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キリスト教と仏教がとても対称的だと思う点があります。

釈迦が現実に存在する国の 王様の 子供として、絢爛豪華 贅沢な 王宮で生まれたのに対して、
イエスキリストは夜のものでない国の王として、宿もなく、貧しい馬小屋で、庶民の子供として生まれています。

また、キリスト教が偶像崇拝を禁じているのに対して、仏教は仏像に拝むことを推奨しています。


それぞれ、信仰の自由がありますので、尊重されるべきとは思いますが、この対比は一体どういうことでしょうか?

何か意味があって、このような教祖の対称性が示されているのでしょうか?

両者とも姦淫を禁じるなど共通点もありますが、
対称性もある点に焦点に当てて、

皆さんのお考えを教えてください。

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A 回答 (8件)

偉大な宗教の創始者の出自を比較して何になるのでしょう、意味の無い


事柄です。

宗教は死後の世界を語るのです、キリスト教と仏教では死後の世界観が
まるで違います。
キリスト教は死後に蘇って、生前の行いを基に神が審判を下して、
天国か地獄行が決まります、審判を受けなければ成らないので火葬に
しません。

仏教の死後の世界は、幾重にも重なっていて、広大な世界観なのです。
上座部仏教と大乗仏教で目指す死後の世界が違って来ます。

上座部仏教は輪廻転生から解脱する為に、苦行や修行を行います。

日本に伝わった大乗仏教は宗派によって目指す処が違います。
悪行や煩悩を捨てる為に、仏典を学び修行を行う
自力本願の天台宗、日蓮宗、禅宗、その他があります。

阿弥陀様を信じる事により、阿弥陀様の力を得て、極楽浄土に
導いて戴く、修行をせずに、念仏を唱える、他力本願の浄土宗と
浄土真宗があります。

薬師如来の世界、弥勒菩薩の世界、観音菩薩の世界と様々な仏典が
あり、ネパール仏教を加えると、二万以上有るとの事です。

東洋の思想は奥が深いのです。
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貧富について


・・・・・・
貧乏人は生きるのに精一杯であるし、辛く大変な状況を自力で改善するのは難しい。だから神に縋ることになる。

そういう状況の中で、イエスは預言者として神の声を聴くことになり、教団を組織した。

金持ちは、贅沢品や美女は簡単に手に入るが、権力闘争や遺産相続争い、妬み嫉みに陰謀も多く、貧乏人がうらやむ贅沢品や美女に囲まれた生活を送りながらも気が休まることがない。
つまり富者は貧者にはない苦しみに満ちた生活を送っているのだ。そして、富者にはその苦しみから修行や学問で解脱しようと試みるだけの時間的余裕と知識がある。

そういう状況の中で、仏陀は、四六時中襲ってくる「苦しみ」から逃れるための悟りを開いた。


偶像崇拝について
・・・・・
キリスト教における「神」は、概念的な存在でしかなかったので、その姿を表現することは出来ない。天地創造以来の神の言葉を預言者を通じて記録した聖書などの文献や伝承が残されているだけだ。

しかし、キリスト教の場合は、預言者の一人であるイエスを神と精霊を併せて三位一体と見做すことで、神の偶像化はしていないが、十字架に磔にされたイエスを偶像化することで、布教を視覚化して分かりやすくしたことから、大衆化に成功した。

仏教は、少なくとも仏陀は偶像崇拝を禁止していた。教えを文字で記録することさえ禁じていた。
偶像崇拝については、バラモン教にも偶像崇拝の痕跡がないことから、インドでは偶像崇拝的発想が希薄だったのかそもそも無かったのかもしれない。

一般に、インドで仏像が作られだしたのは、アレクサンダー大王がインドまで侵略した結果、ギリシャ神話の神々の像を造って神殿に収め、それを拝むギリシャ文化がインドに伝えられたことがキッカケになったと言われる。
現実問題として、インドでの仏教布教はなかなか進まなかった。
最終的にはインド国内での仏教はマイナーな宗教にとどまったが、仏像を大量生産することで、一気に東南アジアから東アジア一帯に広まっていった。
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釈迦が現実に存在する国の 王様の 子供として、


