※このカテゴリでよいのか自分では判断がつきかねますので、もし何かお気づきでしたらご指摘ください。
 
「覚えていられないようなものは価値がない。どんどん忘れなさい。」
これは某ベストセラー本にある一節です。(文面は変えてありますが。)
これが私には至極ひっかかってしまうのです。

―「忘れてしまった、または忘れてしまっている、ようなもの」は自分の人生という大きなものさしの上では(長期的にみれば)価値がないものだ―
私はこのように解釈しました。つまり自分の記憶というものにも重要度に応じて
淘汰が起こりうるということでしょう。実際脳内神経のしくみからも、使われない回路(シナプス)はだんだんと消えていくのだそうですが。

しかし私は、単に電気信号が伝わらなくなったニューロン=自分にとって全く無価値であるが為、というのは当てはまらないと思うのです。本当は自分の求めている真理に触れているような大事な記憶であるのに、ただそれを永久保持するのが機能的に不可能なだけであって、一時期他のことに傾倒したばっかりに忘れてしまったことというのもあるはずではないのでしょうか?もしくはそういうことを考慮にいれてもやはり忘れたものはしかたがない、のでしょうか?
それは個々の意思次第ともいえるでしょう。しかし、例えば義務的強迫的に覚えさせられたものの割合が高い人はこれに当てはまらないでしょう。

長文で申し訳ありませんが私にとってとても大きな命題なので意識してまわりくどく表してみたつもりです。こんな私の疑問にじっくり付き合ってくれる方の意見ぜひおまちしています。

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A 回答 (12件中1~10件)

 


  「現在を生きる」というこの意味が、どうもわたしの考えていることとはかなり違っているように思えます。また、貴方が若いからかも知れませんが、何を問題にして、何を問いかけているのか、どうも明確に分かりません。大脳の記憶のメカニズムなど、極端に言えば、この場合、どうでもよいことだとも言えます。
  
  西欧中世のような世界であると、或る特殊な場や人々、時期を除いて、概ね、社会の変動は非常に緩慢で、文化や技術や知識や流通情報や流通物品なども、ほとんど数十年とか、数世紀という単位で緩やかに変化はしたが、あまり急激な変動というものはなかったのです。このような世界では、何を学ぶべきか、何を習得すべきか、何を覚えるべきか、何を心に刻めばよいか、何を価値あるものとすべきか、こう言ったことは、ほぼ自明的で、人生の生き方の技術というものは、大体、定まっていたと言うか、有効なモデルがあって、それに準拠して生きていればよかったのです。
  
  しかし、現代のように、社会も文化も技術も流通物品も、流通情報も、知識も、世界観も価値観も倫理観も、何もかもが急速に変動し、状況が時々刻々変わって行く世界になると、良く生きるための技術とか智慧とか、モデルとかいうものは有効なものがなくなってしまうとも言えるのです。というより、実は、本質的に重要なものは、時代の状況や変動を超えて存在しているのですが、それが何か、見えなくなるし、分からなくなるのです。こういう世界では、処世の術は、くるくる変化し変動する状況に合わせて、次々に自分のありようを変えて行くというのが一つの方法としてあるでしょう。昨日有効であった知識や技術は、今日もう有効ではない。昨日そのやりかたでうまく商取引できたやりかたが、一夜にして崩れ、会社は倒産する。製造メーカーもどこにバグがあるのか分からない、というより、欠陥だらけのOSが、何百万と販売される。マニュアルを読みつつ覚えた操作方法や、機能や手順の名称が、新商品が発売になると、あっというまに別のものに変わり、また、新しいマニュアルを読まねばならないし、新しい用語や機能を覚えねばならない。印刷すると、千ページを越すマニュアルでも説明しきれない機能が付いたソフトが、多数販売され、それらが数年の内に別のものに次々に変化して行く。これはコンピュータの話ですが、ことはコンピュータのOSやアプリケーションだけではなく、大衆消費社会のなかで、作為的に過剰な情報を捏造し、商品を差別化と称して、くるくると入れ替わり立ち替わり消費者の前に提示し、欲望をかき立て、社会・経済・政治・技術・科学・情報の世界において、無数の明日になればすぐ別のものと取り替えられる物品や知識で溢れかえっているのです。そもそもこんな情報や物品、システムの氾濫などに人間は適用するようにはできていないのです。このような「空しい変化の氾濫する世界」で生きようとすれば、新しい情報や状況を受け入れるため、次々に過去の知識やスキルや規準や対応指針を絶え間なく変更させ、状況に空しくも追随し順応しなければならないでしょう。しかも、その順応も適応もすでに述べたように、一夜明けると通用しなくなって行くのです。従前の知識やノウハウでは把握できない新商品・新状況が、意図的に操作して作り出されているからです。
  
  このような状況では、有効な知識は記憶に残っている、そうでない過去のものは、どんどん忘れて行くべきだ、ともなるでしょう。
  
  人が自己の人生にとって何が重要か、生きる智慧とは何か、それらを、冷静に緩やかな過程で反省し、自己の心の課題とするのは、何か夢のような話にもなってしまっているのです。「人生の教訓」「生きる智慧」「何を支えとするか」「幸福を得るにはどうするか」「いま見直される仏法の真理」とか、出版社の営利目的としか思えない、それらしき低俗な本がまた氾濫し、「生きることの真の真実」の光を、氾濫する情報のなかに埋もれさせているとも言えるでしょう。
  
