コーピングについて教えてください

2018年に発行された朝鮮属国史を読みましたが、目新しいと感じる内容はありませんでした。
朝鮮半島の詳細な歴史を知らなくても、少し勉強すれば朝鮮が長いこと中国の属国だったことや、両班の搾取はひどい・・・ということぐらいはわかっていました。

それよりも、図書の中にあった見出しの
「植民地にするほどの価値も無かった朝鮮」や「中国の模倣社会」
という記述は日本にもあてはまると思いました。

日本が中国の属国にならなかったのは、中国から見て植民地よりも下位の属国としても価値がなかったからでしょうか?
それとも他に理由があるのでしょうか?

質問者からの補足コメント

  • 日本が中国の属国や植民地にならなかった理由として、海があったことを上げている人が多かったようですが、それだと任那を日本が支配していたという説と矛盾します。当時の日本から見た任那は、海で隔絶されていたとしても大きな価値があったことになると思います。

    中国から見た時、西方の様々なものと比較して、価値がないと判断されたことが大きかったのかな、と思います。

    日本国の黎明期から江戸時代までを中国から見た時、日本が中国の属国だった時期は結構多かったと思います。№7さんの回答がそれだと思います。

    当時の日本が置かれた状況や結果を知っている現代日本から振り返った時に、運・不運のようなものは感じます。

    なにがなんでもベストアンサーを選んでクローズしたいので、悩んだ挙句、№1さんと№2さんの回答を候補として、その中から選びました。

    回答していただいた皆様、ありがとうございました。

      補足日時:2025/01/22 07:05

A 回答 (10件)

鎌倉幕府が頑張ったからです

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この回答へのお礼

早速の回答ありがとうございます。
確かに、元寇は逆の結果になっていたら、属国どころか植民地になっていた可能性大ですね。

しかし、私が知る限りでは鎌倉幕府の外交がお粗末な結果、最初の元寇に至ったわけで、その結果として、防衛の備えはするような気がします。

お礼日時:2025/01/21 04:33

中国の歴代王朝は、基本的に、海洋国家ではなく、大陸国家でした。

元のフビライ時代と永楽帝時代に何度か大艦隊を遠征させたくらいで、他は基本的に沿岸のみの航行を許可し、外洋航海は禁止していたことが多かったのです。

その理由は、おそらく中国大陸が、肥沃な土地が多く「水の国」とも云われるほど水資源が豊かな国だったので、わざわざ海を渡って海洋進出する必要性がなかったのでしょう。

それで、わざわざ海を渡って日本を征服したいとは思わなかったのでしょう。
中国大陸は、黄河流域の大平原で、中華文明の中心地の「中原」など素晴らしく広大な平野が広がった農業適地ですが、その点、日本は急峻な山岳地帯だらけで平野なんてみすぼらしい限りです。
日本を知れば知るほど、領土に加えるメリットが全く感じられなかったでしょう。

元寇では痛い目に会いましたし、その後は倭寇の跋扈に手を焼き、防戦一方でしたからね。明国としては、秀吉が海賊(倭寇)を取り締まってくれて助かったことでしょう。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

ホント、中国大陸は広大ですね。
大昔に運河を整備していた、というのも驚きでした。

お礼日時:2025/01/21 18:15

#5さんの見方に賛成します。



日本は古代から幕末までユーラシア大陸の国から「黄金の国、ジパング」と呼ばれていました。

当時の日本の国力の源泉は「金」で、6.7世紀の遣隋使・遣唐使が金を持参していたからこそ、日本にあれだけの書物などが持ち込まれ、日本が独自の仏教哲学を構築することになったわけです。

現存する仏教書物や仏像などの量と当時難破して日本にたどり着かなかった物量を考えると、日本の国力はかなり大きかったといえます。

このようなことを研究した論文がありますのでURLを提示します。
「東アジアの中の中世 日本」
https://hirosaki.repo.nii.ac.jp/record/2176/file …
(URLをクリックするとPDFがダウンロードされます)

金の産出国であるなら、大陸側も貿易をする理由もあるし、占領する理由もあります。現代でも同じですが、そもそも「歴代中国の統治者が日本を欲しがった」というのは、日本列島全体のことを意味するわけではありません。

