
多世界解釈とは、ヒュー・エヴェレット3世が1957年に提唱した量子力学の観測問題に対する一つの解釈です。この解釈では、重ね合わせ状態が干渉性を失って異なる世界に分岐していくと考えます。
つまりは、我々の宇宙は一個ではなく、一個の宇宙が次々と増えていくという考えです。宇宙が増える度に、我々自身も増えて行きますから、私という人間も一人ではなく、たくさんの私が存在する事に成ります。トンデモな考えに見えますが、今では世界を理解する上で有力な考えです。
物理学では、理論には数学的裏付けが必要です。多世界解釈を裏付ける理論はBT定理(バナッハ・タルスキーの定理)ではないでしょうか?
バナッハタルスキーの定理とは、3次元空間内で、球を有限個の部分に分割し、それらを回転や平行移動だけで組み替えることで、元の球と同じ大きさの球を2つ作ることができるという数学的な定理です。1924年にポーランドの数学者ステファン・バナッハとアルフレト・タルスキによって証明されました。
一つの球体を二つにできるのなら、当然、2つを4つに、さらには8つにもできるわけです。つまりはいくらでも増やせると言う事です。
更には、恐ろしい事に、BT定理では、小さな素粒子のような球体から、太陽の大きさの球体を作り出せると言うてます。従って、この理論も、多世界解釈の理論と同じように、トンデモな考えに見えますが、BT定理は「定理」を名乗る事が許されているだけあって、完全に正しい理論です。従って、多世界解釈とBT定理を組み合わせれば、多世界解釈の正しさを理論的に裏付ける事が出来ますよね?
つまり、電子銃から1個の電子が発射されたら、この電子は、直ちにBT定理を発動し、百分の1秒ごとに、あるいは百万分の1秒ごとに、BT定理によって、1個から2個に増えていくという事です。つまり、世界は電子であふれる事に成ります。
しかし、BT定理は、1個の素粒子から、太陽程の大きさの物を作り出せますから、電子がどんなに増えたとしても、電子の居場所が無くなる事は有りません。つまり、何を言いたいかと言うと、BT定理を発動すれば、宇宙を何個でも作り出せると言う事です。つまり、百万分の1秒ごとにBT定理を発動して、多世界宇宙を実現し、それによって、多世界解釈が可能に成ると言う事ですよね?
No.5ベストアンサー
- 回答日時:
お礼コメントの最後にあった、ある意味本題とも言える質問についてですが、一言で言えば「そんな事を考えた人は誰もいない」と言い切って差し支えないでしょう。
ひょっとしたら「BT定理を多世界解釈のヒントに」と言った人はいたかもしれませんが、そう言う人であっても「BT定理を多世界解釈の根拠に」とは絶対にするはずありません。BT定理が成り立つ由来は選択公理にあるわけですが、多世界解釈がここで言う選択と無関係な事はBT定理の事をきちんと知っている人なら考えなくても分かる事です。なのでBT定理の事を知っている人であれば余計に「多世界解釈とは無関係」と言う結論になるはずです。
そもそもの話「BT定理を発動」なる言い回しが意味不明です。BT定理に限らず数学の定理とはそれこそ天地創造の前から宇宙が滅びた後までずっとずっと成り立っているものであって「ある瞬間にだけ適用」と言った代物ではありません。それに多世界解釈は言うまでもなく物理学の理論です。物理学の理論を数学で証明する事はできませんし、実際証明された事は過去に一度もありません。
注:「ある物理学の理論から別の理論を定理として導き出す」と言う事はこれまでにも行われて来ましたが、定理として導き出したその理論が正しいかどうかと言う判断自身は数学では不可能です。
多世界解釈は、その言葉通り、多数の世界を必要とします。そこで問題に成るのが、世界をそんなに簡単に多数作る事ができるのか? と言う事です。
そこで、BT定理に注目するのは自然な事です。なぜなら、BT定理は一つの物から多数の物を作る事ができると主張しているからです。
そしてBT定理は正しいと証明されています。従って、正しいBT定理を基礎に、多世界解釈を組み立てれば多世界解釈も正しい事に成ります。
多世界解釈の優れた所は、二重スリット実験において、波から粒子に収束する、いわゆる波動関数の収縮問題に答えを出せる事です。
多世界解釈を用いなければ、波動関数の収束の背後にある物理的なメカニズムを説明できません。その「物理的なメカニズム」こそ「BT定理の発動」に他ならないのです。
No.7
- 回答日時:
シュレーディンガーの猫についてのお礼コメントにあった「明らかに馬鹿げている」と言う反応や、また二重スリット実験についての現代の物理学者が示している見解に対して「出鱈目」「支離滅裂」と言った反応で拒否するのは、科学においては非常に危険な態度です。
もちろんそう感じる事自体は何の問題もないでしょうが「どこがどう出鱈目なのか」と言った事を理性的に分析しなければ科学的な態度とは言えません。実際「出鱈目」「支離滅裂」「明らかに馬鹿げている」などと思われていた事が現在では科学的常識となっている場合も少なくありません。と言うより「科学的常識のほぼすべてがそうである」と言えるかもしれません。例えば「地球はほぼ球体」と言う考えや地動説、慣性の法則、原子論、ブラックホール、いずれも権威ある科学者が「馬鹿げている」と言って切り捨てたものです。再度書きますが、もし「馬鹿げている」と感じるのであれば、その理論のどの辺りが間違っているのかと言う事を、感情や感性ではなく理性で分析しなければなりません。「出鱈目」「馬鹿げている」と言うのは実は「今まで信じていたものとは違っている」と言うだけに過ぎないかもしれないわけですし。