  真に重要な価値ある「生の宝石の智慧」はどこにあるのか。それは限りなく探し求める「今の過程」のそのなかにあるのです。真に重要な、実存を生きる智慧は、暗黒の悩みと光への憧憬のあいだで、人の心の奥底に常に存在して消えることはないのです。それは、忘れるというより、未だ知っていないし、永遠に知ることもない知識・智慧であるのです。ソークラテースは「魂を気遣え」と言いました。また「汝自身を知れ」という言葉をいまに伝えました。人の実存にとって、真に重要なこと・生きる智慧・人生の宝石の結晶は、そんな簡単に忘却できたりするものではないのです。それは、暗黒の意識・無意識のなかで燦然と輝いているのです。その光は、時折のなにかの感動や、発見や、驚異において垣間見られるでしょう。そしてそのような「垣間見た」経験を忘却するとしても、また違う形で、あるいは記憶の想起という形で、心に甦って来るでしょう。そしてまた「現在に生きる」とは、最高次元の生き方であるという智慧もまた理解されるでしょう。「現在に生きる」とは、作為的営利的ランダムに絶え間なく変動してやまない状況に刻々と順応して、不要なものは棄てるという生き方ではなく、人生の過去も未来も、貴方自身も他者も、無数の異国の人々も、地球上の生き物も、そしてこの銀河なる宇宙がすべて、いまこの時、貴方において、生成し生き、躍動しているといういま=現在の生の謂いなのです。このような「現在に生きる」とは、何なのか、人は見出せないし、見失っているでしょう。しかし、このような「いま現在の生の全体性・充熟性」というものは、日々の多忙さや、変転してやまない状況のなかでも、心のなかに、ある時は微かな光を発する星として、ある時は、華麗なる宝石の花として、貴方の魂に生きてあるのです。貴方は、この星・宝石の花の或る意味で、かりそめの夢でもあるのです。人は遂に自己の心の星=宝石の光を実感しないままに、空しくも死んで行く存在かも知れないでしょう。しかし、だからこそ、「魂を気遣え」とソークラテースは言ったのです。多くの人は、複雑な修辞や難しい議論や、あきれるような膨大な知識を誇っている、情報や社会の変動は、それに順応できない人間を進歩の敗者として扱う。されども、そのようなプラグマティックな有益性・利益性・社会順応のための知識や技術とは、所詮、「知」を僭称する人間の傲慢に過ぎない。いま、生きてあることは驚異ではないか。この銀河の宇宙は神秘であり驚異ではないか。誰か、世界の創造の真実を知るのか、誰が我々がいずこより来たりいずこに行くのか知るのか。わたしは「故郷」を忘却した「無知」なる者にしかない。されど、空しき情報と風のごとき消え去るこの現代の喧噪と無意味の氾濫は、「知」にもっとも縁遠いものであろう。「永遠」そして「真理」というのは、この「いま」に生成しているものなのです。それに気づくか、気づかないかの違いでしょう。また気づいたとて、人は幸福を得るものではないのです。
  
  わたしは、なお迷妄の世界を彷徨っている空しき旅人であるでしょう。わたしの旅は、心の、そして魂の旅でもあったと言えるでしょう。そしてなお迷妄にあるのです。『旧約聖書』伝道の書で、コーヘレトは言いました。「若者よ、汝の若い時に神を知れ」。そう、「神を知る」とは、貴方が「無知」であるということを知るということでしょう。そして「魂への気遣い」が心にある限り、何を忘れようと、真に重要なことは、幾らでも、この永遠のいまにあって、泉のように甦って来るでしょう。「求めよ」とイエスは言ったのです。「求めよ」、そうその時、永遠の命の泉の扉は、いつでも、このいまに開かれるでしょう。
  

この回答への補足

すみません。個人的に詮索したいというわけではないのです。

文面から察するにstarfloraさんはかなり成熟した大人の方だとうかがえるのですが、なにか特別な環境にいる(あるいは、いた)方なのでしょうか。便宜的処世術としての「生きること」と真理を純粋に追い求めようとするスタンスとをここまで言葉で表現でき、そして両方わきまえているような貴方のアイデンティティーが、その節々に見受けられます。
よろしければこの場をつかって、あなたがこれまで考えてきたことや勉強したことなど貴方が許す範囲で構わないのでいろいろ深い考えをご提示いただけませんか?

※質問―回答という構図を脱しているし、その必要も義務もないといわれればそれまでですが…。

補足日時:2001/10/22 02:03
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この回答へのお礼

正直どんなに言葉を慎重に宛がおうと努力しても、これを書いている時点での私の気持ちは表現に窮してしまいます。伝えられるか分かりませんが、ただ、現在の私はこれを読んで衝撃を受けている、ということだけが唯一確からしいです。

starfloraさんの考えに触れたのち、私はただ単に情報過多な世の中を要領よく生きる処方上であがきそしておどらされていただけなのかもしれない…そのように疑うようになった自分がいました。
そして、決して大げさな表現などではなく、たとえるなら「私が必死に探していた行方知れずの人の後ろ姿」をとらえられたように思います。(その人こそがstarfloraさんであるなどというおこがましい意味ではありません。)

というのも、以前私はまさしくstarfloraさんの考えを、感覚的にではありますが体現できていた時期があったのです。それは8ヶ月ほど前までのことで、その期間自体は、ほんの2か月間かそこらというすずめの涙ほどの時間でしたが、20歳の私にとっても、ひときわ光り輝いていたといえるのです。毎日生きるのが楽しかった、などという陳腐なイメージではなく、もっと自分の中のもの―脳然り、血液然り、筋肉然り、五感然り―が鋭利に研ぎ澄まされ、私という実存を駆り立て、どこからか全てを見つめている見えない何か、を内にも外にも感じることができていたのです。

もう少し私のことについて語るのを許してください。(何度も書きますがけして自分のことを劇画チックに伝えようとしているのではありません。あくまで一番近い表現を模索した結果です。)
私が、そういう考えを体現できたのは、あるきっかけがありました。それは物理的刺激などではなくその逆、いわばお告げのようなものなんです。それは誰かといえば前述した私の父です。(私の父は私が高一のとき癌で他界しています。)
彼は何もいいませんでした。けれどなぜか怒って私を諭すかのような眼をしていたようです。その画は現在でこそ歪んでいるかもしれませんが、とにかく怒っていたということだけは覚えています。
因果関係はわかりませんがそれ以後しばらく私は、上述のような感覚を「捉まえて」いることができたのです。

