ちょっと変わったマニアな作品が集結

コンピュータが進化してあらゆることが可能になったとして、人間はコンピュータに心を持たせうるのでしょうか?
そのとき人間とロボットの区別はなにでできるんですか?
そもそも人間の心って特別なものなんですか?
考えるといろいろとわかりません。一緒に考えてくれませんか?

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A 回答 (51件中1~10件)

極端に省略して書きますと、


もうすでに機械(ほとんどを無機質で人間が作り出したものとしてとりあえず定義)は心を持っています。
例としては、ウィルスチェックプログラムです。
このプログラムは自己と他者を区別でき、またその中から有害なものを認識し、注意・警告・駆除などを行います。これな免疫システムというだけではなく、既に心です。

私は、イランの"ハタミ大統領"を知覚するつど、オイシそうな気持ちが湧き上がります。分析すると、焼肉のハラミや和民のニヤケタ社長の顔を海馬が紐付けしているからだと気づきました。これを心だとすればウィルスチェックも同じ機構です。

もし、犬が親しい飼い主を見てシッポを振る、といった動作は心ではない。まして、ウィルスチェックは心のはずがない言う人がいるとすれば、それは人間の行動と似ていないのが原因なのでしょう。
その方向にあるのが愛知博の受付ロボット、ブレードランナーや鉄腕和アトムの葛藤ですね。
似せてあげれば、簡単に人は心と感じるに違いありません。
もう、この時代は既に一般人へも到来しています。
市販されている癒し人形(留守にして帰宅すると、人形が「淋しかったよぉ」などと言う)は大変よくできていて、実際、二人暮らしのご老人に話しを聞いたことがあるのですが、大変有機的な心の繋がり感じるとのことでした。

パターン認識や言語による経験蓄積を紐付け情報で引っ張ってきて、ドーパミンやノルアドレナリン、エンドルフィンなどのホルモンの代わりに電気他による信号になっているだけですね。これを心ではない、と否定する理由はないと、私は思っています。

人間は山やカラス(実際は山にはないがカラスにはある)にも心を感じたりする生き物です。
無機質だからと言って、心を区別できたりできる訳がない、と思います。まして有機質(クローンではなく)で機械を作る時代になれば、人間と区別するのはまず不可能でしょう。

愛や友情、美しい夕焼けをみた時の感動は?って?
それはそういう名詞として名前をつけて区別しているだけで、脳の働きは同じ原理ですよね。

子供が死んでミイラ化しても、母がいつまでも抱いたり背負ったりし続ける日本サル、動物園でゴリラの遊び場に落ちた人間の幼児を保護し、♂ゴリラを近づけようとしなかった♀ゴリラ、などの映像を見たら、心が人間にしかない特別なものとは、とても思えません。
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この回答へのお礼

わかりやすい説明ありがとうございます。
ウイルスソフトが心というのには感銘を受けました。

お礼日時:2005/07/19 10:55

#48さんがまとめてくれたので回答しやすくなりました。


工学系の考えから否定派の根拠に対して回答します。


<否定派の根拠>
>(1)認識の主体である「心」が自分自身を認識の対象にすることはできない(自己言及の矛盾)。
ちょっと良く分からないのでパスします。

>(2)心は特別なものなので、人工的に造ることはできない。
人が有機物を使って作ったものはロボットというのか分かりませんが、
分子レベルで人と全く同じものを作り出せばそれは人そのものではないでしょうか?
なぜ心を特別と考えるのかは分かりませんが、人間の脳に心のメカニズムがあるのは確実です。
義手・人工腎臓・人工心臓などは既にできていますから、そこに心がないのは明白です。
脳の一部を損傷させたサルとかの実験てありませんでしたっけ?
行動がちゃんちゃらおかしくなるという・・・

>(3)心のプロセスは論理的なものでないからコンピュータで実現は不可。
>(4)現在の技術は心を取り扱っていないから、現在の技術の延長線上では不可。
>(5)CPU,HDD,メモリをいくら寄せ集めても、心にはならない。
現在のコンピュータ技術ではそうなりますが、
根本的に今までと違うCPUなどを作っているグループもあります。
人間の得意な「パターン認識」などが得意なコンピュータを作ろうとしています。
これができれば一歩人間に近づくでしょう。
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この道をいけばどうなるものか


危ぶめば道は無し
まよわずいけよ
いけばわかるさ
ありがとう!
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#48です。



では、大変興味ある議論でしたので、まとめさせていただきます。回答された方々のご意見を正しく把握できていない点も、多々あるかとも思いますが、その点については、あらかじめ、お許しいただけますようお願い申し上げます。

