準・究極の選択

自身の不幸を認識することは、幸せを認識するよりもよっぽど大事ではないか?
幸せは放っておいても何も問題ないが、不幸をそのままにしておくと、うつ病やら色々と不都合をきたすようになるからです。

A 回答 (5件)

ハイ、そうだと思います


不幸にしろ幸せにしろ、正しく認識するのは難しいものです
悟りもしないで悟ったかのように思い、知りもしないで知っているかのように思い込む、この慢心や錯覚が、認識の最大の敵だと思うのです

「物事を正しく知る」という客観的認識の分野を担うものは学問だと思うのです
まず「知」と「不知」とを、きちんと区別して、それから「既知」の知識を武器として「未知」の領域へ切り込んでいく。それが「学問」であり、その行為を通じて不明であった物事を明瞭に分かった状態に変えていく。それが認識であります
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この回答へのお礼

そのようにして、心を強くすることがあえて必要です。

お礼日時:2024/09/10 01:57

禍福は糾える縄の如しと申しますが、思うに、不幸を放っておくと、格言通りなら幸福が訪れても不思議はありませんが、実際には確かにさらに不幸が悪化しそうですね。


そして、幸福というのは放っておくと、幸福が増幅せずに、不幸になってしまいような気がいたします。

おそらく、不幸というのは無為無策でいるとやって来たり不幸が強まったりするのでしょう。
そして幸福は、何らかの努力をしないと訪れない。そういう理屈なのでしょうか。

ゆえに、幸福であれば、さらに幸福になるための策を考え、努力をしなければならず、不幸であれば、不幸から脱するための策を考え、努力しなければならない。

いやあ、疲れますね。そう考えると、不幸は嫌ですけど幸福もそう有難い話ばかりじゃなさそうですね。

やはり、欲を捨てろ、幸福なんて望むな、そこに苦の無い世界がある。
そのように喝破した仏陀はエライ。という結論になるのでしょうか。
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この回答へのお礼

>幸福というのは放っておくと、幸福が増幅せずに、不幸になってしまいような気がいたします。
そうですか。それは意外です。
>欲を捨てろ、幸福なんて望むな、そこに苦の無い世界がある。
これは不幸脱出法においても役立ちます。

お礼日時:2024/09/10 01:55

おっしゃる通りです。


不幸を認識することにより、それを回避する考察が出来ます。
それを回避出来ないようなことは専門家に相談も出来ます。
そして、不幸が回避できて初めて幸せになれます。
私はそう思います。
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この回答へのお礼

問題は、やけどしたまま気づかずにいることです。だからうつ病に陥った鈍った感覚を何とか先鋭化正常化しなければならない。これはなかなか厳しい条件です。

お礼日時:2024/09/10 01:56

正しいですけど、不幸を認識するだけでは駄目で、不幸を回避できないといけないですね。


逆に、回避できない不幸だったら、認識しない方がまだ良いですね。
その辺のさじ加減ではないでしょうか?
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この回答へのお礼

認識しなければ回避も何もないです。だから絶対条件では?
脱出方がない!と分かっても分からなよりいいというのが私の感覚です。

お礼日時:2024/09/09 18:05

「成功を覚えているより失敗を覚えていなさい」とも言いますね。

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この回答へのお礼

人生訓としては正しいです。

お礼日時:2024/09/09 12:52

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