こうしてstarfloraさんのような思慮深い他人を知ることができたことをとりあえず感謝したいです。私が恐れ、同時に憬れていたもの、それをこそ私が「忘れて」いたものだった気がします。
※質問の内容からとことん外れてしまったこと、そして自己顕示欲丸出しのつまらない私的閉塞的なlong taleになってしまったことを詫びます。しかしここまで赤裸々に綴ったのは私なりのstarfloraさんへの精一杯の礼の形だと思ってください

お礼日時:2001/10/22 02:00

NO.7の回答に対するあなたのお礼は素晴らしいです。

僕の回答の前にOーjiroさんの引っかかりは取れていたようですね。
 ただ、あなたの精神が上向きのままでいられるかということですが、あなたの文面には信心のようなものを感じます。ですから、病によって下向きになったとしても、以前の下向きとは違うと思います。というより、本当に鬱の人の言葉なのかって思います。もう治っているんじゃないですか?って思います。
>「割り切るところ」というのをつかんだように思えます。たんなる失望でないことを自分で自分に言い聞かせてます。
 バイオリズムが上向きか、下向きか、両方、然りって思えているんじゃないですか。上向きとか下向きとか、気にしなくていいほどなのではないかと思います。
 いい話をありがとうございます。
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この回答へのお礼

よそ様に私などの文面を褒めていただいて、単純ですが非常にうれしい限りです。

悪いときの私は、他人の評価や視線というものに過敏になってしまいます。このこと自体はいまだ完全に「治って」はいないと自覚しています。
しかしcaballeroさんやこの質問にご回答いただいたすべての人たちのおかげで、自分と向き合うのに焦る必要はないということを再確認できました。

いま私が欲しているのは、私にとっての自他のバランスをとるためにも、いい意味でシンプルな自分本位の姿勢をとることです。付き合いと称した自分への我慢や、友人が集まる場の雰囲気に流されたり、甘えたりということを、すべて排せずともこのことをそのときその場できちんと自覚していたい。

迷ったら、ここで皆さんに教授いただいたことに立ち返ればいいのですからね。

お礼日時:2001/11/02 00:29

>一時期他のことに傾倒したばっかりに忘れてしまったことというのもあるはずではないのでしょうか?


 すごくありますよ。
 思い出したいのにそうはいかないっていうこと、すごくたくさんあるとおもいます。大事なものと分からずに、、。
 一度だけ出会って、一目ぼれして、二度と会わなかったら、その人の顔は思い出せません。綺麗だったなぁということぐらいです。「綺麗」という言葉によりギリギリその人のイメージが保たれている?のです。
 又、ミュージシャンはテレコを重宝します。「Hey Jude」だってポールマッカートニーが車でドライブ中に思いついたものを、その場ですぐにテレコで録音したから、忘れられずにこの世に残される名曲のひとつになれたわけです。録音していなかったら別の曲になっています。つまり、思いついた時のメロディは忘れられ、消えているのです。テレコがないばっかりに消えていった珠玉のメロディたちも数限りなくあるのです。ブランド主義によって世に出る事の無いまま消えていった「無名の名画」達がいるのです。そのものたちが無価値であったなどと誰が言えるのでしょう。民謡などとして「生き残ったもの」だけに価値があるなどと、これらの事実を前に誰が言えるでしょう。
>「覚えていられないようなものは価値がない。どんどん忘れなさい。」
この一文は一概に解釈するとめちゃめちゃいってる、、、となりますが、その著書の中のものとして解釈すれば、何か言いたいことがあってそう書いたんだなぁと理解できるのではないでしょうか。この一文だけ本の外に持ち出しても、著者の意見を反映する事は出来ないと思います。まさに、「本の一節」として捕らえるべきだと思います。すると、この一文があなたに引っかかる事も無いのではないでしょうか?
 
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この回答へのお礼

こんにちわ。レスありがとうございます。(やや遅れてしまってすみません。)
下でstarfloraさんという方からの回答をいただいて以来少しずつですが私のバイオリズムのほうも上向きになってきたか、という今日この頃です。

そもそもわたしがこの質問をさせていただいたのは下の回答や補足にもありますが
少し前まで自分の中にカンジたこともないジブン、(ニヒルに表現すれば単なる躁状態だっただけ?)を発見できたことと、原因不明の鬱状態がその後すぐにやってきたという主観的事実をなんとか打開しようと、自分の中で多分に感覚的試行錯誤を繰り返してきたその中の1つの試みでした。

わたしは(主観的なことなので他人と比較考察はできませんが、)自分の気分や情緒、感情、性格、理論、自己評価、行動といったものがあまり極端に変わるので、このことが私の人生にとって最大のネックであり、日和見的にいえば私の魅力でもあると自負しています。二重人格とかではないんです。ある不定の周期をもって、ある一時私は同じ悩み、行動を繰り返し自己評価を宙ぶらりんにしたかと思えば、だんだん感覚的に自分のバイオリズムが上向きになり、曲線の頂点では自己評価が少なからず肯定的になります。そしてこういう状態をなんとか持続できないかとその最中あれこれ考えをめぐらせます。しかしだんだんと再びバイオリズムが下がっていくのかどうかはわかりませんが、全てがどうでもよくなります。

このため私は同じ人との交友関係のギャップが激しく、激しい気まぐれというかムラがありすぎる私のこの性をみずから恐れて、他人とのつきあいは結局とても浅いものでしかなくなってしまいます。人を信用できないというのはあまり当てはまらないんです。ほんとはもっとひとりひとりその数は少なくとも深い付き合いをしてみたいんです。
そう思って私は自分の「過去」―「感覚的記憶」についてぼんやり考えをめぐらせてきました。意思でなんとか変えられるところがあるのなら変えたい。忘れていた感覚があるのならもういちどそれを知覚したい…

