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賤ヶ岳の7本槍という言葉を良く耳にすすのですが、
この合戦の勝敗は、前田利家の裏切りと、佐久間盛政の判断ミスのイメージが強いです。
しかし、後々の話になると、7本槍の活躍が大きく取り上げられています。
ただ、7本槍の活躍の話を聞くと、敗走する佐久間盛政軍を追っていっただけで、
それほど戦功があったように感じません。
これは、親類、累代の家来の少なかった秀吉が自分の供回りに恩賞を多く与え、
自らの地盤をしっかりとさせたいと実際の戦功以上に高く評価したように感じてなりません。
このように考えて良いのでしょうか?
それとも、本当に大きな戦功をあげた人達なのでしょうか?
また、7本槍というと、福島政則、加藤清正、加藤嘉明、片桐且元のその後は、有名ですが、
残りの平野長泰、脇坂安治、糟屋武則、桜井左吉(福島正則の代わりに入ることもある)
などは、その後、どのような生涯をおくるのでしょうか?
No.3ベストアンサー
- 回答日時:
>親類、累代の家来の少なかった秀吉が自分の供回りに恩賞を多く与え、
自らの地盤をしっかりとさせたいと実際の戦功以上に高く評価したように感じてなりません。
このように考えて良いのでしょうか?
NO2の方と同じく、いいかと思います。ただ、切通し付近の佐久間三左衛門勢と秀吉床几回りの小姓たちとの奮戦が秀吉の眼前で行われた事や、この戦いが秀吉にとって「天下の治りは、このときに候」と言わしめるほどのものだったことも影響していると思います。宣伝上手な秀吉の面目躍如といったところもあるでしょう。
☆平野長泰
柴田勝家の旗奉行の小原新七を討ち取ったことで感状をもらったようである。
文禄四年(1595)二千石加増で5000石
慶長三年(1598)従五位下 遠江守に叙任
しかし、度々の戦功にもかかわらず、秀吉との相性の悪さから禄高はこれどまりであった。
関が原の役では福島正則の手に属し参陣。
大坂冬・夏の陣では、家康に警戒され江戸城に留守居を命じられた。長泰自身は、家康の御伽衆となって寛永五年(1628)駿府城下安西の地で70才でなくなった。家名は、山と田原本五千石の交代寄合として続き、慶応余念(1868)内高の一万一石八斗を公称高とした大名の列に加わった。
☆脇坂安治
三千石の加増で三千三百石となり二十騎の与力衆と五百人の鉄砲足軽をつけられる部将となり、美濃大垣城番
天正12~13年摂津国能勢郡で一万石 従五位下中務少輔に叙任。安治に改名。
天正13年8月大和国高取で二万石
天正13年10月淡路国洲本で三万石
慶長2年朝鮮の役の功で三千石の加増 三万三千石
関が原の役後、伊予国大洲で五万三千石
元和三年信濃国飯田に国替え 嫡男安元に家督を譲り京都にて隠棲した。
寛永三年(1626)73歳でなくなる。
家名は、その後播州龍野に転封し、外様ながら老中にもなった。どうも、それは、春日局の養子の堀田正盛の子を養子に迎えたことによって準譜代と見られたのかもしれません。
☆糟屋武則
糟屋武則は、別所氏の与力で加古川城主あったが、播州攻めの秀吉に協力したようで、子飼の家臣とは違うようです。ですから、三千石も郷里の播州賀古郡二千石が入っている。
文禄3年頃播州加古川一万三千石 内膳正
関が原の役では、西軍に参陣
慶長7年糟屋内膳正宗孝(34)断絶
武則ではないため、宗孝は子どもなのか?
