出産前後の痔にはご注意!

和宮の降嫁するさいの行列が50Kmにもなったといわれえいます。
これは事実なのでしょうか?
50Kmは半端な距離がありません。
宿に泊るにして、とうてい一箇所ではすまないでしょう。
行列のに人数はどれくらいだったでしょうか?
1万人いたとしても、数Kmもあればよい気がします。
またそんな人数は必要ないのではないでしょうか?
お供が千人いたとして、それの警護が3千人で事足りるのではないかと思いました。
50kmは話が大きくなってしまっただけでしょうか。

よろしくお願いします。

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A 回答 (5件)

 yoshinobu_09 さん こんばんは、参考までにご覧ください。



 皇女和宮の降嫁は、舟による渡河がない中山道を使いました。ただし、諸荷物
道具の類は、出立に先立ち、東海道を経由して別途輸送されました。

 従って、行列はある程度の荷物は軽減されていました。とは言え、舟を使わず
といえども、中山道は、中部山岳地帯を貫く街道で難所も多く、例えば、当時の
和田峠など、人のすれ違いがやっとというような険阻な山道もありました。
 そもそも、五街道が制定された当時、道幅も決められたのですが、宿場内はと
もかく、山中では馬のすれ違いが出来ない箇所までありました。
 そういう所を、とんでもない人数の行列が通ったのです。

 加賀前田家(初めの頃は木曽路を通っていた。)など、大人数の大名行列も同
様でしたが、行列の先頭から最後尾までが数珠繋ぎに列を組んでいたわけでは
ありません。

 先ず、宿泊場所の確認・手配に始まり、先触れ、警護、本隊などに分かれ、そ
れぞれに人足・荷駄が加わるわけですから相当の人数・行列になりました。
 このような人数を受け入れられる宿泊施設といいますと、「大概帳」によります
と、当時、木曽路で比較的規模が大きかった妻後宿であっても、旅籠の数は大
小あわせても31軒しかなく、相当手際よく各宿場に手配できたとしても、行列の
大半は野宿をせざるを得なかったと思われます。

 では、どれくらいの人数であったかといいますと。文久元年(1861年)10月20日に京を出立し、草津から中山道経由で江戸に向かったとき、その行列
の規模は、朝廷方数千人、幕府方1万5千人、人馬の継立て1日平均2万5千人
が動員されたといいます。

 実際の行列の長さを正確には存じませんが、こう書いてまいりますと、50キロ
という規模は、あながち誇張ではないであろうと思いますが、如何でしょう。
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 #3の更なる追加投稿です。


 
 小生の投稿は、記憶に基づくものですが、#2の方が人数の出典を
求めておいでですので、以下のURLの記述が参考になると思料され
ます。

 この様な資料を確認したうえで投稿すれば、小生の記述内容少しく
趣が変わったと思いますが、大湫宿の記録など、小生の記憶と近似の
数値ですので、大筋、この様な感じではなかったかと思います。

参考URL:http://www.geocities.jp/moriyamamyhometown/moris …
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 #3の補足です。



 編集中に送信し、読みずらくなってしまいました。すみません。

 文中、「人馬の継立て1日平均2万5千人」の次に「馬750匹」を追加
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別に知識があるわけではありませんが、目に付いたのでコメントします。



50キロはさすがに誇張じゃないですか?50キロの行列って事は2メートル間隔で一直線に並んでも2万5千人ですよ。実際は密集したり横にも広がるでしょうからそれ以上になるでしょう?