私は典型的躁鬱病なのかもしれません。けれど最近はおかげさまで「割り切るところ」というのをつかんだように思えます。たんなる失望でないことを自分で自分に言い聞かせてます。
長くなってしまってすみません。ほんとありがとうございました。

お礼日時:2001/11/01 01:24

ここは議論をする場所ではないので、O-jiroさんに補足説明を


しておきたいと思います。というよりも、もうすこしあなたと
話したいからです。

そもそもなぜ「現在を生きろ?」という疑問を抱えられたのかは
O-jiroさんがおかきになられた補足でわずかばかり知ることができました。
それは亡くなられた父上はなぜ怒った目をしていたのだろうということだと
おもいます。その疑問に向かうために、O-jiroさんの言葉で
記憶の問題をきっと語ろうとしたのでしょう。

私はその問題から、浅い知識をフル回転させて、すべてが
可能であるかもしれない道をさぐってみました。もう一度
読んでみてください。O-jiroさんが問題に立ち向かうとき
記憶の問題はもう邪魔にはならないのかもしれません。
なぜならそれは神秘的な力など必要もなく、今わかっている
だけの不完全な科学ですら、手続きとして解決できることだからです。

人はそれぞれの固有の問題をもつものです。その問題は不器用で
回り道かもしれないけれど、一足づつ進むしかないのです。
別の崇高さを大げさに語るのでなく、まず頭の中にある問題に
向き合ってみることが大切なのかもしれません。
性急に、魂の世界だけで答えをおしつけて宗教団体に参加するような
方法もまちがいではないとおもいますが、それは精神の多様性を
みつめたことにはならないのかもしれません。なぜなら物だけ信頼するのと
同じくらい、観念だけを大切するのはバランスをうしなっているから
です。我々の価値がイデア界にあるのなら、影なる我々はそれこそ現在など
生きる必要さえなくなるからです。この与えられた肉体にできる術を、
あらゆる知見と勇気をもちえて、私も探って見たいと思います。
答えではなく、問題を探していけたらと思います。

それにしても、私の父もいまだに怒った顔で私の夢に現れます。
きっとO-jiroさんの父上も、諭すように怖い顔であなたを
見守ってくれていますよ。
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この回答へのお礼

そうですね。ちょっとはなしを大げさに膨らませすぎました。
でもtaleさんはこんな私に3回もレスしていただいてほんとありがとうございました。今後も自分なりに、一喜一憂することを恐れずアイデンティティーを練っていきたいと思います。

お礼日時:2001/10/26 00:42

 


  機能の大脳における器質的機構などどうでもよいというのは、「わたしは、或る嫌な記憶あるいは、覚えていたくない記憶を持っていますが、この記憶をできるだけ忘れるようにするにはどうしたらよいでしょうか」とか、逆に「わたしは、ある記憶しにくい事柄あり、しかし、是非絶対忘れないように、記憶に刻印したいのですが、どうやればよいでしょうか」というの質問内容、または問題であるなら、記憶の現在分かっているメカニズムについての知見や、トラウマの解消の技法なども、論じる意味があるでしょうが、しかし、問題が違っているのではないかと言うことです。
 
  つまり、「実存の問題」を或る意味で尋ねている訳で、その場合、記憶の問題が絡んでいるとしても、人格全体として連関する記憶問題で、その場合、「記憶」「思考」「知能」「言語」「知覚・認識」「判断」「感情・情動」「意志」「統覚自我」「主体意識」「意識一般」「自覚意識ヴィジランス」「精神と物質の二元論問題」「無意識・前意識」「論理」等々の構造機構問題が密接に関連し合っているのだと言うべきです。科学は、以上の問題について、例えば「記憶」「思考」「知能」「言語」「情動」等について、大脳生理学的アプローチを行っていますが、これらは、統覚自我意識を軸として、いわば、多面立方体である、人間実存の存在立体の、それぞれの特定の機能構造解析のようなもので、それぞれが、特徴的な或る「面」についてのモデルを、実験と生理学的事実・知見から築いている訳で、実存や人の生き方と関係して、「記憶」の問題が提示されている時、「記憶」の機構モデルを出してきても、それだけでは仕方ないと言えるからです。
 
  総合的な、統覚意識・精神の構造モデル乃至その展望が必要なのでしょうが、そういう問題は、個別的実証的な現在の科学の知見水準では、構成も展望も、未だまったくというか、ほとんど未完成な不明な状態なのです。例えば、記憶と忘れるという問題については、大脳生理学的な記憶のメカニズムだけではなく、精神分析の意識・無意識のモデルも重要な意味を持ちますし、トラウマの問題にあるような、臨床心理学的な知見も必要になるのです。「心の悩み」について、精神分析や臨床心理学や、向精神薬や、カウンセリングなどは、実は、科学的に有効だと確言できるようなソリューションは持っていないのです。海馬が、一時的記憶を、短期的記憶に移すための媒介機構であるというらしいことが分かっても、それは、一時的記憶のなかでしか生きられない病気の人の病因の説明になっても、人間精神のあまりな多様性と複雑さについて、この程度の知見では、どうしようもないと言うことがあるとも言えるのでしょう。言語と論理、思考と判断、情動と規範倫理などは、確かに何かの密接な連関構造のなかにあり、先に立体構造体と言ったように、これらは、分離してモデルを造って、それらを、単純加算すれば、構造が記述できるというようなものではないということです。
 