昔は「金を大陸に回収するだけの軍事占領をすればよい」という考え方だったといえます。

またこの「金の輸出」で日本は文化的に潤うことができましたし、技術や知識を得ることができました。
 南蛮人が渡来したときも、金の力で鉄砲や技術を輸入することができ、されにはそれを模様できるだけの文化力技術力を有していたわけです。

このほかに「日本がなぜ大陸に占領されなかったのか?」という点でいえば「日本列島全体がほぼ統一国家だったから」という理由があります。

近年の研究で縄文時代には稲作が始まっていたことが分かり、稲の水耕栽培は「日本から始まったのではないか?」という指摘もされるようになっています。

稲の遂行栽培の元祖かどうかはともかく、世界的に見てもかなり早い時期から稲の水耕栽培が始まり、その結果《米の生産高が高くなり、日本の人口がかなり多くなった》可能性は高いです。

そしてその稲作を中心とした文化が日本全体の文化になるのに、ヤマト王権(のちの大和朝廷)の指導力はかなり大きかったものと思われます。その結果、日本が統一国家になり、船による侵略を防ぐだけの防衛力を持ったわけです。

その結果、大陸の国家が「日本には金があるから、占領したい」と思ってもそれをさせないだけの軍事力が日本にあり、特に船で攻めるリスクは大きかったといえます。

この辺りの比較をするなら、琉球王国は船でやってくる大陸の軍事力に屈して、また日本の軍事力にも配慮して、武器を持たない両面外交で独立を維持していましたし、台湾も17世紀には鄭成功が征服し南明の拠点として利用しています。

沖縄や台湾も大陸とかなり距離があるので「日本が大陸と隔てた海上にあったから征服されなかった」というのはちょっと無理があります。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
私の歴史認識とは全く異なっています。

隋・唐の首都は当時の全世界の国際都市であり、西のローマ帝国と肩を並べていたと思います。
なお、当時の全世界とは、ユーラシア大陸のヨーロッパ、中央アジア、東アジアでした。

お礼日時:2025/01/21 18:13

1,海の存在は大きかったと


 思いますヨ。
 朝鮮は、千回近くも侵略されて
 いますからね。

 遣唐使の成功率は50~60%
 ぐらいだった、といいますから
 よほどの必要性が無ければ、
 日本まで遠征しようとは思わないでしょう。


2,朝鮮は簡単に属国化しましたが
 日本は違います。
 やれるものなら、やってみな、という
 気概が窺えます。

 日本は、小野妹子のあの
 「日出る処の天子、書を、日没する処の天子に致す。恙なきや。」
 
 なんてのは中国にケンカを売っているような
 ものです。

 天皇という呼称もそうですね。
 中国の皇帝よりも偉そうです。
 頭にきた中国は、日本討伐も検討したといいます。

 戦国時代、イエズス会が来日しましたが
 彼等も、日本は武が強いし、国土が狭く
 旨みが無い、なんて書見を本国に送っています。

 
3,中国の史料にありますが。

 倭寇。
 初期の、日本人による倭寇。

 中国側は、鉄砲まで装備していたのに、
 褌に刀だけの倭寇に敵わなかった
 なんて記述が残されています。

 中国からすれば、当時の日本は
 野蛮で、手に負えない面があったのでは
 ないですか。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

その時代の中国王朝に脅威を及ぼすことのない夷狄(いてき)は相手にしない、ということですね。

お礼日時:2025/01/21 18:04

No.3


東アジアで、中華帝国と関係を持つためにはそういうのが当たり前、外交上の当然のルールと見做されていましたからね。
隋からは国書を下賜されましたが遣隋使は途中でそれを途中で捨てています。唐との国書では「天皇」を名乗らず「日本国王」であったことがわかっています。義満も「日本国王」に任ぜられています。秀吉も明との講和で「日本国王」に任ぜられることになって満足していましたが、朝鮮から人質が来ないことに激怒して再戦となりました。江戸幕府も明とは「日本国王」に任ぜられることで勘合貿易をしました。清とは明治になるまで国交はありませんでした。
日本の対中華帝国への外交は一貫して「中華帝国配下の国」としての儀礼に則っています。これが東アジアでの外交マナーでしたからね。その外交マナーを知らなかった鎌倉幕府は、元の国書を持ってきた使者を惨殺したのですから、フビライが怒らないはずがないです。
それと若干異なる関係を築いたのは北方遊牧民族です。北方遊牧民族が優勢な時は、中華帝国と「主従」ではなく「兄弟」という関係を結び、兄から挨拶に来た弟へ贈り物をするという形になりました。この国辱的関係を解消するため、一生懸命北方遊牧民族と戦うのです。宋と金の間はさらに屈辱的になり、宋は金の家臣とされました。後に金は叔父で宋は甥という関係になりましたが。
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この回答へのお礼