降嫁行列50キロに関しては、私としても気になるので出典が知りたいです。差し支えなければ教えてください。
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あくまで想像ですが、行列の規模は随行するものが6千人、諸藩の警備陣が5千人規模で、1万人規模の人数が往来することになります。


日本最大の加賀前田家の大名行列が、最大時で4千人、普通は2千人といわれますから、それに比べても桁外れの規模の行列で、そもそも1万人の人間の宿の確保も大変で幾つかの宿場に分宿しますし、道も当時は狭いので先頭から時間差をつけて徐々に出発せざる得ません。
また密集してるわけでもなく、偵察隊、本隊、後衛などに分かれれば、あながち50kmになっても不思議は無いと思います。
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Q和宮降嫁のルート

和宮降嫁のルートですが、大河によると中仙道を通ったらしいですね。

これが疑問なのですがなぜに中仙道なのでしょうか?
一番楽なのは船ですが、公武合体を喧伝するなら大名行列のように陸路を選ぶこともあるでしょう。
それにしても中仙道とは奇異です。
普通は東海道でしょうし、中仙道上に薩摩や水戸があるわけでもありません。いったいどういう意図があったのでしょうか?
途中に見せ付けてやりたい藩でもあったのでしょうか?

Aベストアンサー

こんにちは。
私は、自称「歴史作家」です。

>>これが疑問なのですがなぜに中仙道なのでしょうか?

(1)最大の要因は「警護」のしやすさ、からでした。わざわざ山の中を通るわけですが、「公武合体」に反対する者が襲撃してきても、東海道のように広い路では、刀が振りやすいし、一気に集団で襲って来ることも考えられます。
(2)そこで、中山道を通ったのは、集団で襲って来たとしても、狭い山道ですので、一気に押し寄せてくることができない。刀も十分に振り回せない。などなど、で「わざと」道幅の狭い中山道と決定したのです。
(3)また、海路を使用しなかったのは、当時は、すでに諸外国の船が日本の沿岸まで何隻も集まっており、「攘夷」を唱える朝廷としては、外国船の襲撃も恐れました。
(4)さらに、和宮が京都を出立したのは、文久元年(1861)10月20日ですが、現代の太陽歴になおすと、11月の下旬になります。当然、「しけ」なども多かったので、これは「却下」。
(5)そして、東海道を通らなかったわけは、NO2.の方も言われているように、河川が多く、大風(台風)のシーズンではありませんでしたが、やはり、大雨で川の増水による「川止め」なども予測されました。
(6)「前例」が大きくかかわった。
和宮以前に公家の姫君が江戸へ下った「例」があり、「警護」が行き届いている・・・との「評判?」が存在しました。
享保16年(1731)に、比宮(なみのみや)が9代将軍家重へ嫁す。
寛延2年(1748)・・・五十宮(いそのみや)が10代将軍家治へ嫁す。
文化元年(1804)・・・楽宮(ささのみや)が11代将軍家慶へ嫁す。
天保2年(1831)・・・有宮(ありのみや)が13代将軍家定へ嫁す。
嘉永2年(1849)・・・寿明宮(すめのみや)が13代将軍家定の後妻に嫁す。
(7)和宮の一行は、京都方(京都近辺の諸藩から集められた)1万人、江戸よりの派遣1万6千人。その他に持参した品物を運搬する人足等を入れると3万人余りにもなり、延べ12の藩が輿を守った。行列の長さは約12里(50~60Km)にもおよび、通り過ぎるまでに4日もかかった、と言われています。
そして、街道筋では、「伝馬役以外は一切の外出禁止令が出され」「女は姿を見せないこと」「通行を上から(2階などから)見ないこと」「商家の看板は全て取り外すこと」「2階は雨戸を閉じること」「犬や猫はたまた赤子も泣かせてはならないこと」などなど、幾つもの「禁止令」が出され、それを可能にできるのは人口も少ない中山道だけであった。
(8)不吉な「語呂合わせ」。
東海道で富士山の眺望がもっとも素晴らしいと言われたのが「さった峠」(現:静岡県由比町)。当時で言えば、多くの見物人が押し寄せました。そして、この「峠」を絶対的に越さなければ江戸へは行けない。「さった」=「去った」で縁起が悪かった。
ごめんなさい、「さった峠」を漢字で入力しましたが、なぜか「文字化け」をしますので、平かなで書きました。

>>途中に見せ付けてやりたい藩でもあったのでしょうか?