<ロボットは心を持ちうるか?>
賛否両論の根拠を下記<肯定派の根拠>、<否定派の根拠>に整理しました。
また、今回の議論から賛否両論が分かれた真の原因は、心を<持ち得る/持ち得ない>の点にあるのではなく、心をどう捉えるかにあると思われます。以下#1、#2は肯定派の考え方です。これに対して、否定派は#3のように考えているようです。

<肯定派の心に対する考え方>
 #1: 心を持っているかのように振舞わせることが可能なら、それは心を持っていると言える。
 #2: 観察者側が、そのロボットに心があると考えて違和感がなければ(例えば友達になれれば)あると考えてよい。
<否定派の心に対する考え方>
 #3: 心があるかのように振舞うことと、実際に心があることは全く別のこと。

従って、この議論をさらに深化させるには、上記#1、#2、#3の考え方の違いを議論するのが良いと思います。

<肯定派の根拠>
(1)論理的でない不合理な判断や、感情もプログラム化することは可能。
(2)物質の塊である人間が心を持つのだから、同じく物質の塊のロボットが心を持ってもおかしくない。
(3)人間は有機物の塊で、ロボットは無機物の塊だが、無機物だから心ができないという理由は見当たらない。
(4)脳と神経細胞の解明ができれば可能。
(5)人間の思考を真似するプログラムができれば、将来は可能性あり。
(6)ウィルスチェックプログラムですら心を持っているのだから可能。
(7)人工知能が「我思うゆえに我あり」を理解できれば可能。
(8)脳と心の働きが完全に解析できシミュレートできれば可能。
(9)「高度なプログラム=心」なので可能。
(10)心は脳の働きの結果であり特別なものではないから可能。
 
<否定派の根拠>
(1)認識の主体である「心」が自分自身を認識の対象にすることはできない(自己言及の矛盾)。
(2)心は特別なものなので、人工的に造ることはできない。
(3)心のプロセスは論理的なものでないからコンピュータで実現は不可。
(4)現在の技術は心を取り扱っていないから、現在の技術の延長線上では不可。
(5)CPU,HDD,メモリをいくら寄せ集めても、心にはならない。

<問題提起>
以下は、議論の過程で挙がってきた問題提起です。

(1)「ロボットに心があるかないか」は偽問題、真の問題は「心を認めるか認めないか」
(2)「心=脳」か?
(3)クオリアが心の重要ファクタではないか?

.......さて、ロボットは心を持ち得るのでしょうか?そして、「心」とは?
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この回答へのお礼

おお!すばらしい!
まとめだ!
感慨深く読ませて頂きました。
後数日で良回答を出して、
閉め切らせて頂く予定です。
皆様有り難うございました。

お礼日時:2005/07/27 21:24

#47です。



>まさにクオリアの問題に帰結しますね。

クオリアの考え方は、心の外に物質である「脳」があることが前提になっています。そのため、「クオリア=心」とは言い切っていないと思います。

クオリアを論じるとき、クオリアが作り出す仮想世界の豊かさを必要以上に強調しているように見えますが、これは「クオリア=心」と考えるならば必要のないことです(心は元々豊かなので)。

私は、物質が心の外に存在していると考えない方が良いと考えます。物質世界は、「心」から見ると、数値データと数式だけで構成可能ですから、そのようなものを置く場所は、通常我々が考えるような巨大宇宙空間である必要は全然ないと思います。

どういうことかというと、心の一属性として「物質セクション」を想定し、そこに物質世界に関するデータと数式が格納されていると考えます。この「物質セクション」は、人類一人一人の「心」が共有する領域にありますので、客観世界の樹立が可能です。

こう考えることによって、「脳」<--->「クオリア」や「脳」<--->「心」の情報伝達インタフェースをどうするか問題は「論理的」には解決します。
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この回答へのお礼

御説明有り難うございました。

ここで書くのもなんですが、
そろそろ閉め切ろうと思っています。

だれかまとめてくれませんか?

お礼日時:2005/07/27 15:44

#36です。



>みなさんが心=脳という仮定を絶対のものにしているようですがそれすら疑問に思えてきたのですが。

結論として、「心=脳」ではありません。その説明は以下の通りです。

これもコンピュータ・ゲームとのアナロジーで考えることができます。

コンピュータ本体(CPU+Memory)が「脳」、ディスプレー端末のスクリーンが「心」です。

「脳」はどんなに複雑でも、その中にあるのは物理量だけです。物理量そのものには、色も音も匂いもありません。色、音、匂いを具体化しているのは「心」のスクリーンです。

「脳」の中では、青い空、輝く太陽、新緑の輝き、美しいメロディー、犬の糞、トイレの臭い、恋の悩み.......これら全ては、真っ暗闇の頭蓋骨の中に閉じ込められたデータに過ぎません。これらを具体化するのは「心」のスクリーンです。