お礼のコメントに答えていただき、
補足の回答ありがとうございました。

お礼日時:2025/01/21 17:58

価値が低いうえに、地の果ての朝鮮のさらに先にあり、かつ海で隔絶されている、そのような土地を誰が欲するだろうか、というところです。

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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
私の質問内容の認識と同じですね。

お礼日時:2025/01/21 05:06

遣隋使、遣唐使、の時代、日本の僧や学生は砂金を持参していました。

必要な宝物、書物を購入するためです。当時の日本は中国からは金の豊富な国と見られていました。マルコポーロの東方見聞録にも日本(ジパング島)には大きな宮殿があり、床やあらゆる部屋が純金の板でできていると記されています。これは中尊寺金色堂を見た中国人から誤り誇張されて伝わったと思われますが、フビライ・ハンが元寇を行う動機にもなったでしょう。

明になり秀吉の朝鮮出兵で日本軍の強さをまざまざと見せつけられます。当時の日本は世界一の数の鉄砲を所持し、倭銃隊とか倭鉄砲隊と恐れられました。ちょうどヨーロッパの大航海時代と時代が重なりますが日本がヨーロッパの植民地にされなかったのはこのためです。

台湾のみならず漢民族の英雄鄭成功は、清に抵抗し戦うためにたびたび日本に援助要請の手紙を書いています。(日本側は国際問題に巻き込まれたくなかったので要請を断っています)それくらいこの倭鉄砲隊は東アジアにその名前を轟かせていたのです。

こんなに強い日本を属国にしようなどとは明は考えなかったでしょう。中国(清)が日本に狼藉を働くようになったのは長崎事件の頃からです。当時は東アジアで最強の清の軍艦「定遠」「鎮遠」を見せつけようとしたのです。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E5%B4%8E …
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
私の歴史認識とは全く異なっています。

隋・唐の首都は当時の全世界の国際都市であり、西のローマ帝国と肩を並べていたと思います。
なお、当時の全世界とは、ユーラシア大陸のヨーロッパ、中央アジア、東アジアでした。

また、元寇の第一回目は高麗の忠烈王が、元にあることないこと吹いた結果であり、主力は高麗だったと思います。

お礼日時:2025/01/21 05:05

間に海があるのが、一番の理由。


鑑真の話でも判るように、航海の成功率はかなり低いです。

北方謙三氏の岳飛伝では、日本との貿易路に関しての描写があります。難易度は、コロンブスの時のヨーロッパから大西洋を横断してアメリカ大陸への航海並みでしょう。
南船北馬というように、北側の国は、馬がメインの移動手段で、船はせいぜい川を渡るぐらい。海を渡ってその先という発想はないでしょう。南側の勢力は、日本より台湾から東南アジアに行く方が簡単ですし。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

地理的要因を上げる方が多いようですが、当時の大国である中国が貿易などの経済的なメリットを見出したら、日本に進出していたような気がします。

また、日本政府側としては隋唐宋明時代の朝貢貿易は魅力だったと思いますが、独立国としてのプライドは維持していたように思います。

お礼日時:2025/01/21 04:52

海の向こうの隔絶した地理的要因が一番大きいです。


また、元の時以外は日本の方から朝貢に近い形で交渉を求めてきていますからね。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

中国側から見ると、朝貢=属国のはずですが、足利義満の時代も含めて日本側には属国の意識はなかったような気がします。

お礼日時:2025/01/21 04:39

海を隔てていたことは大きいです。


飛行機などがない時代、海の向こうの属国を支配し続けるのは労力がかかりすぎます。
しかも、日本は資源のない国。
搾取する収穫物が少ない。

要するに属国としてコスパが悪いんです。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
やはり、中国としては、価値がないと判断していたということですね。
しかし、近年は太平洋の出入り口として大いに価値を見出しているようで、迷惑なことこのうえない、と思います。

お礼日時:2025/01/21 04:36

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