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大正時代は平和で、当時日本では先進的な取り組みや様々な文化や思想が「江戸時代からの大型アップデート時代」だったとされ、軍部が力を握らず戦争さえしなければ1940年代に高度経済成長を迎えていた

なんて事言っている人が居ましたが実情はどうだったんですか?フィクションの話しですが、おしんとか、鬼滅の刃とか地方の生活は江戸時代に毛が生えたしかないイメージがやはり強いです

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A 回答 (4件)

大正時代は平和で、当時日本では先進的な取り組みや様々な


文化や思想が「江戸時代からの大型アップデート時代」だったとされ、
 ↑
以下コピペ

大正時代(1912~1926年)は、民主主義や自由主義が盛り上がり、
大衆文化が花開いた時代でした。
また、第一次世界大戦や関東大震災などの大きな出来事にも
見舞われました。


○大正時代の特徴
政治
大正デモクラシーの高揚、普通選挙法の制定、政党内閣の誕生

文化
大衆文化の発展、洋装の流行、レコードや映画の普及

社会
女性の社会進出、労働運動や農民運動などの社会運動の活発化

経済
戦景気による好況、戦後恐慌による不況

災害
第一次世界大戦、関東大震災

スポーツ
箱根駅伝の開催、日本人選手によるオリンピックでのメダル獲得

大正時代は、明治時代から続いた藩閥政治を否定し、
民主主義や自由主義を求める運動が活発化した時代でした。
また、西洋文化が定着し、
人々の服装や生活様式にさまざまな変化が訪れました。

大正時代は、日本が国際連盟の常任理事国に就任した時代でもあります。




軍部が力を握らず戦争さえしなければ
1940年代に高度経済成長を迎えていた
 ↑
戦争しなければ、日本は英米の
支配下に落ちたでしょう。
アジア、アフリカの独立も無かった
でしょう。



フィクションの話しですが、おしんとか、
鬼滅の刃とか地方の生活は江戸時代に
毛が生えたしかないイメージがやはり強いです
 ↑
新撰組の、榊原鍵吉や斉藤一が
まだ生きていた時代ですからね。
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当時の世界の中心だった西欧を国家総力戦の嵐に巻き込んだ第一次世界大戦が終わった後は、新興の米国と日本の隆盛と、マルクス以来世界の若者の心を捉えた共産主義の世界初国家であるソビエト連邦の誕生という状況だった。



後から考えれば、次なる大波乱を呼ぶ戦後処理の拙さからくる不気味が漂っていたものの、国際連盟の誕生で世界平和に向けた意気込みも濃厚に醸し出されていた。

その中で、世界三大海軍国だった英米日の3ヵ国を中心とした海軍軍縮会議が成功し、日本も巨額の軍事費から解放された。
つまり民生予算が大いに増えたわけだ。それが大正浪漫時代という自由で豊かな時代を生んだ。英米もそうだった。あの時代の心と経済の豊かさはフィクションではない。現実だ。オリンピックが日本でも隆盛し始めたのもその頃からだ。

但し、その繁栄は、1929年9月4日に勃発した米国株式市場の大暴落から始まった世界恐慌で一変してしまった。大正浪漫時代の繁栄も昭和に入ってすぐに勃発した世界恐慌で終わった。
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> 軍部が力を握らず戦争さえしなければ1940年代に高度経済成長を迎えていた



「れば、たら」の話しは、事実ではないのだし、想像しても、「こうなっていただろう」とは言い難いでしょう。当時は、軍は一大有力政治集団でもあって、世界情勢から推測しても、「軍部が力を握らず戦争さえしなければ」という"一種の期待"が現実に起きることはまずなかったでしょう。

