
No.4ベストアンサー
- 回答日時:
淀殿は三姉妹の中で最も母親のお市の方に似ていたと云われる。
多分、淀殿は母親の容姿だけでなく、プライドの高さも最も受け継いでいたのだろう。お市の方は北の庄城が秀吉に攻められて落城したときの淀殿は14歳くらいだから、大坂夏の陣で、自分が攻められた時、母親のお市の方がどのように行動したかはよく知っていただろう。
母は降伏を潔しとせずに柴田勝頼とともに自害したが、娘たちは逃がして秀吉に身を預けた。
自分が母と同じ境遇になった時、秀頼とともに自害したが、千姫を逃がしたのも似たような行動だ。
修羅場を生かされた人生だ。逞しさもあっただろう。
秀吉は関白と云う人臣最高位に登り詰め、天下人となった秀吉は惜しみなく淀殿に愛情を注いだ。そして淀殿はそれに応じた。母が憎み嫌っていた秀吉とはいえ、天下人の側室という立場は淀殿のプライドを満足させただろう。
淀殿は関ケ原の戦いではあくまでも中立を貫き、西軍側の西軍に利する要請をすべて拒絶している。東軍勝利後も家康を筆頭大老とする豊臣政権を維持することしか考えていない。家康は徳川幕府成立後に豊臣も臣従するように度々淀殿に要請しているが、これも悉く拒絶した。
もし、早めに家康が死に、加藤清正が長生きしていれば、本当に豊臣秀頼政権が誕生した可能性がない訳ではない。
淀殿は秀頼の成長後の天下人は秀頼しかいないと思っていたし、徳川と戦争になってでもそれは達成されねばならないと強く思っていたはずだ。
それは、家康が生き続け、加藤清正など秀頼に忠誠を誓っていた有力大名が次々と謎の急死を遂げた後でも変わらなかった。
プライドの高さと子を想う母親の妄念と言ってしまえばそれまでだが、彼女なりに母親のお市の方の如く筋を通したということではないだろうか。
No.5
- 回答日時:
#1さんに一票です。
大体、織田家はプライドを持てる様な家柄では無いですよ。
斯波氏が尾張の守護に任じられたので、一緒に来た家臣で斯波氏は
他にも領国を抱えていたので、尾張の管理を任されて守護代になった。
三つの織田家でも、織田弾正家は分家の中で最下位の存在でした。
藤原流の系図を名乗っていたが父親の信秀の代になってから平氏流を
名乗った、出自が良く解らない存在なのです。
最下位の織田弾正家が織田の本家を滅ぼし、更に斯波氏を追い出した、
下剋上の模範的な存在なので、松永久秀を始めとして反旗を翻した
大名が数多いたのです。
No.3
- 回答日時:
淀殿のことなら、個人的な感情では?
下剋上の時代、主筋と家来の立場が入れ替わる話なんて珍しくもなかったでしょうし、妹が秀忠の正室で嫁が徳川家の人間なのだからそちらを通してマイルドに対立を終わらせることは可能だったと思います。
もしくは歴史がそういう人物に仕立て上げたか、ですね。
No.2
- 回答日時:
織田信雄は、信長の子、三法師は孫、有楽斎はおじさん。
淀よりもっと信長に近い血縁がいましたが、軽視していますね。淀君は、傲慢で、時代の流れを読めない自己中心の、ワガママな人だったと。
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