絢爛豪華 贅沢な 王宮で生まれた
 ↑
裕福な者ですら、いろいろな苦しみがある。
庶民はもっと苦しいだろう。
その苦しみから解脱させたい。



イエスキリストは夜のものでない国の王として、
宿もなく、貧しい馬小屋で、庶民の子供として生まれています。
  ↑
貧乏だったので、神は貧者、弱者によりそう。
権力者、富者、貧者を問わない。



また、キリスト教が偶像崇拝を禁じているのに対して、
仏教は仏像に拝むことを推奨しています。
  ↑
キリスト教の神は、全知全能の絶対者で
人間とは隔絶した存在です。
だから、偶像に出来ないし、するべきではない。

原始仏教では神はいませんでした。
人間が修行して、神のようになろう、てのが
仏教です。
だから偶像化は可能です。

だから、後世の弟子達は布教に便利だ、という
ことで仏像をせっせと作ったのでしょう。
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>釈迦が現実に存在する国の 王様の 子供として、絢爛豪華 贅沢な 王宮で生まれたのに対して、


イエスキリストは夜のものでない国の王として、宿もなく、貧しい馬小屋で、庶民の子供として生まれています。

生まれはさほど関係する事ではないと思います。

◆釈尊は、そうした恵まれた環境下に置いて、他人の労苦する姿を見て修行の道に出た。

◆イエスは、もとはと言えばユダヤ教の原理主義を唱え、元老と結びついたローマ帝国に殺害された。


>仏教は仏像に拝むことを推奨しています。

これは、形骸化する中で生まれてきた事です。
仏教の本来の意味は、仏像を拝むことではありません。
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BC500年と紀元0年、小麦文化と稲作文化。



混沌の中で、
風当りが強くなりすぎるような価値をなした人に対して
全方向の価値観で摩耗シールド扱いせざるを得なかった段階から
(BCから)
それとは真逆のバイアスをかける方向への
(ADへ)
進歩が浮き彫りになっていると思います。

そして、それは時代の臨界点の中での
それぞれの文化圏の最善の善処のプロットとして
一つの歴史の流れの中でつながっている。

ということだと思います。
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仏教とキリスト教は違う場所で違う時代に生み出された宗教です。



似ても似つかぬのは、仏教がバラモン教をもとにしていること、キリスト教はユダヤ教をもとにしているからです。

対称的なのは偶然ですね。

文化の違いから違う宗教が生まれている、それだけです。
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>>また、キリスト教が偶像崇拝を禁じているのに対して、仏教は仏像に拝むことを推奨しています。



キリスト教について、ネット検索すると、以下のような見解が書かれていますね。

---
キリスト教では、偶像崇拝は厳しく禁じられていますが、聖像を飾ることは、神をより分かりやすく、信仰心を高めるための手段として認められている場合もあります。
---
なんというか、「モノは言いよう」っていう感じですよね。実質的には、キリスト教も偶像崇拝を禁止していないと考えていいと思います。
ですから、偶像崇拝に関しては、仏教もキリスト教も同じだと思います。

>>両者とも姦淫を禁じるなど共通点もありますが、
対称性もある点に焦点に当てて、

仏教は、釈迦の理想(教え)と現実のバランス感覚によって、多数の弟子を持って育成したし、有力者との交流もあって、長寿をまっとうしました。

逆に、イエスは、予定どうりに行動して、十字架にかかって33歳という短命で亡くなりました。弟子たちもごく少数の女性の弟子は残っていたけど、他は、みんな逃げてしまいました。
けれど、3日後に肉体をもって復活して、満百歳になるまで世界中を伝道されて、その後の世界宗教となるキリスト教の土台を作られました。
(まあ、世界宗教になるまで順調だったとはいえないが・・)

地球を良くしたいと思って宗教の教祖になったとしても、なかなか難しいってことですね。
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原理的な仏教は偶像を拝むことを推奨しておりませんが?勿論禁止してもいないけど。



原理的キリスト教と、原理的でない派生的仏教を比較されても、それは妥当な比較でしょうか?
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