私の多世界解釈に対する理解は、youtubeで学んだものです。
エヴェレット多世界解釈
https://www.youtube.com/watch?v=0vuRJZ0pI6s&t=22s
No.4
- 回答日時:
松田聖子の例を挙げたのは質問者様がバナッハ・タルスキーの定理(質問文の記法に習って以下BT定理と書く事にします)と同様に多世界解釈についても誤解されている(ようにしか思えない)からです。
質問者様の見解では「この世界の松田聖子が二人に分かれてもう一つの世界の松田聖子になった」と言ったものになるはずですが、多世界解釈では先にも書いたように「この世界の松田聖子ともう一つの世界の松田聖子は一切無関係(一方から他方が生まれたわけではない)」と言うものです。多世界解釈の意味を誤解されているわけですから、BT定理を応用できるかどうか以前の問題でしょう。No.3
- 回答日時:
追記ですが、お礼コメントにあった「見えるか見えないかは人間の見る能力によって決まる」と言う主張も実は妥当とは言えません。
能力の問題ではなく「見る事が原理的に不可能」と言う場合があるからです。量子力学で取り上げられる不確定性関係では例えば「粒子の位置と運動量を同時に正確に知る事はできない」となっています。これはこの先科学技術がどれだけ進んだとしても「知る事は不可能」と言う事であって、人間の見る能力とは一切関係ありません。
No.2
- 回答日時:
お礼コメントに物言い。
私の回答のどこをどう読めば「私は見えないものを信じていない」などと言う主張が出て来るんでしょうか。ひょっとしたら「この世界に松田聖子が一人しかいないようにもう一つの世界でも松田聖子は一人しかいないはず」と言うのは、私の個人的な信念等ではありません。他ならぬ多世界解釈自身の主張です。多世界解釈では例えば「この世界の松田聖子が今日のお昼にカレーを食べた」とすると、もう一つの世界では「お昼にカレーを食べたこの世界の松田聖子は存在しておらず、代わりにラーメンを食べた松田聖子が存在する」と言った具合になります。
そもそも私が本当に「見えないものは信じない」と言う人間だとしたら、多世界解釈の主張そのものを認めていないはずです。多世界解釈の主張する「もう一つの世界」なんて誰も見ていませんし、それ以前に見る方法があるかどうかも分かっていないわけですから。
今、我々が問題にするべきは、松田聖子の事ではなくて、BT定理を多世界解釈に応用できるか? と言う事です。
BT定理の証明が1924年、多世界解釈が発表されたのが1957年ですから、それから、現在までの間に、誰かがBT定理を多世界解釈に応用しようとしたのではないですか?
多世界解釈を発表したヒュー・エヴェレット3世も、BT定理の事は知っていたでしょう。
つまり、過去に、私と同じような事を考えた人達は居るはずで、その人達は、どんな理由で、その考えを捨てたのか? それが知りたいわけです。
No.1
- 回答日時:
二重スリットの実験の時と同じくバナッハ・タルスキーの定理を安易に持ち出す「うれしがり」でしかありません。
「一つのものが二つに」と言う点だけで同定理を持ち出しているわけですから「うれしがり」と揶揄されても仕方ないでしょう。バナッハ・タルスキーの定理は別の質問でも書いたように「一つのものが二つのものに」であるのに対して多世界解釈ではそもそも「一つのものが二つのものに」とはなっていません。例えばこの世界に松田聖子が一人しかいないように多世界解釈における「別の世界」でも松田聖子は一人しかいないはずです。バナッハ・タルスキーの定理を無理やり持ち出すのであれば、せめて「この世界に一人だけしかいなかった松田聖子がこの世界の中でもう一人増える」と言った事例を挙げないと意味がありません。
あなたは見えないものは存在しないと言っているだけです。見えるか見えないかは、人間の見る能力によって決まります。人間の能力不足で見えないからと言って、それが存在しない証明には成りません。
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BT定理の証明が1924年、多世界解釈が発表されたのが1957年ですから、それから、現在までの間に、誰かがBT定理を多世界解釈に応用しようとしたのではないですか?
多世界解釈を発表したヒュー・エヴェレット3世も、BT定理の事は知っていたでしょう。
つまり、過去に、私と同じような事を考えた人達は居るはずで、その人達は、どんな理由で、その考えを捨てたのか? それが知りたいわけです。
多世界解釈は、その言葉通り、多数の世界を必要とします。そこで問題に成るのが、世界をそんなに簡単に多数作る事ができるのか? と言う事です。
そこで、BT定理に注目するのは自然な事です。なぜなら、BT定理は一つの物から多数の物を作る事ができると主張しているからです。
そしてBT定理は正しいと証明されています。従って、正しいBT定理を基礎に、多世界解釈を組み立てれば多世界解釈も正しい事に成ります。
多世界解釈の優れた所は、二重スリット実験において、波から粒子に収束する、いわゆる波動関数の収縮問題に答えを出せる事です。
多世界解釈を用いなければ、波動関数の収束の背後にある物理的なメカニズムを説明できません。その「物理的なメカニズム」こそ「BT定理の発動」に他ならないのです。
死んだ猫と生きた猫の「重ね合わせ」は明らかに馬鹿げているわけで、生きた猫と死んだ猫は、多世界のそれぞれ別な世界に居ると見るべきでしょう。
私の多世界解釈に対する理解は、youtubeで学んだものです。
エヴェレット多世界解釈