この回答は「ありません」でした。それよりも、通過する諸藩では、逆に、沿道の整備(橋の修復や道路を掃き清める)などで、大きな出費でした。

(よもやま話)
(1)宿場も大混乱。
和宮が宿泊する宿では、壁を新しく塗り替える。襖(ふすま)や戸棚も全て「京風」に取り替える。畳表を取り替える。さらに、その上に「真綿」を敷き詰めて、縁の下から槍などで突かれるのを防いだ、と言われています。
(2)小さな宿場町は、もっともっと、大大混乱。
美濃太田宿(現:岐阜県)は小さな宿場町でしたので、記録では、人足7,800人、馬280頭、寝具類7,400枚、枕1,400個、飯椀8,000個、汁椀5,200個、膳1,000人分、皿2,000人分を新調したり、近隣の豪農の家々から集めた、という記録が残されています。
(3)2つの宿が協力。
和宮が通過した頃、中津川宿は、人口928人、家数228軒、旅籠29軒。そして、次の宿場の落合宿は、人口370人、家数75軒、旅籠14軒、と、それぞれが小さかったためと、約1里しか離れていなかったので、この2つの宿場は共同で行列を受け入れました。なにせ、行列は約12里もありましたから・・・。そして、一行が1泊しただけで252両もかかった、と、記録では伝えています。
(4)紅葉の一枝。
美濃の呂久川付近を一行が通過中、道端にひれ伏していた土豪が、一枝の紅葉を差し出すように頭の上に持ち上げていた。和宮にも輿の御簾(みす)から見えたらしく、ただ輿に揺られるだけで何の楽しみも無かったためか、輿を止めて、土豪から一枝の紅葉を受け取った。そして、
「落ちて行く 身と知りながら 紅葉(もみじ)ばの 人なつかしく こがれこそすれ」
と和歌を詠んだ、と言われています。
(5)10月20日、京都を発ち、江戸へ入ったのは、11月15日。約25日の行程であった。

あなたの「お役に」たてたでしょうか。

こんにちは。
私は、自称「歴史作家」です。

>>これが疑問なのですがなぜに中仙道なのでしょうか?

(1)最大の要因は「警護」のしやすさ、からでした。わざわざ山の中を通るわけですが、「公武合体」に反対する者が襲撃してきても、東海道のように広い路では、刀が振りやすいし、一気に集団で襲って来ることも考えられます。
(2)そこで、中山道を通ったのは、集団で襲って来たとしても、狭い山道ですので、一気に押し寄せてくることができない。刀も十分に振り回せない。などなど、で「わざと」道幅...続きを読む

Q皇女和宮が乗った御輿は?