  人によって考え方が違うかも知れませんが、少なくともわたしは、唯物論のような単純な世界構造論を認める訳ではなく、「精神」や「イデアー」や「普遍理性」のこの世を超越した実在を構想するのです。科学的知見に無知であるからと言うより、科学が、どこまで行っても、人間の統覚意識主体性や、普遍理性性について、答えを出せないことが分かっているからだとも言えます。人間の統覚主体意識あるいは精神は、上に列挙した多様な機能や作用面を備え、心身構造性も更にあるのであり、コンピュータのモデルによる人工知能研究などは、或る意味、高次抽象アルゴリズムを前提にして構築しているのであって、それでは、人間の多元性・多実体性・多機能・多様性は、モデル化できないと言うことです。(ところで、婉曲的な話として、ホットメイルに、わたしのハンドルと同じ名のアカウントのものがあるようです。GOOにもフリーメールがあるようですが、わたしは使ったことがありません。ネット上メールというのは、一々ログインしてパスワードを入れなければならず、パスワードを記憶できるのは、せいぜい、十個ぐらいがわたしの場合限界なのです。また、使っていないとすぐ忘れますし、こういうことについて、忘れないようにするには、どうすればよいのか、その記憶の秘訣などを知りたいものですね)。
 
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O-jiroさんの言葉に応えてさせていただきます。


今度の問題は「意識的に忘却できるか」ということですね。これはさらに難しい問題です。意識的であるということはそれだけで、すでに記憶を明示化してしまいますから、先の論点でいえば、意識してしまうと様々な情報に関連づけやすくなり、記憶はさらに強化されてしまうというジレンマがおきます。では意識的に忘却はできないのでしょうか?そんなことはありません。できます。それを今から照査してみましょう。

O-jiroさんは二つの忘れる方法について考えられました。
別のことを考えて忘れるということ。そしてもう一つは意識的に忘れること。まず別のことを考えて忘れるメカニズムを簡単にみてみます。記憶はたったひとつの脳細胞がうけもっているわけではないですよね。一つの記憶には、その記憶を成り立てるための複数のニューロンの連合野があります。これはよく星座にたとえられるのですがある記憶を思い出すとき記憶の部位の特定の箇所が、いくつか選択されて同時に亢進状態になるのです。プラネタリウムの星座の星の場所がチカチカと点滅することをイメージしてください。この明滅する星を線で結んだものが一つの記憶のかたちになるのです。他のことを考えて忘れるという方法は、まったく違うニューロンの連合野を反復して使うことで、忘れたい記憶のニューロンのつながりを弱いものにするということです。脳の中の新しい星座が古い星座を消してしまうわけです。

では意識的に忘却するにはどうすればいいのか。
たいてい意識的に忘れようとすると、忘れたいことを堂堂巡りに繰り返してしまいます。それでは記憶を強化してしまうのです。そこで意識的にこの記憶を別のものにしてみましょう。それは脳の中の古い星座に新しい星をくわえることでべつの星座にしようという方法です。つまり原因や結果を省察して、さらにこの記憶に関する様々な情報を送り込みます。悪しきものの再演ではなくて、この記憶のかたちそのものを変えてしまうのです。ニューロンの連合野の構成を変質させてしまうのです。新しいニューロンの参加は、この連合野全体を刺戟して、この記憶そのものをべつの形に変貌させ、古い連合野を忘却させます。このように意識的に忘却することもできるのです。つらい記憶があるとして、この記憶に逃げ道をたくさん張り巡らす作業のようなものです。トラウマに対する治療は上のような方法をもっと精密化したものです。

たとえば崇高な教えや、美しい言葉はそれを信じている人だけに効果があるものです。別のことを考えて忘れる方法に似ていますね。しかし回り道でも何かの仕組みや手順をもちいてたどる道は、意識的に忘れる方法と似たものがあるといえます。

この回答への補足

私の、あれほど曖昧模糊とした仮説をこれほどまで説明いただいて、何か背筋が「熱く」なるのを感じました。(大げさじゃないですよー)ほんとon demandです

―大脳の記憶メカニズムは、極端に言えば、この際どうでもよいのかも―
これは下のstarfloraさんの回答でご指摘を受けた内容なのですがこれについて皆さんはどう考えられますか。
私が質問の中で大脳神経について取り上げたのは、内容は哲学に沿ったものでも、意思と記憶についてのきちんとした客観的事実を踏まえねばと思ったからです。
(まあ私が最終的に求めていたものに最も近かったのがstarfloraさんの回答にあったわけですけど、私は認知的アプローチにも事実大いに興味があるので。)

これはここで補足することじゃないのかもしれませんが、私はもうちょっとだけここでみなさんの回答を待ち続けるつもりなので、よろしければまた暇なときにでも考えてください。

補足日時:2001/10/22 02:54
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>忘れるって意識的に出来ない



出来るんでしょうか?少なくとも「忘れたい」と思った瞬間に私は忘れられない
んですが・・・(^-^?
「思い出す」かぎりデリートされてない記憶って事ですよね?
そうか、忘れたことすら忘れるからかな?

回答になってなくてすいません。また良かったらお返事ください。
他の方の回答もとても参考になります。
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この回答へのお礼

taleさんという方が上でこの問いに、ありがたくも答えてくださっていますね。
ほんと心底勉強になります。私自身こういう場で皆さんの考えに触れることができ非常にうれしいです。

よろしければそのtaleさんのとこに書いた補足についてまた考えてみてください。
一緒に勉強しましょう。pco1633さんの回答にも期待してるんです(^^)

お礼日時:2001/10/22 03:29

こんにちは。

なんか「捨てる技術」の記憶版みたいな本ですね。taleさんが脳について解説されてるので迷いましたが、僕も某著作から記憶に関するわかりやすい説明を紹介しますと・・・。

「記憶というのはまず短期記憶ボックスに仮入れされる。のちに記憶の価値を検討した後、少しずつ記憶レベルをあげて長期記憶ボックスに移すか潜在意識(深層意識)に移して表面的に忘れてしまう。これらは脳が勝手にやるので本人は悩む必要がない。価値決定も長短期決定も脳がやる。メモリーが不足してきたら重要でないものから忘れさせ空きを作ってくれる。」

