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歴史はまったく分からない素人です。

秀吉の中国大返しはよく分からないことが多いのですが。

本能寺の変のとき、黒田官兵衛は毛利との交渉などのために高松城のところにいたはずですよね。

その後、中国大返しで驚異的は速さで行軍が行われたとされてますが、黒田官兵衛は体が悪く走ることはできませんから、やはり輿に乗って超高速で移動したのでしょうか?
それとも馬には乗れたのでしょうか?

黒田官兵衛も、とにかく秀吉と一緒に返らないと困る立場だと思いますが、輿に乗ってどうやって高速移動したのか?と疑問に思いまして。

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A 回答 (3件)

中国大返しで高速移動したのは秀吉・秀長の軍勢5000程


これがまず真っ先に掛けに掛けて姫路まで戻っています

黒田・蜂須賀などの部下は後から合流しています
ゆっくりとは言いませんが 秀吉ほどの高速では帰ってない様です
官兵衛は体が悪かったと思われてる(大河ドラマの影響か?)様ですが 実際はそんな事はありません
馬にも乗ってましたし走る事も出来ましたよ

この回答への補足

wikipedia で検索したら、体が悪かったという話は大正時代の黒田如水傳 が最初だとか・・・。なるほど、そうでしたか。
歴史の逸話を検索すると、大体、出典不明か、「これじゃ、本当かどうかわからないなあ」と思うものか、どう考えても創作だろう、などなどばかりで混乱してます。やはり、通説はまず疑ってかかる、という態度が正しいのでしょうか。
疑問は解けましたが、そうすると、しんがりはそれほどはやくなかったとなると、何故毛利は追撃しなかったのか?(追撃できないように速く退却した、という人もいますから)が問題になってきます。
吉川元春が追撃を主張したが小早川隆景が止めた、などという話も鵜呑みにはできません。結果論ではなく、毛利の追撃はまずない、と秀吉が知っていないと引き返すのは危なくてなかなかできないような気がします。やはり、「織田には手を出すな。そのかわり毛利の安泰は保障する」というような交渉があったのですかねえ?(これは別質問にするべきかもしれませんが)

補足日時:2014/05/22 14:06
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この回答へのお礼

分かりやすい解説、ありがとうございました。まあ、大河ドラマでは輿に乗りそうですが。

お礼日時:2014/05/22 14:08

>黒田官兵衛本人は中国大返しでどうやって移動した?



これはもう推測の域を出ませんねぇ、吉川英治の太閤記その他の書を読みましても、官兵衛の移動法に関して触れている文献が見当たりませんので・・。

>何故毛利は追撃しなかったのか?

結論から申し上げると、毛利家には天下取りに打って出る実力が無かった、そして元春・隆景共にそれを熟知していた、恐らくそういう事でしょう。

そもそも西にも敵を抱えた毛利家としては、高松城救援に赴いた5万の大軍は、その石高(120万石)から割り出しましても、恐らくほぼ動員可能な全兵力に近い数字でして、毛利家の命運を含めた殆ど全てがこの戦場にありました。

畿内を中心として400万石を超える実力を誇る、織田に対峙する実力が無い事を元々悟っていた毛利家としては、最初から何ヵ国かを割譲しての講和が前提条件でして、一戦を辞さずとの覚悟と5万を超えるこの威容を以って、何とか好条件を引き出そうと意図していたものと思われます。

ところが信長の意向は飽く迄も毛利の殲滅にあった、とすれば内心はともかく秀吉としても従わざるを得ず、そこに本能寺の変が起こった訳で、毛利側とすればまさに渡りに船。

守旧的家風が強い毛利の基本スタンスは、従来であればやはり様子見にあったのでしょうが、小早川隆景はもう一歩積極的な姿勢に出たという事でしょうか。

つまり秀吉に何がしかの好意を見せる事で、或る意味毛利の将来を託したというこの点は、時の天下様が変わるたびに次代の権力者を言い当てた、 細川幽斎が見せた名人芸と酷似しており、毛利としても生き残りを掛けた乾坤一擲の勝負であった、そういう事かも知れません。

この回答への補足

なるほど。そして、そのことを秀吉も知っていたとすれば、中国大返しを決行することもできますねw。
もっとも吉川英治の太閤記はあくまで小説ですから、史料を綿密に調べたにしても、脚色や創作もあり得る(また、作者が訴えたいメッセージは何か?によっても書き方が変わる)わけすし、それ以外の史料もどこまで客観的かは難しい問題ですね。
江戸時代でも、例えば軍記もので結構話を面白くするための演出が多いようで・・・。
そもそも、いくら信憑性が高いとされる史料でも、戦国武将が何を考え、どう感じたか?などは残ってるわけがありませんから、そこらへんも推測するしかないですね。

補足日時:2014/05/24 21:40
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この回答へのお礼

別の視点のお答え、ありがとうございました。
今までの回答でもいろいろ勉強になりましたので、ベストアンサーを選ぶことは難しいです。まあ、本音はすべてベストアンサーということで。
本能寺の変や中国大返しについては何か沢山の説があるようですから、逆に言えば、それだけ謎が多いわけですね。
もしかしたら、また別の視点の回答もあるかもしれませんじから、もう少し締め切りは後にすることにします。
大変ありがとうございました。

お礼日時:2014/05/24 21:40

なぜ毛利は追撃しなかったのか?


