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教科書に載ってないような源氏と平氏のおもしろい話があったら教えてください。
一応下関出身ですが、源氏と平氏の話をあまり知りません。大河ドラマの義経も見てません。
宜しくお願いします。

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A 回答 (8件)

源平合戦最後の勝利者は平氏だったてことかな



 桓武平氏は壇ノ浦で壊滅しますが、それ以外の平氏は面白い行動をしています。
 桓武平氏の一門である北条家及び熊谷家は、源氏について平氏打倒に協力しました。
 平氏滅亡後、北条家は清和源氏を滅亡させ、承久の乱で叛旗を翻した源氏系御家人を殲滅(彼らは落人となって山奥に隠れ住む結果となった。平家の落人村といわれる村のほとんどが源氏の落人村だそうです)、平家は我が世の春を謳歌しました。これが滅びるのが1333年の鎌倉幕府滅亡です。
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この回答へのお礼

おもしろい話ですね。鎌倉幕府崩壊へのシナリオは壇ノ浦の戦いで以降、少しづつ出来ていったんでしょうね。
しかし、日本の歴史に、北条氏の存在は大きいですね。

お礼日時:2005/10/07 12:31

天皇の庶子の家系が数代経た場合、源や平の氏を賜り臣籍に降下しました。


家系の始祖となる天皇の名前をとって、XX源氏等といわれます。
しかし、清和源氏の始祖は清和天皇の一代後の陽成天皇ではないかと言われています。
その根拠は、源義家が奉納した起請文にあります。
起請文には、義家の7代前より清和源氏ははじまったと記されています。
しかし、7代前の天皇は陽成天皇なのです。
では、なぜ後の世では陽成天皇を始祖としなかったのか?
これは、粗暴で評判の悪かった陽成天皇を始祖とするのを嫌ったためではないかといわれています。
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この回答へのお礼

なるほど、源や平の氏はそういう理由があったんですね。ちょっと話がそれますが、以前、遺伝子のことについて話してる時、天皇家の遺伝子はかなりホモ化されてるんじゃないかと、友人と話していたんですが(顔があまりにも皆同じなので)、そのときの話で、色んな血が混じってヘテロ化されてるはず、でなければこんなに続くわけない、という話でまとまりました。
もっと話がずれて、宮様は臣籍に降下した場合、どういう風に名乗るんでしょう?(これは特に質問って訳ではないです)

陽成天皇は暴君だったんですね。なぞが解けました。
有難うございます。

お礼日時:2005/10/07 21:00

#3 の回答に対するお礼について:


清和源氏の始祖は清和天皇ではなくその子の陽成天皇だったような....
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この回答へのお礼

回答有難うございます。
それじゃあ清和源氏じゃなくて、陽成源氏なんですね。
どうして清和源氏になったのか、なぞがあっておもしろいですね。

お礼日時:2005/10/07 19:09

No.1さんのつけたりですが、


平家の武者も那須与一の弓の腕前によって、踊りだしたものがいるのです。
しかし義経は、与一に命じて、その老武者を射殺させた・・・
そんな話が実は平家物語にあります。
(この場面は平家物語絵巻にもあります)
結構興ざめですけどね
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この回答へのお礼

回答有り難うございます。
那須与一って存在は結構気に入ってるんですけどねぇ。

お礼日時:2005/10/07 12:34

No.1です。



ちょっぴり脱線するネタ。

平家の落ち武者の子孫が福島県の(多分)桧枝岐村(ひのえまたむら)にいるという話を聞いたことがあるんですが、そこでたまたま地元の高校生と話をしたうちの父親が、その高校生の発音があまりにきれいで驚いたって話してました。福島弁のなまりがなかったそうです。

「やっぱり、都の人の血を受け継いでんだなぁ。」って感心していました。

ホントに余談でしたm(__)m。
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この回答へのお礼

お父様はおもしろい方ですね。「都の人の血」って言い方に思わず笑っちゃいました。
今時の地方の高校生って標準語でもちゃんと話せる子多いですよね。
やっぱりTVの影響でしょうか。

地方に行って、高校生が方言で話してるの聞くとホッとします。

お礼日時:2005/10/07 08:55

清和源氏の始祖は清和天皇ではない。


関東には、平将門の頃から桓武平氏の一族が土地所有者として勢力を持っていました。
平清盛らの平氏は、伊勢平氏であり関東の平氏とは別系統ですので、
鎌倉幕府成立後も勢力を保っています。
北条氏もそうですし、千葉氏も大きな勢力を持っていました。
鎌倉幕府や足利幕府の下で、源氏の一門が西国に所領を得るケースがありました。
そして、西国の所領に移住し勢力を築くことも珍しくありませんでした。
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この回答へのお礼

回答有り難うございます。清和源氏は清和天皇の血を受け継いでないってことですね。
源氏という名をもらっと解釈してもいいでしょうか?

