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昔の侍は

勤勉で腕もたつ文武両道だったと思いますが

毎日酒を飲んで、アルコール依存症の侍って

居たと思いますか?

A 回答 (5件)

昔の侍は


勤勉で腕もたつ文武両道だったと思いますが
 ↑
それがそうでもありませんでした。

江戸時代などは、ほとんどの武士は
仕事がありませんでした。

だから、扶持だけで生活ですが
それでは苦しいので
下級武士は内職に励む。

江戸の平和な時代には、刀など
抜いたことも無い、という武士ばかり。

だから、幕末、旗本などは
闘争の役に立たず、新選組などが
組織された訳です。

これは地方でも同じで、長州藩では
正規の武士が役立たずで、それで
高杉晋作は、農民、町人などで組織した
奇兵隊を作ったりしました。




毎日酒を飲んで、アルコール依存症の侍って
居たと思いますか?
 ↑
中にはいたでしょうね。

武士のほとんどは仕事がないので
禄高の高い、裕福な武士は、
遊びほうけていたと思います。
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毛利元就の父、弘元


元就の兄、興元
は、それぞれ酒の害で若くして亡くなったと言うのは有名だと思います

大大名である大内氏をはじめとした諸勢力に周りを囲まれていると言う重圧のなか、一地方の小いさな勢力であった毛利家の舵取りをすると言うストレスを酒で紛らわしていた、酒に依存していた、と言う事なのかもしれませんね…
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> 昔の侍は 勤勉で腕もたつ文武両道だったと思いますが



No.3の回答者も書かれていますが、江戸時代の中期以降は、文武両道は武士にとって重要ではなくなっていたようです。
高校の日本史の教科書には、次のような一文もあります。
1683(天和3)年に、綱吉の代がわりの武家諸法度が発布された。1615(元和元)年の将軍秀忠による最初の発布以来、代々の将軍は第1条で「文武弓馬の道、 専ら相嗜むべき事」と命じてきた。綱吉はこれを改めて、「文武忠孝を励し、礼儀を正すべき事」とした。
武士に最も要求されたのは、武道を意味する「弓馬の道」から「忠孝」や「礼儀」へとかわったのである。主君に対する忠、父祖に対する孝そして礼儀による上下の秩序が、平和な時代の支配の論理になった。この支配思想は儒教に要づけられたもので、綱吉が湯島聖堂を建て、林信篤(鳳岡1644~1732)を大学頭に任じたのも儒教重視を物語っている。

このような説明もあります。
https://www.jstage.jst.go.jp/article/budo1968/21 …
藩校における武芸教育
近世において藩校の創設は寛永に始まり,明治廃藩まで全国278を数えるが,その多くは,天明・寛政・享和の年代に設立される。これらの藩校は,藩の子弟に文武の教育をすることを標榜した。幕府の「武家諸法度」冒頭の趣旨である。多くの藩校は武芸のカリキュラムを用意すると共に,武芸の教習所即ち施設を準備するものであった。校内に武芸道場の施設を持つもの,また文武のカリキュラムをもつものは,おくれて天明以降あらわれる。初期において文を重視していたためである。文武両道を標榜しながらも,実際には実務に必要な文に傾斜する。

アルコール依存、ギャンブル依存、依存=アディクションは、公家、武士、農民、町民、漁民、職人、僧侶、男女にかかわらず、起きます。 周囲の強い規制が有効に効かない場合には、例えば、階層の上であるほど、家の中で威張れる状況なほど、人目を気にしなくてよければ、どこでも、誰でも起きがちです。
井原西鶴の作品「武家義理物語」にも、いくつかそういう武士がでてきます。
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毎日酒を吞む程度のアルコール依存症なら、今でもあらゆる階層に沢山いますし、昔だってそれは同じことです。


侍だって毎日のように酒を呑む人は大勢いたでしょう。侍だけが別であるはずがありません。
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