これは、コンピュータ・ゲームのスクリーン上で、キャラクタがバトルを行う場合と同様です。コンピュータ本体にあるのは、キャラクタのデータとそのデータを制御するアルゴリズム(プログラム・コード)だけです。データそのものに色や音があるわけではありません。具体的な色や音を生成しているのは、ディスプレー端末です。

従って、「心=脳」かという疑問に対する回答は、以下の通りです。

「脳」は、「心」が色、音、感触、匂いなどを具体化するのに必要なデータを供給する場所ではありますが、「心」そのものではありません。
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この回答へのお礼

まさにクオリアの問題に帰結しますね。
におい、や色や感触をそれとしていききと感じるというのは情報とは異なるという考え方ですよね。
クオリアは心にとって重要なファクターになりそうですね。

お礼日時:2005/07/24 01:23

>心=脳のはたらきなんでしょうか?


>そこには身体の重要性がかけていませんか?
私は、心の働き≒脳(という器官)の働きだと思っています。
いわゆる魂みたいな存在は仮定しません。
例えば、脳の大部分が損傷したら、思考や感情は損なわれますし、
魂=心と考えるのであれば、脳の損傷は、心の損傷になりませんね。
また、電気刺激で、ある種の感情が呼び起こせるというのも(聞いたことがあるに過ぎませんが)そういうもんだと思います。
心がどこにあるか、と、身体を切り刻んで調べてみれば、
手や足など末端組織を無くした人(あるいは最初から無い人)が心を持っていることを(手足がないことが直接心の損傷になっていないと思われることから)思えば、そういう末端部分は、心の働きにとっては、(あるとしても)ほとんど重要な器官とは思えません。
そういう心の働きの発現がどこを無くしたとき無くなるかというと、やはり脳だと思われます。(詳しく実験してみるわけにはいきませんが)
でもまあ、よく、心臓移植した時に性格が変わる等と言うことも言われるので、そういう身体の中の器官(からでるホルモン?)によって影響する部分もないとは言えないと思います。
身体の中で、心は何処か?と分子サイズまでばらばらにしたところで、見つかりません(と思う)。1つのタンパク質やアミノ酸に心があるかと言えば、無いでしょう?
そういう意味では、バラバラにする過程のどの部分で、心の発現がなくなるか考えると、
心とは、脳の組成(脳の機能の組み合わせ)であると考えて良いかと思います。
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この回答へのお礼

丁寧な説明ありがとうございます。利便的に心=脳の働きとすることで手を打つといったところでしょうか?ですが、先天盲のひとの脳内構造は常人のそれとことなったり手を切断した後では脳の構造が変化するなどは知られていることだと思います。やはり単純に心=脳の働きではだめな気がします。みなさんはどうお考えですか

お礼日時:2005/07/24 01:20

#22です。



>重要な点は
>そんな日が来るのか来ないのかです。
>来ると思われますか?

 本心を言ってしまえば、少なくとも今の科学技術の延長線上には
心を持ったロボットは現れないです。(条件付で無しですね。)

うまく説明できないので徒然なるままに書きつくろってみます。

 「自分の存在を疑う」・・言葉にすればとっても簡単に書けますが、
いざ自己とは? 疑うとは? と考えると一筋縄では行かないような気がします。
自己をPCにインプットできるのでしょうか? 疑う事をPCにインストールできるのでしょうか?
 
 そう考えるとプログラムにしたがって作業をこなすだけのCPとは次元の違う作業のような気がします。

 また人間自体が人の心を理解していない。理解していないものを作れるか? やはり理解していないものを作ることは出来ないと思います。
  人の心を理解していないから表面的に人の振る舞いを真似るカラクリ人形
  しか人類はまだ作れていないのだと思います。

 また目の前にいる人が本当に心を持っているかどうかなんて確かめ様が
   無いような気がしますが、少なくとも自分本人は心を持っている
   事は疑いようが無いと思うので、やはり心は少なくともこの世に1つは
   存在するような気はします。
   ただその心の仕組みをまだ誰も解明できていないですよね。
   人は腕を動かそうと思えば自在に動かす事が出来ますがそれが
   ものすごく不思議ですよね。動かすつもりが無く、ただ
   本を黙読でもするように心の中で腕よ動けと叫んでも
   動かすつもりが無ければ腕は動かない。じゃ「つもり」って
   何だろう? 