「日本史辞典」では慶長5年の加古川城主として糟屋真雄となっていまして、改易没収です。
ちょっと分かりにくい方です。
旗本の糟谷氏は、播磨の糟谷氏とは系統が違うようです。
☆桜井左吉
賤ヶ岳の戦いの後、まもなく病死したようです。
佐吉は、秀吉の直参ではなかったようで、除外されたと司馬遼太郎氏が「貂の皮」に書いているようです。
もっと詳しくは『賤ヶ岳七本槍』(毎日新聞社)をご覧下さい。
残りの方達の詳しい説明ありがとうございました。
平野長泰の件を見ていると、
『片桐且元のことを「おね」は、加藤清正や福島正則以上に評価していたが、そのことを秀吉に言ったら、秀吉は且元のことを「清正や正則に比べると、スケールが小さい」と評して、事実、且元は清正や正則のようには大身の大名に成れなかった。』
と聞いたとき、秀吉がそう思ったら、それは本人の能力に関係なく、出世は決まってしまうだろうと感じたことを思い出しました。
No.2
- 回答日時:
賤ヶ岳の七本槍は切通し地区での一番槍の功績を讃えたものであり、討ち取った首数や大将首という実質的な戦功を讃えたものではない為、目だった戦功は感じ得ないのでしょう。
誰が1番2番という事ではなく主だった武将9人を選んで感状を授けたのが元々の謂れであったと思います。
> これは、親類、累代の家来の少なかった秀吉が自分の供回りに恩賞を多く与え、
もちろん9人の選考には主観が入っているでしょうから自分が目にかけた武将をより優遇したという事があったかは否定出来ないでしょう。
9人と書きましたが石河兵介が加わります。
石河兵助はこの戦いで討ち死にしてしまいましたので感状そのものは弟に与えられました。
七本槍という括りは他に小豆坂の七本槍、姉川の七本槍、蟹江の七本槍等など賤ヶ岳の七本槍ほど著名ではありませんが度々登場する称号です。
ですから後世になって「9人の一番槍の功績」を無理やり7人にしてしまったのはないでしょうか。
後世まで著名な者に限定すると7人には足りぬし、全員だと2人多い。
書物によって桜井左吉・福島正則の位置づけが異なるのは人数を減らす間の試行錯誤の結果でしょうね。
平野長泰はその後、秀吉との主従関係はあまり芳しくなかった様で出世は低いです。最終的には5000石。
関が原の戦では東軍に付きました。
大坂の役では流石に秀頼の境遇を哀れんだか大坂方に付く意思を持った様ですが実行には移せませんでした。
脇坂安治は淡路・伊予などで3万石~5万石ほどの領地を得ました。(詳細はNo1の方参照)
糟屋武則は播磨の加古川で1万3000石。西軍に付き領地没収。後、旗本となりましたが家禄は低かった様です。
桜井左吉は慶長年間に没しており左程、出世は出来なかった模様。
早めに亡くなり賤ヶ岳以降、功績を挙げられなかった石河兵助や桜井左吉が省かれやすかったのでしょうね。
七本槍は、特に七本だった訳では無いのですね。
何となく七本槍という言い方が定着していたので、七本としたと言うのが、実情と言うことですね。
ものの本によって、名前が違っているのは九人のうちの誰を選ぶか、、と言うことだったわけですね。
でも、大谷吉継なんかは、七本槍に継ぐ戦功があったなどと書かれていたりもするので、
だったら、彼も七本槍の中の何処かに加わっても良いような気もするのですが、、。
話は反れましたが、、。
詳しい説明、ありがとうございました。
No.1
- 回答日時:
確かにご質問のように秀吉直属の近臣を優遇したと思います。
彼らは戦功とといっても追撃戦の拾い首で、護衛の家臣ともはぐれた落ち武者に過ぎない者を討ち取っただけです。しかし秀吉にしてみれば勝家の遺領が手に入るのでこの際士気を高める必要から大判振る舞いしたのでしょう。
脇坂安治はその後関ヶ原合戦で西軍から家康軍に投じ大谷軍を攻め東軍の勝利に貢献したという事で淡路洲本3万3千石から伊予5万3千石に加増されました。
その子安元の時信濃に転封され、堀田正盛の次男を養子に迎えたので譜代並みとなり子孫から老中を出しています。
名前は残ったにしても血脈は絶えたのでしょう。
平野、糟屋は秀吉時代にもあまり聞きませんからそれ以上立身したとは思えません。
お返事、ありがとうございます。
やはり、それほどの大手柄というわけではないのですね。
清正や正則が出世したのは、その後の功と血縁が大きかったということでしょうか。
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