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1. イエスは 磔になり十字架上に 見殺しにされたのである。
▲ マタイによる福音書 27:46
http://bible.salterrae.net/kougo/html/matthew.html

2. その事態の中で 見殺しにした父なる神に 向き合っている。

3. 父は 子なる神キリストを なぜ見捨てたか?

4. 人間の真実の心が 見殺しにされる事態が 人間のウソ・イツ
ハリがこの世に始まったことから起き得ることとなった。

5. その無念の人びとの心を癒し和解を得させ それでも 無念が
晴らせられないことがこの世には起きるということを知らせている。

6. イエス・キリストは このような余計なことをする人生をえら
んだ。

7. そうしたかったのだ。

8. つまり 人間の真実の心が 見殺しにされる事態の原形を示そ
うと欲したのだ。

9. それだけのことだったのではないか?

10. その余韻がなにほどかのことを仕出かすかも知れないが。

A 回答 (5件)

★ 聖書に預言されていましたし、彼は全能の神の子ですから知って


いたのは当然です。
☆ イエスがキリストであるということを まづ証明してからの話で
しょう。

証明は不要と思います。
本人が”知っていた?”、”知らなかったか?”の2パターンしか無いですよね?
イエス本人が自分が神の子であると信じていれば、自動的に”知っていた”ことになります。
逆に自分が神の子であると信じ切れなければ、逮捕される前に逃亡したことでしょう。
そうなれば新約聖書も作られず、”キリスト教”も無かったことでしょう。

★ これについてキリスト教徒〔で〕・・・否定する意見は聞いたこ
とがありません。
☆ 否定意見がなければ 証明されたことに成るというのは無理です。

別に証明を意図して書いたのではありません。
”キリストは事前に復活を知っていた”説が私の思いつきなどでは無く、
現代のキリスト教会の中でも周知された話であると”説明”したかっただけです。
仮に”知らなかった”となると、”キリスト=神の子”は怪しくなりますね。

>見す見すいのちが奪われるのを黙っていること これを《見捨てる》
と言います。

”永遠に失われる命”と”数日後に復活する命”
その価値に大きな差があると思うのですが?
”見捨てられた”なら復活なんか出来なかったですね?
”死の定義”も数多くありますが、例えば”心臓停止”を死の定義とするならば
現代では”復活した人”は数多くいます。2000年前は皆無だったでしょうね。

★ 復活という”奇跡”を見せることにより、キリストは神の子である
という証明に成功しました。そして以後、現代に到るまで”世界宗教”
として拡大したのです。
☆ 現代のわれわれにも 証明して欲しいものです。奇蹟を見せて欲
しいものです。

カトリック教会では現代に至るまでたくさんの”奇跡”を認定しています。
他宗教ではダライ・ラマは何度も復活したとされますが、
なぜかキリスト教徒は”知らんぷり”してます。
知り合いのキリスト教徒に質問しても、はっきりと答えようとしません。
復活の奇跡は神の子イエスだけの”専売特許”と信じたいようです。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

☆☆ イエスがキリストであるということを まづ証明してからの話で
しょう。
★ 証明は不要と思います。
☆ 信仰の内部における特殊な説明内容としては――つまり 神学ない
し神観としては―― それでひとまづ成り立つという見方もあり得ます。

ですが 哲学としては 無理です。哲学が扱うのは 経験合理性にもと
づくことを前提とした神論です。


★ 別に証明を意図して書いたのではありません。
”キリストは事前に復活を知っていた”説が私の思いつきなどでは無く、
現代のキリスト教会の中でも周知された話であると”説明”したかっただ
けです。
☆ ご勝手です。ただしここは 哲学カテです。


★ 本人が”知っていた?”、”知らなかったか?”の2パターンしか無いで
すよね?
☆ いいえ。その本人の言い分を ほかの人間であるわれわれが どう
捉えるかというパタンが別にあります。


★ イエス本人が自分が神の子であると信じていれば、自動的に”知って
いた”ことになります。
☆ それは 本人の〔信仰の〕問題です。哲学としての神論ではありま
せん。


★ 逆に自分が神の子であると信じ切れなければ、逮捕される前に逃亡
したことでしょう。
☆ 《逃亡》が いつでも・誰にでも出来るという前提で話がなされて
います。




☆☆ >見す見すいのちが奪われるのを黙っていること これを《見捨
てる》と言います。
★ ”永遠に失われる命”と”数日後に復活する命”
その価値に大きな差があると思うのですが?
☆ あなたは 両方ともについて 《見捨てたのではない》と言ったの
ではないですか?