   「つもり」さえあれば心の中で発声しなくても意のままに身体を
   動かすことが出来る。でもつもりは言葉では無いんですよね。
   言葉で無いものをどうやってプログラムするんだろう。

   そんなこんなで今の科学技術の延長線上に心を持つロボットは存在しない。何か今の科学的な常識がガラリと変わるような大どんでん返しのような発見がされないと心のあるロボットは出来ないと思います。

とりとめも無い文章で、段落がめちゃくちゃで読みにくなってしまいました。最後まで読んで頂きありがとうございます。


 
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この回答へのお礼

こちらこそありがとうございます。
心を持つロボットを作る前に
人間側が心がなにかを知る必要があるようですね。
心が何かを知らずに心のあるロボットは作れないような気がします。
それにしても心=脳の働きで本当にいいのでしょうかね?

お礼日時:2005/07/24 00:56

simってシュミレーションゲームやった頃の話です。



1家に8人までキャラを持てて、彼らの感情バーがいくつかあって、彼らを操作して、常にそのバーが緑に保つようにしていくゲームです。
緑の内は満足しているので、勝手に動くのですが、赤になるとこちらに訴えてきて、人数が増えるほどに指示する回数が増えます。
頭のいい子なら、勝手に腹が減れば食事を作るし、眠ければベッドで寝てくれるのですが、教育の仕方が悪いのか、勝手にやってくれないキャラもいたりして、「ああ うざい」とか思ったりします。

ある時 キャラを操ってネコを2匹手に入れました。
一匹はかわいくてよく私の操作するキャラになつきました。
もう一匹は呼んでも来ないし、私の好きな一匹の方に喧嘩ふっかけてくるし、食事を用意しても、ぐーたらして食べようとしない。
いつもゲージは不満足になっていて、とても手がかかりました。
第一人間キャラと違って、ペットは操作できないので、ややこしい。

優等生のネコ 一匹を養いたかったので、もう一匹のネコを追い出すことにしました。
マニュアルによると、あまり構わないと感情バーがどんどん下がっていって、家出して帰ってこなくなると書いてある。
ネコが腹が減っても食事を与えず、おもちゃも与えないので娯楽ゲージも下がっていきます。
「よしよし もうすぐ家出するだろう」と見ていたが、ゲージほとんど真っ赤になっていっても、家出しません。
このゲームは感情バー全部が真っ赤になれば、死亡するはずです。
それでは と壁でカコって他者と喧嘩するコミュニケーションすら断絶しました。
もう全部真っ赤です。
死にません。
ネコは瀕死になって、ずっと寝ていますが、死にません。
普段いじめられていた猫が反撃して、虐め返していますがされるまま。
普段は野良犬にすら喧嘩ふっかけているが、瀕死なので、逆に犬にいじめられて、ボロボロになっている。
でも死なない。


さすがに私の良心が痛みました。
「ごめんなさい」
わたしは彼に食事を与え、豪華な寝床を与え、トイレを与え おもちゃを与えました。
ぐんぐん感情ゲージが蘇ってきました。

「ああ、ほんと手のかかるネコだし、私のお気に入りのペットをいじめるけど、それで私のお気に入りのペットがグレるわけじゃない。それが示す私への愛情にこたえていけば、いじめられてもすくすくと育つからまあいいか」
   ↑
この感情はもし私がロボットなら持つのかなぁ??って思いました。
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この回答へのお礼

具体的な感情をあげていただき参考になります。
考えさせられました。

お礼日時:2005/07/21 19:33

お礼文にお応えさせていただきます。


狼に育てられた少年は人間でありながら「人間の心」を持たない存在と言うことになります。
また可愛そうに永遠に人間の心を持つことは不可能であるかも知れません。
我々は他者の身体を通じて自分の身体を認識し、他者の言語を通じて自分の言語を認識します。
猿の子供は鏡の中の自分を見てもすぐに興味を失ってしまいますが、人間の子供は違います。
鏡の中の身体が自分の身体で、他者から自分がそう見えていること、すなわち他者の視線で自分の身体を捉えることを学びます。

そしてさらなる段階、「~~ちゃん」から「わたし」への認識です。
「わたし」が自分の周りにいる他者にとっても「わたし」であることを理解するとき、初めて「わたし」が完全に意味を持ちうることになります。
人間が精神を持つには、このようにまず自己の身体を同定して、そこにアイデンティティーを持たなければなりません。
狼に育てられた少年には残念ながらこの「わたし」はありません。
「人間の心」を待たない人間ということになります。

脳髄は還元できるが、「こころ」は還元できるものではありません。。

ご質問の趣旨が「人間はコンピュータに心を持たせうるのでしょうか?」であれば
持たせえないというのが私の結論になります。

そして他の動物に人間のようなこころが無い以上、こころは特別なものであると私は思います。
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この回答へのお礼

はっきりとした意見爽快でした。
有り難うございます。
心を特別なものと考える姿勢もやはりもっと議論が必要ですよね。

お礼日時:2005/07/21 19:28

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Q機械も心を持っている?

