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紫式部が活躍したころの平安時代の貴族の婚姻制度は「妻問婚」とも「招婿婚」ともいわれるようですが、要するに夫のほうが妻のもとへ通う結婚制度でしょう。そうだとすると、当時の貴族の家族とか家庭というのはどのようになっているんでしょうか?当時は一夫多妻制らしいから、夫は別のところに住んでいてそこから(たくさんいる)妻のところへ通うんでしょうか?子供が生まれると、生まれた子供は妻のところにいて成長するんでしょうか?妻には親がいるでしょうが、その父親ほうも(通い婚のはずだから)別のところに住んでいるので、妻と一緒にいるのは(妻の)母親と同じその母親から生まれた兄弟姉妹たちだけということだということでしょうか?父親のところに子供たちがいるということはないのでしょうか?しかし、新しくはじまった大河ドラマ「光る君へ」などを見ていると、紫式部の父親の藤原為時などは紫式部と同じ家にいて、息子(紫式部の弟)に漢学などを教えている。藤原道長(三郎)などは兄弟たちと一緒に父親の右大臣藤原兼家のところに暮らしているように見える。「妻問婚」という婚姻制度がどのように機能しているのか、よく考えてみるとますますわからなくなる!

A 回答 (7件)

別の方向から回答します。

これを理解するキーワードは「財産権・相続権」です。

ちょっと視点を変えてみます。平安貴族と同じく「一夫多妻制」のイスラム文化についてです。

イスラム文化では、女性が夫や父の許可なく行動することは許されません。外出も許可がいるし、他の男性がいる場所では布を被ることが必要になります。つまりイスラムでは「女性の権利は制限されている」わけです。

このような文化での一夫多妻制も同じで「夫が全てを決め、妻たちはそれに従う」ことで多妻制度が成立しています。
 たとえば「第一夫人の息子がいちばん上だが、第三夫人の息子がいちばん聡明なので、彼に家督を譲る」というような場合、日本だと中世の武家でもお家騒動になったりしました。

それを避けるためには「夫が決めたら、妻は従う」というやり方にしておくこと、そして財産権・相続権が女性に無ければ「俺が死んだ時、お前とお前の子供達には財産を残さない」と決めただけで、第一夫人とその子供たちは生きていけなくなるので、夫の決定にしたがうことになる、わけです。

こういう方法だからこそ、一夫多妻制で夫一人が多数の妻を管理できるのです。

これを踏まえたうえで、日本の古代から平安時代というのは「非常に女性の権利が強かった」のです。古事記にもアマテラスという女神がでてくるように、現代でも天皇家にゆかりのある神社では女性が祭主を務めるように、日本では女性の権利が結構強く、そして女性にも財産権・相続権が有りました。

これを踏まえて初めて「女性の親が夫を引き上げていい役職に就けさせる」という意味が分かると思います。

これは今でも行われる「財産をもっている女性のところに入り婿して社長になる」のと同じやり方なのです。

しかし、当時は今のように財産権とは土地の権利などが明確になっていませんでした。なので「財産がある女が親から離れる=自分の財産の所有権が無くなる恐れがある」ということになったわけです。

だから招婿婚になります。

>子供が生まれると、生まれた子供は妻のところにいて成長するんでしょうか?

もちろんです。妻は自分の(親が生きていれば親の)財産を利用して子供を育てます。女の子ならその家や財産を継ぐためにその屋敷に残って、また招婿婚をする、という具合に続いたのです。

>父親のところに子供たちがいるということはないのでしょうか?

父親の役職や財産によります。紫式部の父:藤原為時ぐらいの実力者なら、息子は「親の役職を継ぐ」ので、入り嫁も有りえます。ただ、次男・三男は親の役職を継ぐことができないので、通わせてくれる有力な娘(兄・弟が居ない娘)に招婿婚を求めるわけです。

招婿婚側もいくつかパターンがあります。
たとえば源氏物語に出てくる「末摘花の姫」は実力者だった父を亡くし、兄は出家しているので、財産であるボロ屋敷に住んでいたわけです。
 そこに光の君が通うようになったわけですが、光の君以外誰も寄り付かなかったのは、末摘花の姫の容姿だけでなく「財産もないし、自分の後ろ盾になってくれそうな有力者の父もいなかった」からです。

だから光の君と出会わなければ、末摘花の姫は家と一緒に朽ち果てていたはずで、つまり「姫が非常に魅力的なら、金持ちの夫を捕まえるか、夫じゃなくても愛人として資金援助してもらえる場合もあった」わけです。

このような場合、自分が子供を産んでも夫が一緒に住むことはありません。あくまでも2号さんになるわけです。

逆に、婿の身分が低く、その代わり容姿端麗・才能もある、なら男の子を持たない家の主が「娘と結婚して後を継ぎ、お家を再興してくれ」という場合もありました。

そのような場合は入り婿ですから、基本的には妻の家に暮らすことになりますし、子供と一緒に生活したわけです。他の女の元に通えたかどうかは、その男性の能力次第だったといえます。

日本の場合、いつの時代も「男女両方に財産があり、社会的な仕事をするのは男性だけ」という状態なので、世界的に見てかなり特殊な婚姻体形になります。

平安貴族は武力闘争を行わない(はず)だったので、女性の立ち位置も確保され、宮中では女性の役職も存在しました。(ただし政治的にはあまり関わりません)

