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高校 世界史

なぜイオニア植民市の反乱からペルシア戦争に繋がったのか教えて下さると助かります(.ˬ.* )੭“

A 回答 (3件)

エーゲ海西岸のイオニア地方は、主としてアテネ系ギリシャ人が先に植民していたが、イランを発祥とするペルシャ帝国も領土を西に向かって拡大中であり、イオニアのギリシャ人植民都市群を傘下に収めるほどになっていた。



当時はペルシャ帝国の領土拡大意識が旺盛だったので、いずれペルシャ帝国がギリシャに攻め込むことは必然の情勢だった。

イオニア植民市の反乱は、ペルシャ帝国にとっては既定路線でしかない。
反乱はイオニア植民市が黒海方面の侵略の尖兵を命じられ、それを拒否したからだが、仮に拒否しなくても、今度はペルシャ帝国のギリシャ侵攻の先陣をさらに命じられていただろう。
ペルシャ帝国はイオニア植民市が言うことを聞き続けている間はそれで良く、反乱したらそれも良しという話でしかない。どちらに転んでも、ギリシャ侵略の意志に変わりはない。
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アテナイが反乱に介入してイオニア側を支援したら反乱軍が負けちゃって、ペルシアにギリシア侵攻の口実を与えてしまったことがペルシア戦争に繋がっています。



ペルシアはイオニアの抵抗勢力を一掃できたので、ギリシア本土の侵攻に取り掛かり、アテナイへの報復を口実として遠征軍を派遣します。

アテナイの中ではペルシアと和解するか戦争するかで意見が分かれましたが、反乱の鎮圧後、反乱に加担したエーゲ海島しょ部のポリスがペルシアから激しく弾圧され、ギリシア本土が直接ペルシアの脅威にさらされることになったため、戦争回避は不可能と判断します。

その後、アテナイはマラトンに上陸したペルシア軍を都市国家プラタイアと共に迎え撃ちます。ギリシア軍はファランクス戦法でマラトンの戦いに勝利し、ペルシア軍は撤退します。

この勝利の結果、アテナイでは親ペルシア派が追放され、ペルシア軍の再侵攻に備える体制を整えていきました。
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この回答へのお礼

すごく分かりやすいです!!
難しい用語を使わずに説明して下さるのでとても助かりますm(_ _)m

お礼日時:2024/06/28 08:42

記録が有るので、戦争が有ったのは事実で、なぜ?までは判らないかと。


遺跡から発掘された文字の解明が出来たのはロゼッタ=ストーンなど
極一部だけです、吟遊詩人が口述で伝えていましたが、キリスト教会が
聖書に書かれていないとして、抑え込んだ様です。

欧州とオリエントの国々は、この頃から21世紀の今日まで、戦火が
絶えた事が有りません、自国の歴史など顧みる事など無かったのです。
大英帝国が遺物を収集しなかったら、判らず仕舞になってたかもです。
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