経済の状況は、次のようだったらしいです。
工業(工場)生産額は農業生産額を追い越し、日本は工業国となった。工業労働者数は100万人を超え、重化学工業の発展を反映して男性労働者の増加が著しかった。 大戦による急激な経済の発展は、工業労働者の増加と人口の都市集中を通じて米の消費量を増大させたが、農業生産の停滞もあって,物価とりわけ米価が上昇し、都市勤労者や下層農民の生活が困窮した。
1911(明治44)年になり、ようやく工場法として日本最初の労働者保護立法が実現した。少年・女性の就業時間の限度を12時間とし、深夜業が禁止となったが、適用範囲は15人以上を使用する工場に限られ、製糸業では14時間労働紡繊業では制限つきながら深夜業を認めるなど不徹底なものであった。5年余りの猶予期間をおいて工場法は1916(大正5)年に施行された。
1918(大正7)年、シベリア出兵をあてこんだ米の投機的買占めが横行して米価が急騰すると、富山県の漁村の女性の行動をきっかけに、都市民衆や貧農・被差別民は、米の安売りを求めて買占め反対をさけび、米商人・富商・地主・精米会社をおそって警官隊と衝突するなど、7月から9月にかけて米騒動が全国に連鎖的に広がった。東京・大阪をはじめ全国38市、153町、177村、約70万人が参加するという大民衆騒擾となり、政府は軍隊を出動させてその鎮圧にあたった。
東京や大阪のような大都市では、下層民が集中して住む貧民窟(スラム)が出現し、貧困や衛生状態の劣悪化などが深刻化した。民間でこうした問題と取り組んで、山室軍平(1872~1940)の救世軍などキリスト教団体による社会救済事業が活発に展開された。また、矢島揖子(1833~1925)らのキリスト教婦人矯風会は、公娼制度の廃止と女性の更生補導をめざして(廃娼運動)、その生活改善の運動を進めた。
一方、こうした社会問題は農村にもおこった。日露戦争後の慢性的不況の影響を受けて、都市の人口吸収は限界に達し、農村には人口がだぶつきはじめ、農産物価格も値下りして、農民の窮乏が目立ってきた。小作人が組合をつくって小作料減免を寄生地主に要求する動きもおこり、腱村の共同体的秩序がゆるんで、社会の基盤が不安定になるという問題も現れ始めた。

学校教育の普及や、工場制の下で働く労働者の生活、新聞などの発行、鉄道敷設運行、文芸などの多くの変化は、確かにあったのですが、国民生活の近代化は、 なお都市中心のものであり、交通・通信の不便な農村地帯などでは、農作業の必要から太陽暦とともに旧暦が用いられるなど、依然として江戸時代以来の伝統的な生活様式が営まれていたそうです。

以下 「大正期はじめにおける農村地域の食事調査の分析について」
『地域政策研究』(高崎経済大学地域政策学会) 第 15 巻 第3号 2013年2月のまとめから引用
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
(1)主食物の地域的特徴
1920(大正9)年の農村地域の食生活について検討した。主食物では、日本海側の稲作地域や青森、山形、長野の一部では米が主食であった。稲作地域においても、麦や糧を入れた混合食や屑米を利用した団子などが用いられ、食べ方の工夫が行われていることが分かる。この他の地域では、麦を混合することが多く、その割合は地域や季節によって違いが見受けられる。代用食については愛知で麺類の例が見受けられた。雑穀類については北海道、岩手、宮崎、熊本、福岡などで稗や粟の記載があった。
(2)副食物の地域的特徴
副食物については共通点として、野菜や漬物を中心とした食生活である。味噌汁は一部の関西地方以外では常食となっているところが多い。この他に用いるものとしては、魚類では乾魚品がほとんどである。豆腐では、比較的東北・関東地方では多く用いられているが、この他の地域で各地域とも卵や肉はほとんど食さないものであり明治大正時代には、西洋料理の普及があったとされているが、これは都市の一部であり農村部にその影響は見られなかった。この点について、宮本氏は「食生活及至は台所を中心とする家庭における新しい生活様式も都市においてのみ実現可能であった。」と述べ、都市と地方との生活差は大きくなっていたと指摘している。

https://www.taisho-jidai.com/life/post-204
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モボ・モガとか大正ロマンとか言葉があって結構洗練されたイメージがありますがやはりそれはあくまでも都会のことだと思います


田舎は貧乏たらしい感じだったんでしょうやっぱり
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