これは元々日本が男女平等で、女性にも男性と同等の権利を認めてきたからです。なので女性も男性と同等に教育を受け、男性と同等に地位があったので「世界で初の小説家・随筆家」を共に日本人女性が担ったわけです。
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蜻蛉日記を読むと様子が良く解りますよ、作者は藤原兼家の側室で、


百人一首にも選ばれている和歌詠みで、美貌も兼ね備えている、
右大将道綱母が、望まれて御曹司に嫁いだのに・・・不満たらたらが
書かれています。

和泉式部日記では、恋人の皇子が自分の屋敷に住まわせたので、
皇后の妹の北の方(本妻)が屋敷を出て行った騒動が書かれています。

紫式部日記では、藤原道長が寝所に行き、何時もの合図をしたが、
返事をしなかったのは何故だと翌日、問い詰める行が書かれています。

女性が自活出来る職業は白拍子か舞姫くらいしか無かったので、
男に名前を教えると、許諾した事になり、男は夜這いで女の家に
行きます、その後、男から文が届いて結婚成立なのです。
文が届くまでさぞかし、やきもきしたでしょうね。
この事と合わせて、呪詛・呪い、が信じられていたので、女は
名前を明かさないのです、源氏物語では怨霊に取り付かれて、
亡くなった女性が数多、書かれています。

北条政子は朝廷から官位を貰った時に造った名前で、本名は、未だに
解って居ません。
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正妻格の場合は、最初は通いで、後に同居するようになります。


同居する場合は正妻格の家に住む場合も、夫が用意する場合もあります。

正妻格以外はずっと通いになります。
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正妻が本拠地で、他の妻の元へ通う。

どの妻の子が産まれようが、産まれた子に父親の身分を与えたい時は、父親が養育を担い養育者を指定する。母の身分のままでよろしき時は、そのようにする。
余りに母親の身分が低く、父親がそうしたくとも嫡子と扱えない時は、他貴族への養子をすすめ、父親の扶養を受ける場合もあり。
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正妻は同居することが多いようです。


正妻も出産時には実家に帰って、しばらく留まることが多いです。夫は通います。
側室はほぼほぼ妻問婚です。
あと、妻の実家の身分が夫より低すぎる場合や、妻の両親が死亡していたり、没落している場合も同居が多いようです。
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当時の結婚は


男からすれば
自分が出世できるかどうかで
相手を決める
これはもうはっきりとしていました

出世できる家族の娘と結婚をする

しかも嫁入りではなく
婿入りですね

男性の方が結婚する相手の女性の家へ
入る

男を決めるのは
娘の親が選んでいた

出世のための結婚ですから
本当に好きな女性は
別に作る

日によっては
そちらへ行くこともあるし
泊まることもある

つまり
女房の他に愛人がいた

どちらが正式かという区別もなく
女房でも愛人でも
位は同じであった

今の常識で考えたら
まるで違いますね

当時の男というのは
今の時代よりも
モテるということが
非常に大切であった

今の形態とは
まるで違いますね

しかし残念ながら
それでは子供はどうであったかとなると
歴史学者によって
意見がまちまちです
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>当時は一夫多妻制らしいから、夫は別のところに住んでいてそこから(たくさんいる)妻のところへ通うんでしょうか?


皆が皆多妻という訳ではなく、一人と限定する制度は無かった的に解釈すれば良いかと

本妻と妾(本妻ではない女性)という位置づけは有ったようです
本妻の屋敷に居候する場合もあれば、自らの屋敷に向かい入れる場合もある
天皇家の后は摂関家の実家で出産し(産褥を汚れとして忌避する思想)てそのまま実家で養育するのが通例のようですね
ですからこそ、天皇の御子は父親である天皇よりも小さい頃から慣れ親しんだ摂関家のお祖父様や小父様に親しむという関係で有ったようです

話を戻すと
>妻と一緒にいるのは(妻の)母親と同じその母親から生まれた兄弟姉妹たちだけということだということでしょうか?

妾の子であればそういう可能性はありますでしょうね
とはいえ一切顔を出さないということもないので、単身赴任中の父親が年に何度か帰宅してしばらく過ごす
ような日々も有ったのではないでしょうか?

>紫式部の父親の藤原為時などは紫式部と同じ家にいて、息子(紫式部の弟)に漢学などを教えている・・・・
為時さんは上流貴族ではありません
中級の実務官僚ですから
それにドラマの時期は官位は有っても官職がない(右大臣の個人的な依頼で皇太子の家庭教師のようなアルバイトして生計を維持している)状態ですから
とても第二夫人第三夫人なんて人を養える経済状況では無いですよね

一部上場企業の社長さんなら別宅に愛人を養うのは可能でも
一部上場企業の課長部長さんクラスだと難しいですよね

>藤原道長(三郎)などは兄弟たちと一緒に父親の右大臣藤原兼家のところに暮らしているように見える。
本妻さんの息子(三番目)ではありますが
妾さん出生の兄弟が居て兼家さんからすると五男になります

ちなみに腹違いの兄弟を産んだ妾さんは、蜻蛉日記の作者と言われる藤原道綱母という方です
藤原道綱は、実は道長の腹違いの兄弟なんですよね・・・・
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