電子書籍の厳選無料作品が豊富!

添付図左側は小笠原宗長という人物の系譜です。
ここに
「元徳2年9月6日卒」
とあります。
元徳2年は西暦 1329 年です。

一方、右側は元弘の乱に際し足利高氏 (尊氏) が、京都から全国の諸将に宛てて出した軍勢督促状の一つです。
原本が東大史料編纂所に残されているのですが、( ) 書き部分は原本になく
「五月一六日」「小笠原信濃入道とのへ」
とあるだけです。

これを歴史家の多くが
「元弘3年 (1332)」「小笠原宗長宛」
に同定しているようです。

文意から元弘3年に尊氏が発したことで間違いないと思いますが、疑問は小笠原宗長が4年前に死亡していることです。
「卒」は死去を意味するのではなかったのでしょうか。

小笠原氏に関して昭和から令和初めまでに出版された本を何冊も読みましたが、ほとんどすべてが上記解釈を踏襲していながら、系譜との矛盾を誰も指摘していません。

日本史ファンの方、どうか回答のほどよろしくお願いします。

------------------------------------------
[出典]
(左)『新編信濃史料叢書 下巻 勝山小笠原家譜』1969 信濃史料編纂会
(右)『信濃 [第2次](54) 勝山小笠原文書』1946 信濃史学会
2点とも国立国会図書館デジタルコレクションより

「古文書で「卒」は死去を意味するのでありま」の質問画像

A 回答 (3件)

「卒」は死去の意味です。


この2つの文書、軍勢催促状は一次史料で家系図は後世の編纂物です。どちらの方が信用性が高いかと言えば、圧倒的に軍勢催促状です。調べてみると、宗長の子の貞宗は、この頃既に30代なので、誰か別の一族長老の「入道」が惣領代行をしていたとは考えられません。また、他の小笠原家文書を比較すれば、「小笠原入道」が宗長なのか貞宗なのかはわかるはずです。
こちらの家系図は、江戸時代に編纂された物ですから、間違いが発生しても全然不思議ではありません。
歴史学者は、後世に編纂された家系図については、「参考資料」程度にしか扱わないのもそういう理由があるからです。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ありがとうございます。
確かに言われるとおりだとは思いますが、現代の歴史家が入道=宗長と決めつけた根拠はどこにあるのかを知りたく思った次第です。

お礼日時:2024/12/20 21:19

「卒ぬ」で「しぬ」と読み、「死」を指す。

    • good
    • 0
この回答へのお礼

ありがとうございます。

お礼日時:2024/12/20 21:35

「卒」の元々の意味は「人生を終える」つまり「死」を意味します。


そこから学校を卒業するなどにも転用されています。

興味深い使われ方は、一番下っ端の兵士の雑兵のことを「一兵卒」とも呼んだことですね。第二次世界大戦やウクライナ戦争で兵の命を軽んじているロシア軍や、かつて人海戦術という兵士の大量死を前提としていた中国人民解放軍、そして降伏を認めずに逃げ場のない島嶼防衛戦での最後はバンザイ突撃という名の自殺作戦で必ず全滅していた旧日本陸軍。
こういう末端の兵士の命を粗末にする思想が「一兵卒」という言葉に繋がっているのでしょうか。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

早速のご回答をありがとうございます。
卒=死で、合っていることが分かりました。

お礼日時:2024/12/20 18:17

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!

このQ&Aを見た人はこんなQ&Aも見ています


おすすめ情報

このQ&Aを見た人がよく見るQ&A