機械にも心があると考える機能主義に対する反論って
どんなものがありますかね?
なんでも結構です。お願いします。

Aベストアンサー

まず「心」という言葉の問題ですが、およそ機械との関係で論じられる時には、「意思や感情」などの総体という意味で使われているのがほとんどではないでしょうか。AI関連で出版されている書籍での「心」は、英語では通常“mind” であって、“spirit”や“heart”、“soul”について論じたものではありません。ここから伺えるように、日本語の「心」という言葉の持つ広いニュアンスのうち、現実には「意思や感情」という意味に限定的に使われているわけです。
つまり「機械と心の関係」を巡る多くの議論の焦点は、ふつう合目的的かつ合理的に作られたものである機械が、自分の意思や感情という一見不合理なものを持てるようになるのかどうか、という点にあるのではないでしょうか。ここが不明確のままだと話が拡散しすぎてしまい、何の議論をしたいのかわからなくなってしまうと思います。(以下、この意味で「心」と書かせてもらいます)

もうひとつ、「機能主義」について。
ものごとについて機能的定義、構造的定義ということが言われます。椅子を例にたとえると、「イスとはその上に座れるものだ」という使われ方に着目するのが機能的定義、「足と背があって尻を置く平らなところがあるもの」という、部分間の実体的な関係性をみるのが構造的定義です。
機械について機能主義の立場が必ずしも「機械に心があると考える」わけではないと思いますが、「心」というものの働きを要素に分解して、パターン認識、計画代数、再帰的管理手続き…という個々の機能群の集合体だとみれば、程度の問題はあるにせよ、個々の機能が実現し得るならその総体である「心」も創造し得るということになるわけで、正確には「原理的には機械は心を持ち得る」というのがその主張でしょう。
(しかし実際にはこのように明快に二分できるものではありませんし、物事の認識にはその双方が必要だ、という現実的な立場をとる人が多いのではないでしょうか)

いずれにしても、「機械も心を持ちうる」という立場の代表的論客として、古くはブライテンベルク(「模型は心を持ちうるか」、哲学書房)がおり、現代ではマーヴィン・ミンスキーが挙げられるのだと思います。
ミンスキーはかつて人間の「心」を「肉でできたコンピュータ」と譬えたことがあります。つまり彼の立場では、「心」は既知の物理法則に則って作動する機械だ、ということになります。

「心」というのは原理的に沢山のプロセス(彼の呼ぶところの「エージェント」)から成り、各々のエージェントは思考を全く必要としない単純なことしかできないが、エージェントたちがレベルやフレームといった構造を通じて十分に複雑な形で社会を構成することで知能や感情を達成している、というのが彼の主張です(ミンスキー「心の社会」、産業図書)。
言ってみれば、「心」の実体は「とるに足りない動作をする無感覚なループと系列」から成る、というわけですから、「心」は現実に機械によって実現され得る、とみているわけです。

程度の違いはありますが、ダグラス・ホフスタッターもこの立場に近いでしょう。彼は、個人的な意見と断りながら「十分に複雑な知能プログラムを持つ機械は必然的に感情を持つようになる」という意味のことを書いています。もちろんこの感情や意思は、プログラムの中に明示的に書かれている必要はないものです(ホフスタッター「ゲーデル、エッシャー、バッハ」、白揚社)。
また彼は、テューリング・テストに合格するようなプログラムが創造されたとしたら、たとえそこに「心」が存在しなくとも、私達はそこに「心」を認めるだろう、とも述べています。

ただこの二人の間には結構な温度差もあります。「女の子が持っていた風船を風にさらわれて泣いた」というような文章を見た時、果たしてプログラムはそれを本当に理解できるのかどうか、という問題です。
ミンスキーなら可能だと答えるでしょうが、ホフスタッターなら、プログラムがそれを知的に理解するということまでは認めても、果たしてそれを“真の意味で”理解していると言えるのかどうか、という点については時期尚早だとして恐らく結論を保留するでしょう。