★ ”見捨てられた”なら復活なんか出来なかったですね?
☆ これは 表現の問題です。《見捨てられたが あとで復活した》と
――その証明も必要ですが―― 表現しなさい。


★ ”死の定義”も数多くありますが、例えば”心臓停止”を死の定義とす
るならば 現代では”復活した人”は数多くいます。2000年前は皆無だ
ったでしょうね。
☆ 何が言いたいのですか? 復活とは いちど完全に死んだから そ
のあと《成る》んですよ。そう書いてあるのでは?


★ カトリック教会では現代に至るまでたくさんの”奇跡”を認定してい
ます。
☆ それを 独り善がりと言います。

あとは省略します。

お礼日時:2018/04/15 20:22

まず、キリストは最期の晩餐の以前から、


自分が十字架に架けられることも、”復活”することも知っていました。
聖書に預言されていましたし、彼は全能の神の子ですから知っていたのは当然です。
これについてキリスト教徒の神父、牧師、信者さんに問いてもハッキリ言わない人も多いですが、キリスト教会のサイトでしっかり表記しているところもあります。否定する意見は聞いたことがありません。
彼は痛い目に遭うのだけは覚悟して、逃げずに、
最後の晩餐から始まる”宗教ショー”に臨んだわけです。
そして十字架にかかったのですが、事前に思っていたより痛く苦しく、
父親が約束していた”復活”に疑問が生じてつい口から言葉が漏れてしまったのです。
”エリ エリ ラマ サバクタニ”と。
それをシナリオを聞かされていない弟子が福音書に書いちゃったと推測しています。

>3. 父は 子なる神キリストを なぜ見捨てたか?
見捨てていません。ちゃんとキリストは復活したではありませんか。預言通りに。
十字架の上で生半可なことをやって、ギャラリーに見透かされると折角の仕込みが無駄になってしまいます。

復活という”奇跡”を見せることにより、キリストは神の子であるという証明に成功しました。そして以後、現代に到るまで”世界宗教”として拡大したのです。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ まず、キリストは最期の晩餐の以前から、
自分が十字架に架けられることも、”復活”することも知っていました。
☆ ということを ペテロら弟子たちは 分からなかったのです。

そして 聖書が イエスの復活をしるしていますから 現代のわれわ
れは その記事を知っていますが それが事実かどうかは 誰にも分
かりません。

護教論でないならば まづそのような非科学的なことについての一般
の知識を前提として語らなければならないと考えます。



★ 聖書に預言されていましたし、彼は全能の神の子ですから知って
いたのは当然です。
☆ イエスがキリストであるということを まづ証明してからの話で
しょう。

★ これについてキリスト教徒〔で〕・・・否定する意見は聞いたこ
とがありません。
☆ 否定意見がなければ 証明されたことに成るというのは無理です。


★ 彼は痛い目に遭うのだけは覚悟して、逃げずに、
・・・
そして十字架にかかったのですが、・・・
☆ それは 人間イエスについての問題です。神の子でありみづから
も神であるキリストについては 別でしょう。父なる神のはかりごと
にそのまま従っているのですから。自分のハカリゴトでもあるのです
から。

☆☆>3. 父は 子なる神キリストを なぜ見捨てたか?
★ 見捨てていません。ちゃんとキリストは復活したではありません
か。預言通りに。
☆ 復活をめぐっては すでに疑問点を述べました。

見す見すいのちが奪われるのを黙っていること これを《見捨てる》
と言います。



★ 十字架の上で生半可なことをやって、ギャラリーに見透かされる
と折角の仕込みが無駄になってしまいます。
☆ それは 個別のふるまいの問題でしょう。いまは 取り上げませ
ん。



★ 復活という”奇跡”を見せることにより、キリストは神の子である
という証明に成功しました。そして以後、現代に到るまで”世界宗教”
として拡大したのです。
☆ 現代のわれわれにも 証明して欲しいものです。奇蹟を見せて欲
しいものです。

お礼日時:2018/04/15 09:26

bragelloneさん お礼ありがとうございます。



>文明の発展、人類の繁栄は、一人の人間の自由意志によって成し遂げられます。
つまり、自由意志を成した人々の貢献の蓄積と云へます。
人間の本性である、信仰と知恵が自由意志の源なわけです。

