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遣唐使、吉備真備が日本に連れ帰ったとされる九尾の狐(玉藻前)こと絶世の美女は、楊貴妃(玉環)のことで間違いないですか?
楊貴妃は玄宗皇帝の寵妃。国を動かす力を持つ美女です。
内乱がおさまった後、玄宗が夢に処刑したはずの楊貴妃が出て来て日本にいると告げたと、側近に日本まで探しに行かせたが、見つからず中国へ帰っていきました。
吉備真備が玄宗から命を受け、密かに連れ出したのだとすれば、夢物語をでっちあげて後から探しに来させるのにも合点がいきます。
吉備真備の娘?妹?に、吉備由利という女性がいるが、称徳天皇が病床にふすと寝所にただ一人出入りを許されたとされています。
また楊貴妃のものと伝わる墓が、日本各地にあるのは、何故ですか?

A 回答 (2件)

吉備真備には興味が持てなかったので楊貴妃のほうだけw



玉環ちゃんは中国の四大美女の1人にも数えられますが、4人の内で本当の美女は西施たんと玉環ちゃんだけでしょう。西施たんは言わゆるスレンダー美女で、東洋人の美女といえばこちらを想像するような、そんな美女ですね。片や玉環ちゃんはマリリン・モンローw 東洋人としてはちょっと想像がつかない感じですが、そんな美女なんです。イメージが大きく変わりました?

玉環ちゃんが死んで50年くらいしたころ、白居易ってやつによって長恨歌という漢詩が作られます。”恨み”の字が入っていますが、意味は”思い”のような意味です。作ったってことで白居易のまったくの想像の産物なわけですが、この漢詩の中で、皇帝が死んだはずの玉環ちゃんに海の中にある山で出会って~などと書いたものですから、他の人もそれに倣ってテキトー物語を大量に作り出すことになったようです。

そんな中の1つが長門の楊貴妃の墓ですね。皇帝が夢に見た~なんて話は他には伝わっていませんし、派遣したはずの陳安が京都の寺(清涼寺?)に残した2体の仏像ってのも、どこ? まー全部、勝手につくった物語なので、あるはずもないのでしょうね。
(他に日本に楊貴妃の墓の伝説がありますか?)
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様々な説があるそうですね。


情報を繋ぎ合わせますが。

まず吉備真備と阿倍仲麻呂は共に遣唐使として唐に長く滞在していました。
十七年ほどして吉備真備は日本への帰国が認められましたが、官職に就いていた阿部仲麻呂は認められずもうしばらく唐に滞在することになりました。
吉備真備が唐を去って約一年後、楊貴妃は玄宗の息子「李瑁」(のちの寿王)に嫁ぎました。

吉備真備が連れ帰ったとされる玉藻前は15・16歳前後の娘です。楊貴妃と年頃は近かったのでしょうね。
ただ別人である可能性はあるでしょうね。楊貴妃はその年頃には結婚しているので。

玄宗は息子李瑁のお嫁さんだった21歳の楊貴妃を出家させて離婚させ、自分の妃にしました。
寵愛するあまり政治には無頓着になってしまい。
そして、結果として楊貴妃側の楊国忠が実権を握ることになり、楊貴妃の養子だった安禄山が敵対し乱を起こしました。
それが仰る内乱ですが、その際、楊貴妃側の楊国忠が下の者に殺され、権力を失った玄宗は軍隊に楊貴妃の死まで要求さ、泣く泣く受け入れたそうです。その際、楊貴妃は自殺したとされていますが。
もう一方の説では、嘆き悲しむ玄宗の為に、楊貴妃を殺したと見せかけて船に乗せて日本へ渡らせたという話があります。
そして、現在の山口県長門に辿り着いたそうですが、間もなく楊貴妃は亡くなったそうです。
楊貴妃、享年38歳でした。

考えられるに、吉備真備ではなく阿部仲麻呂が楊貴妃と関連があったのではないでしょうかね。
現に、阿部仲麻呂は乱が起こるずっと以前に日本へ船で帰国しようとしているのですが、遭難し、亡くなったと思われていたそうですが、結局は唐に引き返しており。その数カ月後に乱が起こったため、乱が起こった当時、その場にいた可能性があり。記録にも名が残されているそうです。

また、楊貴妃の墓についてですが。
権力を失った玄宗は息子に皇帝の座を譲り、半ば軟禁されていました。
ですから、軟禁されたまま使者を送ったことになるのでしょうが、使者は楊貴妃が埋葬された場所がわからず仏像を二体京都に残していったそうです。その後、埋葬した寺がわかり仏像をもう二体つくり、京都の寺とわけたのだとか。

昔から有名人とゆかりのある場所は観光地になったので。(桃太郎伝説など含め)
楊貴妃とまったく関連のない墓もなかにはあるでしょうね。
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