この二人の違い、「人間主義的論点」により一層の重きを置いて、「泣けないコンピュータには結局心がない」とするような立場が、ひとまず機能主義論点に対する反論となっているのではないかと思います。
この反論では、「理解」とは外形的な機能標準を満たすだけでは不充分で、もっと違うレベルを持つのが人間の「心」なのだ、とするわけです。
ここには確かに深い問題があると思いますが、実際にはAI方面の人達はあまりこの問題をとりあげるのを好みません。この立場は科学的立場を貫くことが難しく、容易に「人間の心は根本的に神秘的な理由によってプログラム不可能だ」という結論に走る危険性があるからです。背景には、人間をその精神性ゆえに高貴とし、その働きの本質は不可知であると考えたい欲求を持つ人が特に西洋には多い現実があるのでしょう。

もうひとつ、機械と人間の持つ「身体」の相違に着目して、結果的に生まれる「心」に相違があるとする見解があります。心身の相関に重きを置く立場で、社会との接点であり思考を枠づけする「身体」が違えばおのずと「心」のあり様も異なるはずだ、というもので、機能主義派の持つ楽観的態度を消極的にではありますが、批判しています。従来の認知科学の前提を批判して認知を「身体としてある行為」とみるF.ヴァレラ(「身体化された心」工作舎)などにその一端があります。

そしてもうひとつ、機能主義に対する論陣が割と少数派であるなかで、異彩を放つものとして、ロジャー・ペンローズのそれが挙げられるようです。
私自身もペンローズの著作は十分に理解できませんので、詳細はうまくお伝えできませんが、彼の立場は、「心」の概念を現在われわれが物理的・論理的にうまく記述できないのは、基本的な物理法則をわれわれがまだ理解できないでいるからだ、というものです。したがって、現在のコンピュータ理論上にあるAI研究では、人間の「心」は絶対に理解できないし創造できない、としてミンスキーやホフスタッターらの方向性を批判しています。
ペンローズいわく、「心」の働きには量子力学を超える深いレベルの法則(量子重力論)が不可欠であり、究極の統一理論であるその未知の法則が人間の思考や意識の働きを実現化させているのだ、というものです(詳しくはペンローズ「皇帝の新しい心」みすず書房、を参照なさって下さい)。

まず「心」という言葉の問題ですが、およそ機械との関係で論じられる時には、「意思や感情」などの総体という意味で使われているのがほとんどではないでしょうか。AI関連で出版されている書籍での「心」は、英語では通常“mind” であって、“spirit”や“heart”、“soul”について論じたものではありません。ここから伺えるように、日本語の「心」という言葉の持つ広いニュアンスのうち、現実には「意思や感情」という意味に限定的に使われているわけです。
つまり「機械と心の関係」を巡る多くの議論の焦点は、ふつ...続きを読む

Q大学病院と一般病院の通院との違いは?

私の今までの考えの中では 大学病院というと最新技術・医療が行き渡っていてよいというイメージがつよく (一般病院から紹介されて大学病院へということを耳にするから???)自分自身 すぐ大学病院へ行っています。 受診の際の価格もちがうのでしょうか? どういう違いがあるのか? ご存知のかた 教えてください・

Aベストアンサー

大学病院と一般病院の違いは、一言で言えば、やはり、大学病院は「研究の場」であるということです。
医学生や、研修医がそこで修行を積む場所であるということです。
だから、「自分の身体を研究材料として提供して、その代わりに最先端の医療を受ける場」ということではないでしょうか。
最近では、一般病院でも大学病院と同じ規模の施設を持つ病院もあります。そういう病院は大概、研修病院として、研修医が日夜研修に励んでいます。
一般開業医さんの方が、「かかりつけ医」としては機能しやすいと思います。
結論から言えば、比較的軽症の疾患であれば、一般開業医に、そして一般開業医の設備では対応困難であれば、大学病院に、というのが大学病院と一般開業医の違いだと思います。
医療保険請求の面から言っても、大学病院に初診されるときに、一般開業医からの紹介状の有無で初診料が違ってくると思います。
最後に、大学病院と一般開業医の使い分けは、「診察室で、自分のプライバシーが多少侵されるのを承知している」ということにかかっていると思います。
口コミであなたが信用できる開業医さんを見つけられて、もし、必要があれば高度な技術を持つ病院に紹介状を書いてもらうというのが理想ではないでしょうか。

大学病院と一般病院の違いは、一言で言えば、やはり、大学病院は「研究の場」であるということです。
医学生や、研修医がそこで修行を積む場所であるということです。
だから、「自分の身体を研究材料として提供して、その代わりに最先端の医療を受ける場」ということではないでしょうか。
最近では、一般病院でも大学病院と同じ規模の施設を持つ病院もあります。そういう病院は大概、研修病院として、研修医が日夜研修に励んでいます。
一般開業医さんの方が、「かかりつけ医」としては機能しやすいと思いま...続きを読む

Q心がどこにありますか?