皇女和宮の降嫁に興味があり、ネット上ですが色々と調べています。
ただ、和宮降嫁の際の行列姿や、乗ったと思われる御輿(駕籠?)
についての資料があまりありません。

ご存知の方皇女和宮が乗ったであろう御輿や
行列の絵等がありましたら教えて下さい。
よろしくお願いいたします。

Aベストアンサー

こんにちは。
NO1.です。
まず、女「輿」に関して言えば、
まず、一番上は、屋根ですが、
http://www.deaihaku.com/haru/27.htm
この写真のように、和の宮もかなり、しっかりした、権威のある造りだったとおもわれます。何せ、天皇の妹君ですから。
次に、上部から「御簾(みす)」と呼ばれる、竹で編んだ、多少隙間の空いた「暖簾?」みたいなものが、ぶら下がります。
天皇に拝謁すると、麻布(あさぬの)であんだ「蚊帳(かや)」のようなもので、直接には天皇の顔が見えないようにしますが、それと同じ考えで、皇族や公家は、やたらに民衆に顔をみせることを極端に避けました。それもこれも、権威付けの一種とかんがえます。
そして、中山道という「狭い道」をあえて通りましたので、山あり谷ありで、台車などは無用の長物で、すべて、人力で運びました。
輿の中央が「台座」で、ここに和宮は、終始、正座をして座っていた、と考えられます。ただし、和宮が京都を出立したのは、文久元年(1861)10月2日(現代の太陽暦よなおすと11月の下旬)です。従って、暖をとるために、小型な箱型火鉢なとが手元に置かれたと考えます。炭は、箱の下に入れられおり、火種を絶やさないように炭を継ぎ足していきました。
「台座」には、畳がひかれ、約2畳弱くらいだったと思われます。
その下に、「担ぎ棒」が前に2本、後ろに2本突き出しており、和宮の輿の重さから考えると、1本の「担ぎ棒」を5~6人で担いだと思われます。従って、担ぎ手は、常に6×4=24人前後で慎重に運ばれました。
和宮の一向は、京都方(京都周辺の諸藩から集められた者)1万人、江戸よりの応援部隊1万6000人、そこに、輿入れ道具を担ぐ人足等を入れると、実に30000人以上もなり、行列は12里にもたっし、一つの宿場などを通過するのに4日もかかった、と言われています。

ざんねんながら、Webサイトでも、輿に注目した部分は少なく、次の新しい「画像むといわれても、中々、見つかりません。

先の回答の写真で思いを巡らせてください。

こんにちは。
NO1.です。
まず、女「輿」に関して言えば、
まず、一番上は、屋根ですが、
http://www.deaihaku.com/haru/27.htm
この写真のように、和の宮もかなり、しっかりした、権威のある造りだったとおもわれます。何せ、天皇の妹君ですから。
次に、上部から「御簾(みす)」と呼ばれる、竹で編んだ、多少隙間の空いた「暖簾?」みたいなものが、ぶら下がります。
天皇に拝謁すると、麻布(あさぬの)であんだ「蚊帳(かや)」のようなもので、直接には天皇の顔が見えないようにしますが、それと...続きを読む

Q皇女 和宮が詠んだ和歌を教えてください。

和宮の歌は、どこかやさしく切ない感じがして、自分としてはとても好きです。
自分は、

・惜しましな君 と民とのためならば 身は武蔵野の 露と消ゆとも

・空蝉の 唐織り衣 なにかせん 綾も錦も 君ありてこそ

・落ちて行く 身と知りながら もみじばの 人なつかしく こがれこそすれ

・哀れぞと 見ませすべ神 ませし世の 御影をだにも 知らぬうき身を

・住み慣れし 都路出でて けふいく日 いそぐもつらき 東路の旅 

・三瀬川 世にしがらみの なかりせば 君諸共に 渡たらしものを

・着るとても 今は甲斐なき 唐ごろも 綾も錦も 君ありてこそ

の和宮が詠んだ歌を知っていますが、このほかにも
知っている方はいませんか。教えてください。

Aベストアンサー

全く詳しくはありませんが、興味深いので探してみました。
こちらのサイトが参考になると思います。
http://www.asahi-net.or.jp/~SG2H-ymst/yamatouta/sennin/kazunomiya.html


『静寛院宮御詠草』 より

・袖に置く涙のつゆにうつしませ逢ふがまほしと恋ふる御影(みかげ)を

・ことしこそのどけさおぼゆ去年(こぞ)までは春を春とも知らざりし身の

通釈と補記が載っていますので、詳しくはリンク先でお読み下さい。


ご質問に挙げられていた「惜しましな~」と、「空蝉の~」については、上記の歌集から漏れていますが、和宮の歌として伝わる作なのだそうです。
歌が詠まれた背景もリンク先に解説があります。

ちなみに、最初にご紹介させていただきました、静寛院宮(和宮)はこちらの
【千人万首】http://www.asahi-net.or.jp/~SG2H-ymst/yamatouta/sennin.html
        の、《2.江戸時代二》からのリンクです。 

