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藤原正彦が次のように書いています。

江戸時代の和算家は、数学の難問が解けるとそれを算額(額や絵馬)に記し神社や仏閣に掲げていました。この算額は全国で820面ほど現存するそうです。

しかし、この算額が見あたらない県は、鹿児島・山口・高知・佐賀・熊本・宮崎の6県だけだそうです。
ところで、維新を推進した薩長土肥がこの6県にすっぽり入っていますね。

質問は、なぜ、薩長土肥では、算額が掲げてないのでしょうか?

A 回答 (3件)

算額がない地域では武家も庶民も和算に関心が無かったから、和算が娯楽として広まらず、それ故に算額が残っていないのでしょう。

その理由としては、人情風俗から経済上の事情、交通の便否、人物の輩出、奨励の有無等、幾多の要素が関わっていると考えられます。

元々、和算は京・大坂から始まったものですが、江戸時代に和算が盛んになったのは幕府のお膝元、江戸を中心とした関東地方であり、江戸の数学者が地方に出向くことによって広まっています。特に上州は関孝和など和算の大家を輩出した土地です。仙台藩も傑出した人は出ていなかったものの、数学者の数は多かったようです。

江戸で和算が発達したのは、江戸時代に参勤交代で大名たちが奥方や家臣と共に江戸に居を構え、藩の予算の多くを江戸で使っていたことと関係があります。参勤交代という制度があったことで、江戸は商業と経済が著しく発達したのです。ですから、幕末に松平慶永が参勤交代制度を緩めた時には、大名が江戸に拘束される期間が短くなったため、江戸は不況となってしまいます。江戸を中心とした地域では参勤交代で全国から集まった大名が経済発展に大きく寄与し、商業の発達に伴い、現実的利益を追求する実利的な人たちが集まりました。それゆえに武士も庶民も経済に関心を持っていたのです。そして経済は算術と繋がっているため、和算が発達し、やがて和算が娯楽となって、算額を飾る人たちも多く出てきたのです。

しかし、薩長土肥は江戸を中心とした一大経済圏から隔絶した土地、いわば僻地であり、それゆえに武家の関心は経済から派生する和算のような実利的方面に向かわず、理想主義的・精神主義的なことに向かっていきました。武家がそうですから庶民も同様に和算に無関心になって、ましてや和算を娯楽として楽しむ文化などできなかったのです。しかし、それゆえに、これらの潘では幕末に尊皇攘夷や倒幕思想が発展したと言えます。薩摩は天文理化を奨励した潘でしたが、和算には全く関心が向かず、土佐も同様に和算はさっぱりでした。長州と佐賀は、古来より、それなりに商業が発達した地域だったので、初期の頃には著名な数学者も幾らかは出ているのですが、その後が続かず、和算が関心を持たれなかったために廃れていきました。
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この回答へのお礼

早速のご回答ありがとうございます。
和算は経済活動に関係し、その中心地である江戸で発達して各地に広まったのですね。薩長土肥は、いわゆる僻地のせいで和算には関心が薄かったのですね。その代わり<尊皇攘夷や倒幕思想が発展した>わけですね。

お礼日時:2023/12/29 17:57

その地域の人間は知的レベルが低く、10以上の計算もできずに人殺しだけを考えている人間が多いから。

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この回答へのお礼

早速のご回答ありがとうございました。
人殺しの文化?とは、合い入れないのですね。

お礼日時:2023/12/28 09:50

算額の文化が定着していなかったのでは?

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この回答へのお礼

早速のご回答ありがとうございます。
定着していなかった、のですね。

お礼日時:2023/12/28 09:48

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