 心がどこにありますか。脳、それとも胸?
 よく言われていますが、なかなかわかりにくい”心”とは、一体何を意味する
のでしょうか?

Aベストアンサー

 
ここで尋ねられている「こころ」というのは、哲学的、大脳生理学的、または心理学的な意味での「精神」「精神機能」「意識」「意識機能」などは何か、また、それらの機能の機構は何で、どこの器官がそういう機能を司っているのか、というような質問とは少し違う疑問だと考えます。

上にあげたような問題は、哲学的問題と一般に考えられるので、その場合、「こころ」に関係して色々な似たような概念が出てきます。例えば、「魂」「精神」「意識」「霊」などです。これと「心」または「こころ」はどういう関係にあるのか、また、「身体」「肉体」などとの関係はどうなっているのか、というようなことも問題になります。

しかし、この質問は、日常的な言葉の用法に見られる、例えば、「真心をこめて」とか「こころが感動する・こころが痛む」などの「真心」とか「こころ」は何か、どこにあるのか、というような質問だと考えられます。これも心理学の問いだということになります。

「こころ」の用法としては、その他にも、「ああいう殺人犯は、人間でない、こころなどないのだ」とか「こころのこもっていない言葉」とか、「こころから感動しました」などがあります。

あまり厳密な話でありませんが、「こころ」は、胸、大体、心臓のあたりにあると考えた方が妥当です。この場合、心臓のあたりに「実体としてのこころがある」のでは「ない」のです。人間を解剖すると、心臓のあたりに「こころ」が見つかるという話ではありません。

phantom limb という概念があります。日本語では、「幻肢」または「幻覚肢」といいます。これは、怪我や手術などで、手や脚などが切断されてない人が、何かの折に、生き生きと存在しないはずの手足が「ある」と感じる現象です。ないはずの手足が痛むこともあり、これを「幻肢痛」といいます。

どうして、こういうことが起こるかというと、人間の大脳のなかには、「身体図式」と大まかに言うのですが、「身体の姿」についての記憶の形があり、普段は、実際の身体から送られる感覚などと、この身体図式の身体の認識が重なっているので、身体図式は分からないのです。

しかし、手や脚などが失われた場合、身体図式は、かなり安定したものらしく、手足の喪失に応じて身体図式は変わりません。それゆえ、何かのきっかけで、身体図式の方の足や手が認識されたとき、失われているはずの手足が、存在するような感覚が起こり、これを、「幻肢」というのです。

「幻肢」について述べたのは、心が胸にある、と言ったとき、この「胸にある」というのは、一種の「幻心」のようなものとして、胸のあたりに感じられる・認識されるということです。心が大脳にあるのか、精神や霊という、肉体を超えた実体にあって、それを大脳が認識し、更に、胸のあたりに位置つけているのか、はっきりと分かりません。ここは昔から議論されているのです。

しかし、「幻心」とか言いましたが、日常的な体験で、「心」が胸のあたりにあるように感じられる、感じるというのは事実なのです。従って、こころは胸あるいは胸のあたり、心臓のあたりにある、と考えて差し支えないということです。

どうしてそうなるのかといえば、「心身相関」というものがあり、感情的に強く心が動かされると、身体にも生理的変化が生じ、内臓などにも変化が起こるのですが、第一によく感じられるのは、心臓の鼓動であり、これと関係して胸の筋肉などに、ある程度の感覚が生じるためだと思えます。

「胸がときめく」というのは、比喩ではなく、実際に心臓が動悸するのです。「胸に痛みを感じる」というのも、「思考や感情レベルでの認識」に応じて、胸のあたりに、痛みの感覚が実際に生じるのです。

この場合、「心臓の鼓動」は、胸にある心臓という臓器の活動で、はっきり胸で感覚が起こっていることになりますが、「胸が痛む」場合は、胸の筋肉が実際に痛みをもたらしているのか、大脳の感覚運動-感情心理システムのどこかで、胸の痛むが生まれているのか、場合場合で違うことになります。

「胸が痛む」とは「大脳のなかのできごとだ」というのは、多分そうなのかも知れませんが、ここまでいうと、精神機能はどういう機構で成立しているのか、精神や魂は、何が実体化という問題になってきます。

そういう問題に入らなくとも、「こころが痛む、胸が痛む」というのは、実際に、胸や心臓が痛むのであり、そこから、もっと広い意味で、比喩的に、別に胸など痛んでいない評論家などが、「こういう事件を聞きますと、胸が痛みますね」などというのですが、こういう表現の起源は、やはり、感情的に痛切なことがある場合、「胸が実際に痛む」ので、成立したのだといえます。