リンク先、ホームページのトップページはこちらです。
【やまとうた】http://www.asahi-net.or.jp/~SG2H-ymst/yamatouta/index.htm

全く詳しくはありませんが、興味深いので探してみました。
こちらのサイトが参考になると思います。
http://www.asahi-net.or.jp/~SG2H-ymst/yamatouta/sennin/kazunomiya.html


『静寛院宮御詠草』 より

・袖に置く涙のつゆにうつしませ逢ふがまほしと恋ふる御影(みかげ)を

・ことしこそのどけさおぼゆ去年(こぞ)までは春を春とも知らざりし身の

通釈と補記が載っていますので、詳しくはリンク先でお読み下さい。


ご質問に挙げられていた「惜しましな~」と、「空蝉の~」については、上記...続きを読む

Q「夏草や兵達が夢のあと・・」の意味を教えてください。

中学校とかで習ったのですが、うる覚えになってしまい、ちゃんとした意味を忘れてしまいました。知っている方お願いします。

Aベストアンサー

 これは松尾芭蕉が奥の細道の旅の途中、平泉(今の岩手県平泉町)で詠んだ句です。

 この地で長く栄えた奥州藤原氏も滅んでしまった、英雄源義経もここまで追われてついに討ち果ててしまった……という感傷の句です。

ちなみに
兵達   → 兵ども
うる覚え → うろ覚え
です。

参考URL:http://www.asahi-net.or.jp/~bk8s-sndu/hiraizumi.html

Q1丁は何メートルになるのでしょうか?

住所で1丁目2丁目~とありますが、その1丁目から2丁目の距離、1丁分の距離というのは決まっているものなのでしょうか? また、決まっているとした場合は、1丁は何メートルになるのでしょうか? 宜しくお願い致します。

Aベストアンサー

どうもこんにちは!

「丁」は「町」の略字で尺貫法での長さ、若しくは面積の単位です。
1町=約109.09m、若しくは1町=約9917m2になりますが、住所で言う1丁分の距離や面積が
この1町の長さ、若しくは面積になっている訳ではなく、それぞれの住所でまちまちです。


ご参考まで

Q江戸時代に大名の数が増えたのはどうしてですか?

江戸時代の幕府成立期に183だった大名が、
元禄には243、幕末には266に増えています。
家光、綱吉のときには取り潰しなどが多かったはずですが、
どうして増えたのでしょうか?

よろしくお願いします。

Aベストアンサー

>家光、綱吉のときには取り潰しなどが多かったはずですが、どうして増えたのでしょうか?

幕府創業期は、まだ戦国の考え方が残っていて、各藩は次男坊・三男坊を部屋住みとして「長男の予備」として考えていました。
当時は、次男坊・三男坊は「冷や飯食い」と揶揄されていました。

幕府が安定期に入ると、各藩は次男坊・三男坊を他家へ養子にする事に苦心します。3歳までの死亡率が(一般人に比べ)高かったので、そこそこ養子縁組先は多かったようです。

ところが、元禄期になると・・・。
養子縁組先も無くなります。
そこで、自分の米高から最低1万石を割いて「分藩」を行います。
幕府としても、藩の規模を小さくする事になり奨励した節があります。
分藩すれば、本家に嫡男(世継)が居ない場合、分家から養子を迎える事が可能です。もともと一族ですから、安心ですよね。

それと、将軍家に仕えていた小姓が元服。かれらは、将軍家世継が「将軍」になった時点で「立藩」しています。

Q「越すに越される大井川」船で渡ればよかったのに

江戸時代、東海道最大の難所「越すに越される大井川」ですが、
技術的に橋を架けるのが困難だったようですが、
それでは船で渡ればよかったのではないでしょうか?
すうすれば「大井の渡し」としてにぎわったものと思います。
「徒歩渡し」よりずっとよいシステムと思いますが。
また、他の川で「徒歩渡し」をしていたところがあったでしょうか?

