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短歌の教室で指導者の先生から、「短歌で季語を軸に歌を作ることは、邪道でしょうか 短歌は俳句ではないので、安易に季語をそのまま用いることは現代短歌ではやってはいけない 季語をそのまま用いて手を抜くのは邪道です。それを別の表現しないと短歌である意味がない」と言われました。

俳句か短歌かという形式は別として、自然や時候の心を動かすイメージが共有できるのが季語であり、日本人の精神的な共有財産だと思うのですが、どのように思われますか?

A 回答 (2件)

指導者の先生のおっしゃることは少し極端かなと感じますが、意図としては、季語がNGというよりも、『ただ十四音長いだけの俳句』みたいな短歌を作るな、という意味だと私は解釈しました。



「季語を用いるのが邪道」ではなく「季語をそのまま用いて手を抜くのは邪道」とおっしゃっているわけで、その言葉を言葉通り解釈すればそうなるかなと感じます。

私個人の感覚としても、季語のもつイメージに頼るような短歌は「俳句では表現できなかったのか」という疑問が生まれます。

「形式は別として」とおっしゃいますが、あえて短歌という詩の形式を選んだのであれば、それが詩として成立していても、短歌である必然性が必要なのではないでしょうか。

その必然性の構成要因のひとつとして、季語のイメージを安易に用いない、ということなのだと解釈しました。
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この回答へのお礼

有難うございます。「短歌である必然性」とは、「なぜ自分が短歌を詠みたいのか?」 でしょうか。
まだはっきり自覚できていないから、自分で先生の言葉が消化できていないのかもしれません。
『ただ十四音長いだけの俳句』のお言葉はよく判りました。
逆に、季語と同じ言葉では、そのつもりで使わなくても季語のイメージに影響されてしまう事も有り得る訳ですね。
そうではない歌とは何かも難しいですね。沢山考えてみます。

お礼日時:2024/04/10 15:30

その先生の個人的な趣向ですね。



在原業平とか『春の心はのどけからまし』などと思いっきり使ってますし。
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この回答へのお礼

有難うございます。私も先生の主義ではないかと思うのですが、「現代短歌は花鳥風月ではないから、『古典の和歌』とは別物で、描写しないのは俳句の物まね」との事でした。
新聞などの短歌の投稿欄では季語そのままじゃないかな、と思う作品も見かけるのですが、あまりしつこく聞くのも怖い気がして、ここで相談させていただきました

お礼日時:2024/04/10 14:23

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