「他の事に没頭する」「原因を特定する」もケースバイケースであって最終的には自分の脳が判断することですね。忘れたいのに忘れられないと悩む必要はなく、その必要に迫られるまで放っておきましょうということです。
当然罪悪感を感じる必要もないわけです。

「同じことを長く続けない」というお父上のお言葉はよくわかります。
僕は個人的にはこれは「生活のコツ」だと思います。何かに義務的になるというのは毎日インプットされる記憶のほとんどが「価値なし」と脳が判断しているのでしょう。そういうのはさっさと忘れてしまいます。いわば空白の時間が生まれるので「今自分は何をやってるのだろう?」と思うことになるのでしょうね。個人的にはこれと正直に生きるは少し違うように思います。

僕はイデオロギーなどではなく、これが脳のシステムであると思います。それでは、補足があればまたお答えします。
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たとえば、座禅会などに行きますと、悟りというものは、悟ったと思ったとたん忘れてしまうので、禅の修行は一生続けないといけないのだといった講話を聞くことがあります。


この場合だと「悟り」ですが、真理といものは、なかなかつかみにくいものだから、記憶として残らないものなのかもしれません。しかし、真理は重要なので、忘れないために不断の努力をするわけです。
だとすれば、覚えておかねばならないものがある場合は、それなりの努力が必要なのだと考えることができます。

この回答への補足

禅を引き合いにだしてくれたjun95さんの意見には大変説得力があります。ちなみに私の住んでいるのは京都なのですが、近くのお寺で毎月座禅ができるのでちょうど最近、来月あたり行ってみようかなと考えていたところなんです。

般若心経や悟りについての説教にも興味があるので、認知科学的に自分で考えてみることを「忘れない」ようにする一方で禅にもまじめに取り組んでみたいです。
ぜひ下記の補足についても意見をおねがいします。

補足日時:2001/10/21 13:44
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とても本質的な問題なので、どうかお話をさせて下さい。


まずO-jiroさんの問いかけは、「忘れてしまった記憶は
自分にとって無価値だからではない」ということでした。

これはすぐに論証できます。アトランダムな20桁の数字を
すべていえたら賞金がもらえると仮定して、この
20桁の数字は価値あるはずなのに、人は簡単に忘れて
しまうからです。価値ある情報でさえ忘却するのですから
価値の有無は忘れることとは関係ないことになります。

さて脳科学では一時的な記憶と長期記憶の二つの記憶を振り分ける
機能があるそうです。これは価値の度合いによって振り分けられている
のではなく、繰り返し反復されることで、他の保存された記憶との
関係が複数関連付けられ(複数のニューロン接合がおこなわれ)
長期記憶になるとのことです。つまり
消えてしまう記憶というのは無価値だからではなく、単に
他の記憶との関係が見出せなかったに過ぎないということになります。

逆にいうとトラウマのような個人にとっては価値の否定的な
記憶も、さまざまな記憶と結びついて保存されてしまうのです。

このようにもし、O-jiroさんが何かを忘れてしまっても
それは、価値がないからではありません。たんに情報が
他の情報とうまく接続できなかっただけなのです。
また付け足せば潜在記憶という分野もあります。
個人の心的なバランスのために抑圧されて
忘れたような状態になっているだけだという説です。
O-jiroさんの心のバランスのために一時的に忘れられた
記憶である場合もあるということなのです。

長文で失礼しました。

この回答への補足

正直taleさんの意見、すごく勝手にシンパシーを感じるというか、私の仮定を見事証明してくれて大変気持ちがいいです(笑)。

>価値ある情報でさえ忘却するのですから 価値の有無は忘れることとは関係ないことになります。
>心のバランスのために一時的に忘れられた 記憶である場合もあるということなのです。
この2つをなんとか長期記憶に残しておきたいものです。

あ、自分のことばかり書いて何を補足したかったのか忘れてしまいました(^^ゞ
taleさんとぜひ談義を交わしたいという「意欲」ばかりが優先してしまいました。よろしければ下の補足への相談にものっていただけると幸いです。

補足日時:2001/10/21 12:44
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おそらく 西洋の哲学は 最初からけっこう いろいろと間違った出発をしてしまったのではないでしょうか?

 「考えるが故に我あり」  ?

考えることが出来たって もし何か感じなければ そこにどんな意味や価値が生まれうるのでしょう。

五感を失ったかのような(完全に失ったとかではないのですが、ある種の病気でいろいろな能力が まるで無くなってしまったかのようになってしまう時がある)体験ありますか?

私は 3年も それで苦しい想いをした体験があります。

私の場合運よく、 川原に ドテっと 長い長い間寝転んでいたら その川の音が すこし何かを変えてくれ、その少しの扉みたいなのが  急速に 治してくれることになりましたが  何もかも灰色に見えるような世界です。

感じなかったら 何を考えてもまったく 価値の世界は見えてこないと思います。

そこに 生きているどんな意味があり、どんな「我」の意義があるのですか?

「人間は考える葦である」

人間が考える存在であることは(あたりまえですが)そのとおりでも、なぜ 葦なのでしょう?

まあ 葦みたいな 弱い生物でもあるということでしょう。 そして 考えることは、それでもできるということでしょう。

しかし 葦と人間では 感じる脳が 無限に違います。 当たり前のことですけどね^^。

人間は 感じることを深めてゆける生物、  太古にも太鼓の文化は 実は深かったはず、 猿から進化し 心にユトリが生まれた時から、 人間は、 星を見、 感動し、始めて知る「友」 (それまでは本能の仲間しかなく そこには笑いかけるユトリは宇宙にも生命の中にも存在しなかった)と 目と目でその感動を分かち合ったはず、     考えるだけでは 半欠けの 人間進化しか起こらないと思いませんか?