よろしくお願いします。

Aベストアンサー

これ,実は本が出版されています。「大井川に橋がなかった理由」(創元社:著者 松村博) というそのものズバリの題名の本。
橋が架けられなかった直接的な理由は,川の流れや傾斜という地勢上,それから当時の架橋技術上の問題です。

>それでは船で渡ればよかった

その通りです。当時でも舟で渡ることは当然可能でしたし,その方が合理的でした。事実,江戸時代には何度も「渡し船を認めて欲しい」という請願が,幕府に対して出されています。ところが,幕府はこれを曖昧にして握りつぶし続けたのだそうです。

実は,「江戸時代前期に島田と金谷の両宿で川越しの人足とそれを束ねる組織と制度が整備され、彼らが独占的に川越し業務を行うことを幕府が認め保護したことにより、それが既得権益化」したのが理由だそうです。何しろ最盛期には1000人程度の人足がいたそうですから,当時としては巨大産業です。

橋にしろ,渡し船にしろ,実現すればその人達は失業です。それで猛烈な反対運動が起きるのだそうです。ストライキみたいなこともあったようで,幕府としても触りたくない課題だったのだそうです。今と変わりませんね。

だから,幕末の官軍(朝廷軍)は進軍に当たって,あっさり橋を架けさせてしまっています。軍事的理由というのが,いかに嘘かが分かります。さらに明治新政府ができると,川越人足制度そのものを取りやめにしてしまったそうです。

これ,実は本が出版されています。「大井川に橋がなかった理由」(創元社:著者 松村博) というそのものズバリの題名の本。
橋が架けられなかった直接的な理由は,川の流れや傾斜という地勢上,それから当時の架橋技術上の問題です。

>それでは船で渡ればよかった

その通りです。当時でも舟で渡ることは当然可能でしたし,その方が合理的でした。事実,江戸時代には何度も「渡し船を認めて欲しい」という請願が,幕府に対して出されています。ところが,幕府はこれを曖昧にして握りつぶし続けたのだそう...続きを読む

Qいわゆる江戸時代の娼婦はどうやって避妊してたんでしょうか

コンドームのない時代にどうやってたのかな?
とよく思うんです。

事のあとで洗浄するとか、外出しですか?
(あの時代にはピンと来ない方法ですが…)
それとも妊娠の都度、堕胎したんでしょうか?

ご存知の方いらっしゃったら、教えてください。

Aベストアンサー

吉原細見というHP(http://yosiwarasaiken.net/)に「遊女と避妊(http://yosiwarasaiken.net/moyou/hinin.html)」というサイトページがあります。それによりますと…

遊女(吉原の花魁などの幕府公認遊興場の売春婦=女郎;深川・辰巳などの岡場所の売春婦は売女と言った)の世界では妊娠は恥とされていた。当時は絶頂を迎えると妊娠しやすいと言われていたため「男に負けた」的な捉え方をしていたようです。
避妊の方法は「洗浄」「薬」「灸」それに「道具」。道具は男性用として大人のおもちゃのようなものと、女性用として御簾紙という薄い髪を丸めたタンポンのようなものとがあったそうです。いずれも紙製の頼りないもので避妊率は極めて低い、ほんの気持ち程度のものでしかなかったようです。
それでも妊娠すると堕胎する場合がほとんどだったそうで、場合によっては遣り手(遊女を取り仕切る年寄り女…「遣り手ババア」は吉原のこの役職の女性が語源)に強引に堕胎させられていたとか。当然ダメージを負った女性の中には性病や容姿の悪さなどで追いやられた遊女達と一緒に羅生門河岸という最下級の場所に送られたとか。