キリスト教では、人間を四元論的に捉えると述べて、その具体例を説明した文章があります。以下の参考URLです。

この場合、英語については、「魂」に対し、mind, soul と二つ書いています。実は、mind も soul も、「魂」というよりは、日本語でいう「こころ」に近いものです。「魂」と「心」はどう違うのかという話は難しいですが、大体、おおまかな所では、「魂」は、生命の根拠である何かの実体で、これが失われると、人は死ぬか、または、「魂の抜け殻」というような表現があるように、その人固有の「人である根拠」が消え、あたかも、身体だけが残っているようになるというようなものです。

それに対し、「心」は、「魂」の持つ機能だとも考えられるのですが、魂の働きで、主に調和的で、健全な働きを行っている場合の魂の状態、あるいは、そういう状態の魂の特定の位相、見え方だといえます。

「魂がない人」は死んだ人ですが、「心ない人、心のない人」は、「魂のない人」ではなく、無論、死んだ人でもないのです。(魂の働きが不調和な人、健全でない、マナーに合わない人ということになります)。

「こころ」があるかないかは、人と人との交流、関係で、その言動などが、「広義のマナーにかなっているかどうか」の問題だということになります。そして、「広義マナーにかなっているかどうか」というのは、自然な感じ方では、例えば、愛する人が亡くなったりすれば、「心が激しく痛む」のです。あるいは、「憐れみの心」というのか、不幸な人や悲惨な目にあっている人を見ると、「同情の心」が起こり、これはやはり「胸の痛み」として感じられるのです。

ラテン語で、心を、cor といいますが、これはフランス語の coeur(クール)という言葉が派生していますが、クールは、ラテン語の元の意味がそうであるように、「心臓、胸、心、心情、本心、真心、勇気」などの意味があります。「勇気」も、やはり、心臓の鼓動に関係するのです。

フランス語で、cordial(le) という形容詞が cor から派生してあり、副詞もあります。英語はこれを受けて、cordial とか cordially という形容詞、副詞があります。これは「心から」というような意味になります。

「心ない人」とか「真心をこめて」などの「心」は、ラテン語やギリシア語では、内臓器官としての「心臓」と同じ言葉になります。英語でも、heart というのですし、「ハート」は、心臓の意味と、心の意味の両方があります。ドイツ語では、これに当たるのは、Herz といい、これも心臓と真心などの心の両方を意味します。

「魂」という概念を出すと、「心」と「魂」は連続しているように把握され、英語の mind とか soul は、前者は、「心の機能、魂の機能」などを主に意味するラテン語の mens から派生したのですが、「魂」の意味ももつのです。soul は、英語というか、ゲルマン語族に固有の独特の言葉で、「魂」とも「心」とも言え、かなり難しい微妙な概念の言葉です。

しかし、soul(ドイツ語では、Seele)は、やはり、心臓・胸のあたりにあると考えられます。

「こころ」は、胸のあたり、心臓のあたりにあるのです。この場合、「ある」というのは、「あると感じられる」のです。心が感動するとき、痛むとき、茫然として心が失われるとき、実際に、胸や心臓で、そういう感覚が起こるのです。

それは、みかけの話で、実は、大脳にあるのだ、というような話は、「心の実体」「心の機能の実体」の所在を問題にしていることになり、それは色々な説や解釈があるのだということになります。

こころとは何か、というのは、人には意識や感情があり、心身の相関で、それはまた身体にもあるとも言え、意識や感情を感じる機能が「こころ」であるということになります。

そして、このような意味での「こころ」はどこにあるのか、と言えば、それは胸や心臓のあたりにある、というのが答えです。

(「冷血」というような言い方は、心に衝撃を受け、心が消えるような体験の場合、心臓や胸のあたりが、実際に、冷たくなるという経験があるので、そこからこういう表現が成立したのだとも考えられます。「冷血漢」というのは、血液が冷たいのではなく、心臓=心が冷たく、それゆえ、血も冷たいので、「心ない人」「心の冷たい人」と同じような表現だと考えられます)。
 
>No.361230 質問:キケロの格言の原文
>http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=361230
 

参考URL:http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=361230

 
ここで尋ねられている「こころ」というのは、哲学的、大脳生理学的、または心理学的な意味での「精神」「精神機能」「意識」「意識機能」などは何か、また、それらの機能の機構は何で、どこの器官がそういう機能を司っているのか、というような質問とは少し違う疑問だと考えます。

上にあげたような問題は、哲学的問題と一般に考えられるので、その場合、「こころ」に関係して色々な似たような概念が出てきます。例えば、「魂」「精神」「意識」「霊」などです。これと「心」または「こころ」はどういう関...続きを読む


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