歌も 確かに歌詞でできていて、そこには西洋哲学が追求してきた言語学の世界が生きてはいるでしょう。 しかし、 同じ歌詞でも 歌は その生活の中での音声により、 その想いのうねりによる節回しにより、まったくちがった深みを持つ作品や 生きた心の触れ合いを生む歌として 生まれ行きます。

感じる心と、 それを表現する心の表現の世界の本質を見失って 思索だけで技術のみ追いかけていては、 ビジネス改革も 文化改革も 生活革命も 何も起こらないのではないですか?

感じる心の思索なしの 道徳は 弱すぎませんか?   嘘やごまかし つまり偽善にまけてしまいます。  言葉だけで どんな 有効な哲学が可能なのでしょう?

「歌を忘れた哲学」にどのような価値があるのでしょうか?

みなさんのお考えをお聞かせください。

おそらく 西洋の哲学は 最初からけっこう いろいろと間違った出発をしてしまったのではないでしょうか?

 「考えるが故に我あり」  ?

考えることが出来たって もし何か感じなければ そこにどんな意味や価値が生まれうるのでしょう。

五感を失ったかのような(完全に失ったとかではないのですが、ある種の病気でいろいろな能力が まるで無くなってしまったかのようになってしまう時がある)体験ありますか?

私は 3年も それで苦しい想いをした体験があります。

私の場合運よく、 川原に ドテ...続きを読む

Aベストアンサー

「哲学」という、特殊な存在がある訳ではない。
概して、本質性への探究を伴う、認識的深まりの
ことを言う。
曲解であれ誤解であれ、そこに「認識的深まり」
としての悟性を有するなら、迂回であっても至る
先は一つである。
その点、歌のように、自己の感性に内向した芸術
表現とは、全く異なる価値に属する。

Qあなたの生き方を大きく変えた知識や気づき

宜しくお願いします。



「ある知識や気づきを得たことで、生き方が大きく変わった!」

という方に質問します。


あなたの生き方を大きく変えた知識や気づきとは、どのようなものですか?

その内容を教えて下さい。


回答例

「以前は人間が嫌いだったけど、○○を知ったことにより、人間が好きになった」

「昔は威張りん坊だったけど、○○に気づいてから、謙虚な人間になった」

「前は短気で喧嘩っ早かったけど、○○という道理を知り、温和な平和主義者になった」



ご回答お待ちしてます。

Aベストアンサー

いろいろあります
「人間不信の彼女とつきあって、人間のすべての行動には理由があって、その人にとってはどうしようもない選択をしているのだ、と知ってから、
どんなことにも腹が立たなくなりました」

また
「仏教や儒教を勉強して、自分が何を信じていて、それが何の根拠もない危ういものだと知ってから、客観視が容易にできるようになりました」

「テレビを全く見ない彼女とつきあって、テレビのつまらなさに気がつきました」

Q自分が自分でいるために必要なものは?

タイトルのとおりです!
自分がまるで、他人が見ている夢に出てくる、ただの登場人物でしかない。
本当に自分が"存在"しているのかが不明確なんです。
できれば、自分自身の存在が証明できる発言を待っています。
よろしくお願いします。

Aベストアンサー

我思う故に我在りとかいっちゃっても、頭の中で観念的に自分自身を確認することには必ず限界があります。
自分自身を確認したいなら、世界となるべくディープにかかわることです。いろんな人とたくさん話をしたり仕事を一生けんめいやったり。
友達から電話がかかってきたり、おーいこの仕事やってくれーと頼まれたり、そういうことで自分自身の存在が確認できます。

Q「死」しか生産的で価値のあるものはない?

生=苦痛の回避
死=苦痛の不在

苦痛をなるべくなくすこと=幸せが目的である人間にとって
死しか生産的で価値のあることはない
違いますか?

Aベストアンサー

 こんにちは。

 ううん。ただ 死はまだ知らないし あまり好きくないんですよねぇ。どうでしょうか?

Q「価値と・・・」価値3

何度もすいません。かえって混乱しています。
事物の「価値」が、事物に有るのか、認識する人間の精神(感情・理性)に有るのかという問題ですが、人間の精神のにあると理解するほうがほうが旗色が良いようです、ひょっとするとそんなものは元々ないのかもしれませんが。
今回は具体的に質問してみます。

目の前に、焼きたてのサーロインステーキがあると想像してください。この食物の価値は、私の精神の中にあるのでしょうか。確かに自分の視覚は社会や文化の影響を受けていて、牛肉を食べる習慣のない世界の人とは違った認識を経験上持ってしまうことは解かります。

それでもその一切れを食べ、歯ごたえや味覚、香辛料の香りとときどきのどをとおる音、これらの私の身体的五感がステーキの中に価値そのものを見出してしまうのです。

「価値」が精神の認識だとすればステーキと言う存在をどう捕らえればよいのでしょう。

この質問は一見ふざけているように思われるかもしれませんが、結構まじめなんです、「出来の悪い生徒ほどかわいい」といった寛容な精神で教えてください。

Aベストアンサー

 
  「価値」が、例えば、ステーキとすれば、それを食べ経験し、認識あるいは判断する人間の「精神」または「主観」のなかにあるのか、または、ステーキという或る意味超越的な「事物(レース)」のなかにあるのかというのは、質問の立て方がおかしいというべきでしょう。
  
  一応、事物(レース)は、外在的に、超越的であっても、プラグマティックに存在するとして、この場合、認識あるいは判断は、ステーキだけで成立するものではなく、また、いかにグルマンであろうと、粗食家であろうと、それを食するものの精神内部だけで成立するものでもないでしょう。事物と精神の中間領域というか、両者があい交わる「機能的な空間」において「成立または現成」しているというべきでしょう。「現成」という言葉を使うのは、お金や金銀宝石がそうであるように、事物との直接的な実践の交わりなしに、精神内部において、「仮想の価値」を形式的に与えられているものは、皮相的に考えると、精神のなかに価値があるようにも、金銀や宝石それ自体に価値があるように思えても、実は、それらは、精神における「仮想あるいは仮象」なのだと言えるからです。
  
