的にすることもできる。
神様はこのサタン的な贖罪を容認しているけど、(サタンが支配権を主張し、一時的に世界を支配)、その方法は神様的ではなく、最善ではないという趣旨です。


これは、神様ならば、もっと誠実で人間にあたたかい寛容な方法を取ることができるという、神様への信仰と信頼に基づいたときに、考えうることだと思います。

例えば イエスは弟子たちに7の70回 許しなさい 大いに許すことを教えていると思います。
神様であればその子である イエス 以上に人々を許すことができるんじゃないかと、果てしなく 許すことができるのではないか、すなわち原罪であってももちろん見逃すわけではないけれども、イエスの犠牲によらずもっと豊に 寛容に許す方法を持っておられるのではないかという疑問です。

その 寛大さを信頼した場合に 今回の質問が生まれてきました。

どう ぞこ回答ください

ご読了に感謝します

A 回答 (2件)

キリスト教の原罪と贖罪に関しては、


キリストを十字架にかけた原因となったような
諸悪の根源からの流れを原罪として
その贖罪のために
強くて横暴なやり方に対しては
他力が機能して協調体制をとる必要がある、
という考え方でいいのだろうと思います。
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神という表現を使っていても、創世記(旧約)と、イエスキリストが出現して以降のものと、神が違っているという考えはしないのでしょうか。


日本という言葉でも、7,8世紀、15世紀、17世紀、19世紀末、1930年代、1980年代以降でも、意味が違うと思うのです。

創世記6章では
6 主は地の上に人を造ったのを悔いて、心を痛め、
7 「わたしが創造した人を地のおもてからぬぐい去ろう。人も獣も、這うものも、空の鳥までも。わたしは、これらを造ったことを悔いる」と言われた。
8 しかし、ノアは主の前に恵みを得た。
13 そこで神はノアに言われた、「わたしは、すべての人を絶やそうと決心した。彼らは地を暴虐で満たしたから、わたしは彼らを地とともに滅ぼそう。
創世記8章では
20 ノアは主に祭壇を築いて、すべての清い獣と、すべての清い鳥とのうちから取って、燔祭を祭壇の上にささげた。
21 主はその香ばしいかおりをかいで、心に言われた、「わたしはもはや二度と人のゆえに地をのろわない。人が心に思い図ることは、幼い時から悪いからである。わたしは、このたびしたように、もう二度と、すべての生きたものを滅ぼさない。
創世記9章では
11 わたしがあなたがたと立てるこの契約により、すべて肉なる者は、もはや洪水によって滅ぼされることはなく、また地を滅ぼす洪水は、再び起らないであろう」。
12 さらに神は言われた、「これはわたしと、あなたがた及びあなたがたと共にいるすべての生き物との間に代々かぎりなく、わたしが立てる契約のしるしである。
創世記13章では
10 ロトが目を上げてヨルダンの低地をあまねく見わたすと、主がソドムとゴモラを滅ぼされる前であったから、ゾアルまで主の園のように、またエジプトの地のように、すみずみまでよく潤っていた。
11 そこでロトはヨルダンの低地をことごとく選びとって東に移った。こうして彼らは互に別れた。
12 アブラムはカナンの地に住んだが、ロトは低地の町々に住み、天幕をソドムに移した。
創世記19章では
24 主は硫黄と火とを主の所すなわち天からソドムとゴモラの上に降らせて、
25 これらの町と、すべての低地と、その町々のすべての住民と、その地にはえている物を、ことごとく滅ぼされた。
26 しかしロトの妻はうしろを顧みたので塩の柱になった。
27 アブラハムは朝早く起き、さきに主の前に立った所に行って、
28 ソドムとゴモラの方、および低地の全面をながめると、その地の煙が、かまどの煙のように立ちのぼっていた。
29 こうして神が低地の町々をこぼたれた時、すなわちロトの住んでいた町々を滅ぼされた時、神はアブラハムを覚えて、その滅びの中からロトを救い出された。

創世記の中でさえも、神は、しばしばほぼ全滅を何度もします。 救うのは神が好意をもった一人あるいは数人だけです。
神はしばしば方向が異なる決定をし、即実行します。 いつも同じ方針を堅持するとか、一度約束したことでさえも、ほぼ無視して、別の決定を、その時の気分ですることは明らかです。 サタンの存在や影響で、やむえずに神が方針変更しているのではないです。

原罪があるので罰せられるという理解の仕方で、自分や仲間を納得させようとするのは心理的防衛機制のなせることであって、神は、人間の行為や原罪を問題にしているのではないです。 そんなものが問題であるならば、全能の創造主造物主である神は、罪など一切なく、悪事・悪心を起こさない人間や蛇を造ればよいのです。 神がそうしないのは、適宜、その時の気分で、自分の力を発揮したいからです。 そうしなければ、神は最初の創造で、もうやることがなくなり、神が存在し続ける意味もなくなってしまうのです。
画家や陶芸家、ゲームクリエーターが、一度作品を作って、それに満足しても、やがて、別のを造るため、前の作品を破壊したり、処分したり、もう過去のことをしてしまうのと同様なのでしょう。

だから、神は、性懲りもなく、イエスを下し、贖罪のために死を与えます。
しかし、それで終わったら、神の存在がもう無用になってしまうので、繰り返し、人や教会にも悪いことをさせたり、それを問題にして魔女狩りさせたり、宗教改革させたり、戦争させたり、革命を起こさせたり、汚職や詐欺、ハラスメントなど、いろいろその時の気分で、やるのです。

7の70回分許されたら、71回目も78回目も、93回目も裏切り、誤魔化し、暴力行為や不正を繰り返す   そういうことがなくなったら、神はもう存在価値がなくなってしまいます。
法律、刑罰、警察、軍隊、兵器、そうしたものの新規開発、強力化がいつまでたっても、必要になるのと同じです。
きれいさっぱり清純無垢で、争いも憎しみも嫉妬、羨望、怒り、悲しみも、疲労もなく、衰えや病気障害、老化もなくなったら、
優秀とか、向上とか、効果を上げる上げない、努力のし甲斐がある、そういうのも大事でしょう。 

何もなくなったら、それはヤバいというように考えてはいかがでしょうか。
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