イエスキリストもユダヤ教の神を信仰して、知恵を使い、彼の自由意志において、人々に生き方を導きました。
彼が自由意志を実現したのは、間違いないと思います。

>聖書はイエスキリストの死後に書かれました。

聖書には、イエスキリストが3日後に復活したと書かれています。
これは、輪廻転生思想によるものではないかと思います。

また、イエスキリストがおこした数々の奇跡は、彼が神の子として書かれています。

私は聖書から、人間としてのイエスキリストの自由意志は見出せません。
愛のあるイデアまでです。
聖書は、信じる物として書かれたのではないのでしょうか。
本当に、残念なことだと思います。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ ~~~~~~
>文明の発展、人類の繁栄は、一人の人間の自由意志によって成し遂げられます。
つまり、自由意志を成した人々の貢献の蓄積と云へます。
人間の本性である、信仰と知恵が自由意志の源なわけです。
~~~~~~~~
☆ これは 引用ですが どなたの文章でしょう? てふ_てふうさんご自身の
ですか?

ええっとですね。次のような構図として捉えて見方を同じくします。

〇 信仰〔における恩恵としての〕知恵(ヒラメキや良心)⇒自由意志の発揮


★ イエスキリストもユダヤ教の神を信仰して、知恵を使い、彼の自由意志にお
いて、人々に生き方を導きました。
彼が自由意志を実現したのは、間違いないと思います。
☆ イエスは ふつうの人間であると同時に 神の子であるキリストです。すべ
て その神の意志にしたがっています。

十字架上に磔になるのをやめさせてくださいと 人間イエスは 泣きながら 父
なる神に願いました。

ただし み心のままにと言って おのが自由意志のすべてをゆだねました。



★ ~~~~~~~~
>聖書はイエスキリストの死後に書かれました。

聖書には、イエスキリストが3日後に復活したと書かれています。
これは、輪廻転生思想によるものではないかと思います。
~~~~~~~~~
☆ 旧約聖書は イエスの以前に書かれています。

生まれ変わりは 同じ遺伝子の者が過去にいないからには あり得ません。

復活というのは 人間の知性では分からないと思います。

肉の身体があるなら 霊の身体もあるはずだといったように書かれていま
す。

★ また、イエスキリストがおこした数々の奇跡は、彼が神の子として書
かれています。
☆ そうだと思います。

★ 私は聖書から、人間としてのイエスキリストの自由意志は見出せませ
ん。愛のあるイデアまでです。
☆ 人間イエスは 神なる父および神の子なる自身であるキリストに従っ
ています。

★ 聖書は、信じる物として書かれたのではないのでしょうか。
本当に、残念なことだと思います。
☆ 《信じる》を伝えているはずです。

問題は その指(聖書という文章)の先において神を指し示したというこ
とです。

指そのものを見ているという場合が多いのです。

文章ないしオシヘは 指であって 神ではないわけです。

お礼日時:2018/04/09 23:36

私は聖書はよく解らないのですけれども、よくできたお話だとは思います。



人間の本性はイデアに従うことである。
人間がイデアを忘れたことによって、世界は人間の思うようになると勘違いが起きている。
私は敢えて十字架に架けられて、人々のイデアを目覚めさたい。
勿論、逃げることもできるのだけれども、人々が永遠にイデアを忘れないように。

イデア→愛のある心
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 私は聖書はよく解らないのですけれども、よくできたお話だと
は思います。
☆ そうですか。正直な話としては まるっきりわたしの《ねつ造》
ですので――ほかにこんな話を聞いたこともありませんので――
どんな反発や拒絶反応が出されるかと思っていました。


★ 人間の本性はイデアに従うことである。
☆ そうですか。わたしの考えとしましては 固定した観念として
のイデアではなく――なぜなら その場合には 人生が信念や信条
としての人間の能力と努力〔だけ〕の問題になってしまうと思うか
らですが そうではなく―― わが意志や能力をも超えたところか
ら得られるヒラメキのことであるなら 賛成なんですが。



★ 人間がイデアを忘れたことによって、世界は人間の思うように
なると勘違いが起きている。
☆ どうも プラトンのイデアのことを言っておられるようですね。

あたまの中の観念〔だけ〕のお話になってしまいませんか?

イデアに従うなら――たとえこの世では実現がかなわないとしても
―― その全体としての世界では 人間の思うようになるという考
え方をしていませんか?


★ 私は敢えて十字架に架けられて、人々のイデアを目覚めさたい。
勿論、逃げることもできるのだけれども、人々が永遠にイデアを忘
れないように。
☆ ううーん。

つまり:
★ イデア→愛のある心
☆ ですか。単なるプラトニズムでもないんですね。

敢えていぢわるな応答をしてみましょう。(いつもぢゃないか?!)

人びとは《イデアに目覚めること》は とっくに出来ていてそのこ
とを《じゅうぶん――あたまでは――知っている》のではないです
か?

それをつねに実現させているか? 肝心な大事なときに《忘れずに
その心を発揮することが出来たか?》という問題が つねに生じて
いるのではありますまいか。



人間の成し得ることは せめて癒やしと和解〔のきっかけをつくる
こと〕であり そのために《同じ経験〔の原形〕》をイエスは 身
と心との全身全霊で敢えてやらかしてみせた。

――だけだったのでしょうか?

お礼日時:2018/04/09 05:20

何が聞きたい?

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この回答へのお礼

ちゃんと 読め。

お礼日時:2018/04/08 23:08

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