  人間の精神は、生存の活動や、精神の志向性の行為発動において、外在的世界の事物と、何らかの「関係」を結ぶのであり、この関係は、先に「交わりの機能的空間」と呼んだものと同じであって、主体と対象のあいだに生存の活動あるいは精神の行為によって、「関係・交わりの空間」が成立し、この空間の場において、価値などは、現に成り立っているということです。間主観というのは、主観と主観のあいだで、客観へと通底するように成立する精神の位相ですが、このような事物と精神の「関係・交わりの空間」も、また、広い意味の間主観的事態でしょう。
  
  間主観的に成立している事態は、純粋の主観でもなければ、純粋の客観でもないのです。そして現実にわたしたちが生きている世界は、こういう世界・現成する・しつつある世界であるのです。ステーキだと思っているものが、実は巧妙に造られた大豆蛋白の模造牛肉かも知れないし、本物の牛肉ステーキでも、味付けや料理の仕方で、客が、これは鯨のステーキではないのかということにもなります。客観としての事物が本当は何であるのか、主観には分からないのです。しかし、それでは、主観の思い通りに何でもなるのかといえば、そうでもないのです。これは最上級のステーキですと言って出された料理を食べて、「素晴らしい味だ。これこそ本物のサーロインだ。最高の価値がある」と判断した時、この「価値判断」は、主観と客観の丁度あいだというか、「関係・交わりの空間」で、その時に現成しているものなのです。
  
  先の最上級のステーキだと言って出された肉が、実は、大豆蛋白から造られた合成牛肉である可能性もあり、反対に、本物の牛肉サーロインのステーキを、これは、我が社が開発した大豆蛋白の合成牛肉のステーキですと言って出された客が、食べてみて、「これはうまい。本物のステーキのようだ。だがやはり、合成牛肉は限界があるようだ」と判断した場合、これらの主観的判断にある「価値」は、どこに帰属するのかということです。それは、牛肉ステーキだ、あるいは大豆蛋白ステーキだ、と言われてステーキを出された「状況」、その肉の実質、客の味覚と記憶などが絡む判断の総合的事態として、その「場」で成立しているものでしょう。同じ人でも体調によってものの味の感覚が変化し、化学調味料で造った味か、本来の味か、区別が付かない事態も起こるでしょう。ステーキという事物があり、それが食事に供されるという場にあって、食べる人の主観と、事物のステーキの客観のあいだで、「関係の場」という相互主観・間主観において、ステーキはうまいという価値あるいは、これはまずいという否定価値が、現成するのです。
  
  「ステーキは美味だし価値ある」という経験から導かれた認識の命題が、ある人のなかで成立する時、それは「このステーキは現に食べていまうまい」という現成事態判断ではなく、抽象化された判断でしょう。人によっては、「ステーキの味は嫌いで、あんなものは、価値がない」という命題判断をしている人もいるでしょう。しかし、人が抽象命題判断していても、そのことと、事物としてのステーキは、また独立していあるとも言えます。価値あると思っている人に出すと、ステーキが牛肉に代わり、嫌いだという人に出すと、ステーキが、大豆蛋白に変化する訳ではないでしょう。
  
  ものの価値は、それを経験する相互関係の場で・現成する場面で成立するのですが、そこから離れて、抽象的形式ともなりえるのです。「事物自身に価値がある」と言えば、確かにあるとも言えます。しかし、それは、「関係の場での相互主観における、価値現成」において、具現化するのです。また、価値は、精神主観のなかにあるかと言えば、主観のなかにあるのは、現成の場を離れれば、抽象的認識とその命題でしょう。「サーロインステーキは最高に美味で価値ある」というのは、抽象命題であり、一種の「仮象」の認識なのです。
  
  素材が最高のサーロインステーキだから美味なのか、サーロインステーキだと認識するので美味なのか、実際食べてみて美味なのか、この三つの事態が同時に、同じ「相互連関の場」で起こり、判断が現成するのです。だから、事物に価値があるのでもなく、認識する主観精神のなかに価値があるのでもなく、経験のなかに価値があるのでもなく、これらが相互両立する「場」のなかに価値があるのです。
  
  ものや商品について、「使用価値」とか「交換価値」ということが言われます。使用価値が、事物の備える客観価値で、交換価値とは、主観精神のなかの判断命題における価値付与で、実体事物の価値とは別に、仮象として成立しているものだとも言えます。金銀宝石は、使い方によって使用価値がありますが、使い方を知らないものには、たいへん美しいものだ、という程度のことでしょう。金は、物性からして優れた金属なのですが、その使用価値よりも、交換価値の方が優越しているのです。また、交換価値しかほとんどないものは、紙幣の形の貨幣でしょう。あるいは紙の形の有価証券などでしょう。大インフレーションが起これば、一万円札千枚も、ただの紙の山になります。株式は、会社が倒産すれば、これも紙屑でしょう。
  
  しかし、「実在としての・レアルな価値」は、使用価値にも交換価値にもなく、両者も含めた認識における、生存や行為の場での「関係空間」で「何が」主観と間主観にあって現成するかで決まってくるのです。
  
  ステーキは旨いという価値判断は精神のなかにありますが、それは抽象形式の命題で、仮象なのです。その極端な例が、紙の貨幣や有価証券です。逆に、旨いステーキがあるのだというのは、それを食べて味わい判断する主体がいないと、どこにも価値はないというか、現成していないのです。
 

 
  「価値」が、例えば、ステーキとすれば、それを食べ経験し、認識あるいは判断する人間の「精神」または「主観」のなかにあるのか、または、ステーキという或る意味超越的な「事物(レース)」のなかにあるのかというのは、質問の立て方がおかしいというべきでしょう。
  
  一応、事物(レース)は、外在的に、超越的であっても、プラグマティックに存在するとして、この場合、認識あるいは判断は、ステーキだけで成立するものではなく、また、いかにグルマンであろうと、粗食家であろうと、それを...続きを読む


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