…というと江戸時代=昔=封建社会という背景も助長して「女性がとても虐げられている」というイメージが強いですが、実は江戸市中でも最も女性が強かった地域でもあるのです。特に花魁ともなると容姿はもちろん最高級の教育を受けた教養の高い女性であり、「源氏物語は、全部読んでありんす」というスーパーウーマンであり、それぞれの廓屋の看板であり、身分の高い武家階級や大金持ちの大店の主人を相手にするにふさわしい女性であったのです。
廓屋が大枚を叩いて徹底的な教育を仕込む所なんざ映画「プリティ・ウーマン」を思い起こさせますが、あの程度の金の掛け方では花魁の簪ひとつ分くらいじゃない?というくらい破格のものでした。今風に言えば伊東美咲に叶姉妹やマリエやデヴィ夫人や西川先生の持っているそれぞれ10倍くらいのものを与えちゃった、って感じです。
おまけにこれだけのスーパーウーマンだから、誰でも床入りできるような「安い女じゃない」のです。なんと花魁が気に入らなかったら床入りを拒否出来ちゃったんです。「いっくら金積んだって、あちきはあんたみたいな下衆とは、お断りでありんす」だったんですな。それだけに花魁目的で廓屋に通う男達は身だしなみに気を使いセンス良く知的におしゃれして花魁に気に入られようと必死だったのです。事実一生処女のまま生涯を閉じた花魁もいたのです。

それなりに格のある身分の遊女はおいそれと抱く事はできなかった、というわけですが…今の時代もそうですね。銀座の高級クラブはもちろん六本木の超有名キャバクラ嬢だって、気に入らなきゃ「おめえとなんか寝ないよ、バーカ」です。故杉浦日向子さんは「江戸時代の江戸市中は女性主導の社会だった」と指摘している通り、実は花のお江戸は女性によって成り立っていたようです。それが男尊女卑に一変したのは明治維新以後…長州と薩摩の習慣が入ってきたせいかなぁ、と個人的には考えています。
もちろん廓屋という特異な世界では劇になるような悲惨な面もありますが、実は現代とさほど変わらない面もたくさんあるんですね。

吉原細見というHP(http://yosiwarasaiken.net/)に「遊女と避妊(http://yosiwarasaiken.net/moyou/hinin.html)」というサイトページがあります。それによりますと…

遊女(吉原の花魁などの幕府公認遊興場の売春婦=女郎;深川・辰巳などの岡場所の売春婦は売女と言った)の世界では妊娠は恥とされていた。当時は絶頂を迎えると妊娠しやすいと言われていたため「男に負けた」的な捉え方をしていたようです。
避妊の方法は「洗浄」「薬」「灸」それに「道具」。道具は男性用として大人のおもちゃのようなもの...続きを読む

Qドラマ「篤姫」と「大奥(菅野美穂)」どちらが現実に近いでしょうか?

ドラマ「篤姫」と「大奥(菅野美穂さん主演)」は同じ時代・同じ人物の物語でも内容が随分違いますが、どちらが現実に近いのでしょうか?

Aベストアンサー

ドラマ「篤姫」の方がより史実には近いと思います。

ただし、特に徳川輿入れ前の部分は正確な記録がないので、どちらもオリジナル部分が多くなっています。
また家定についても謎が多いようです。

ドラマ「篤姫」の方がより史実には近い例として、
今後の展開では明らかに差が出てきます。
代表的なものとして二つ。

これから出てくる和宮との嫁姑問題では
「篤姫」の方が正解で、和宮:堀北真希vs天璋院(篤姫)が正解で、
「大奥(菅野美穂)」の和宮:安達祐実vs実成院(家茂生母):野際陽子は脚色されています。

最後まで大奥に残るシーンについても
「篤姫」の滝山(稲森いずみ)が正解で(天璋院は先に出ている)
「大奥(菅野美穂)」のように滝山(浅野ゆう子)と共に江戸城を去る場面は脚色されています。

いずれもしてもドラマはドラマで、史実にない部分は脚色せざる得ません。私的な夫婦や友人の会話は史実には残りませんよね。


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