これは恐らく 交渉を担った安国寺某の手腕 と言ってしまえばそれまででしょうが
小早川隆景という男は非常に義理を通す人物でかつ慎重派でもあります

吉川元春の追撃の主張に対して「どんな理由があろうと和睦した以上追撃をかけるのは義に反する」と主張したそうです
また 今回の事態が秀吉側の罠という可能性も考慮したのでしょう
高松城援軍側の毛利の総大将は小早川隆景です いくら元春は兄とはいえ総大将の命令ですから
追撃を強行することは出来なかったのでしょう

秀吉は隆景を五大老にまで任じています(就任直前に急死しましたが)
これは追撃を止めてくれた事への恩だと言われています

もちろん 深く勘ぐれば
毛利 あるいは隆景個人は本能寺の変をあらかじめ知っていた可能性も出てきます

この回答への補足

別質問にするべきでした。すみません。

その話ですと、吉川元春の意見が通ったら、毛利は追撃したかもしれないことになります。

私が疑問(というか、違和感)を持ったのは、後の時代から見れば、結果として毛利は追撃しなかったから、秀吉は運が良かったね、というように見えますが、当事者の秀吉にとっては大返しをするにあたって、追撃の可能性があれば動けなかった(動きにくかった)のではないか?ということなのです。
何らかの事情で、秀吉は追撃はおそらくないだろう、と判断して大返しをしたのではないか?そうでないと危なくて仕方がない。

たとえば(あくまで、たとえば、です)、安国寺恵瓊と黒田官兵衛は連絡を取り合った筈(それが仕事だから)だし、小早川隆景と黒田官兵衛はどうやら互いに尊敬しあったらしい。とすると、この時点で小早川隆景は毛利は織田に対して攻撃しないと約束していた、などのシナリオがあり得ないだろうか?ということです。
それを黒田官兵衛が秀吉にも知らせていたから秀吉は大返しを決行できたのか、などです。

>秀吉は隆景を五大老にまで任じています
これも、実はこの時点で毛利を優遇する約束があったとか・・・。

別に根拠があって言っているわけではなく(本気で信じてるわけではない)、違和感を解決するにはどんなシナリオがあり得るか?というだけの話ですが。

まあ、単なる想像だけで突き詰めても無意味でしょうが、要は、私の違和感がどこにあるかは了解していただけたでしょうか。

もちろん、一か八かで大返しをやったのかもしれないし、wikipediaには
>秀吉は万一毛利勢から追撃される場合を措定して備前に宇喜多秀家の軍を留め置いている。
という記述があるから、それが安全策だったのかもしれませんが。

補足日時:2014/05/23 00:06
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Q豊臣秀吉はなぜ中国大返しが出来たのですか? 

こんにちは

中国大返しには、

なぜ翌日に計報を知ることが出来たのか
なぜ迅速に毛利側と講和が結べたのか
なぜ多くの味方を得ることが出来たのか
なぜ食料を調達できたのか
なぜ高速移動が出来たのか

の5つの疑問が存在する中、

なぜ中国大返しが出来たのですか?

秀吉が明智を殺すことをもともと計画していたという説もあるらしいのですが

それは本当なのでしょうか、、、?

それは、織田信長を見限っていたのでしょうか

教えて下さい!

Aベストアンサー

他のところでも書いたのですが、本能寺の変において光秀と秀吉が共謀していた可能性はゼロです。
もっとも決定的な理由は「光秀が共謀者や黒幕の存在について一切言及していない」という点にあります。
本能寺の変における光秀は「自分を取り立ててくれた主君を討った謀反人」でしかありませんので、当然殆どの支持が得られませんでした。
このとき光秀は多くの書簡を近隣の勢力に送り、その一部は現存していますが、共謀者や黒幕の存在を匂わす事もしていません。
もし黒幕なり他の有力な共謀者がいるのであれば、光秀の立場ではそれを宣伝しないはずがありません。
そして何より秀吉が光秀を破った山崎の戦いにおいて秀吉軍の名目上の総大将は信長の三男信孝であり、更に丹羽長秀など当時の織田家の序列では秀吉より上位の武将も加わっていました。
無論、秀吉が最大の戦力を有していたので主導権を握っていたのは間違いありませんが、それでも光秀と秀吉が共謀していたのなら、光秀は敵軍の仲間割れを期待してその事実を明かすのが当然の手でしょう。
またこのときの総大将だった信孝は後に秀吉と敵対していますが、そのときにも本能寺の変における秀吉の行動について一切疑義を唱えていません。
つまり光秀と秀吉の共謀はフィクションの中の出来事でしかないのです。

他のところでも書いたのですが、本能寺の変において光秀と秀吉が共謀していた可能性はゼロです。
もっとも決定的な理由は「光秀が共謀者や黒幕の存在について一切言及していない」という点にあります。
本能寺の変における光秀は「自分を取り立ててくれた主君を討った謀反人」でしかありませんので、当然殆どの支持が得られませんでした。
このとき光秀は多くの書簡を近隣の勢力に送り、その一部は現存していますが、共謀者や黒幕の存在を匂わす事もしていません。
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