源氏の系列は枝分かれがすごいですね。分けが分からなくなります。

お礼日時:2005/10/07 08:51

いろいろありますが・・・・


たとえば源平というときの源氏・平氏は清和源氏と桓武平氏だが、実際は源氏というものはその直接の祖先の最後の天皇の名で呼ばれるもので他に村上源氏、嵯峨源氏、仁明源氏・・・・などなどたくさんあり、また嵯峨源氏も兄弟が同時に源氏になっているので家はいくつもある、とか、同様に平氏も桓武平氏が有名だが他にも仁明平氏とか文徳平氏とかあり、また桓武平氏もおおまかに6つの家があって、さらにそれが細分化されている、という話。結局あれは桓武平氏清盛流と、それ以外の有力武士の戦いで、実際平氏の中には北条一族(れっきとした桓武平氏です)もいた。
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/clan_index.htm
また、清和源氏がそれら源氏や平氏などいわゆる皇別氏族のなかで最も有力になったのは実は足利義満以降であり、その後も必ずしも「源氏長者」にはなれなかった事。むしろ公家の村上源氏の方が家格は上、と考えられていた事。
一応徳川氏は清和源氏末流であると主張し、公的には認められていた事(事実は・・・まあね)。
一方織田信長は平氏を名乗っていたこと。このため状況によっては「平氏」の征夷大将軍が生まれていたかもしれない事。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。源氏と平氏にも流派のようなものがあるんですね。

よく「東国の源氏、西国の平氏」と言われますが、私は出身が下関ですが源氏の系統の方が山口、島根、九州にいます。でも熊本の五家荘に平家落人の隠れ里があったらしいので、九州には平家の子孫が多いかもしれませんね。

流されたり、隠れたりで、平家の子孫は全国にちらばってるんでしょうね。

お礼日時:2005/10/06 21:57

本当だかわかりませんが、那須与一が扇の的を弓で射落としたとき、それを見ていた敵の平氏も、船の側面を拍手するようにバシバシ叩いて称賛したとか。

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この回答へのお礼

早速の回答有難うございます。弓の名手ですよね。
でも、ありえそうな話だと思います。

お礼日時:2005/10/06 20:44

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Q「平家物語」のおすすめエピソード

 GW中に書棚の整理をしたところ、「平家物語」が出てきました。目次を見ると、巻の一から灌頂の巻まで各題も書かれており、少し読んでみると、もれなくきちんと口語訳されたものであることが分かりました。
 「平家物語」の概略は知っているつもりなのですが、きちんと読んだことがありません。とは言え、全て読むのも億劫です。まずはここぞというところから読みたいと思います。その内、原文にも手が伸ばせればいいなと思っています。
 そこで、「このエピソード(と言っていいのか疑問なのですが)はおもしろい」というエピソードを募りたいと思います。理由も併せて教えていただければありがたいです。

Aベストアンサー

私は「敦盛最期」が心惹かれます。
ご承知のようにこの場面では、一の谷の合戦で敗れた平家は沖の船に逃れます。
敦盛も馬を海に入れ、沖の船を目指し逃れようとしたとき、源氏の熊谷直実に呼び止められ、一騎打ちに及びますが、歴戦のつわものの熊谷と若輩の敦盛では勝負は歴然、熊谷は組み伏せた敦盛の首を討とうとして、初めて相手が自分の息子ほどの年齢と気が付き、見逃してやりたい気持ちと、他人に討たれるよりは自分が討ってやろうという心の葛藤に悩みつつ、ついに首を打ち落としてしまう。
平家物語の有名な一場面ですが、人間の業と儚さに思わず涙が出ます。

Q最初の天皇はなぜ誕生したのか?

初代天皇は、どういう経緯で出来たのですか?
神武天皇は、国王(日本で一番偉い人)みたいなものだったのですか?

Aベストアンサー

実はそのことについてわからないので困っているんです。
というのも3世紀に活躍したとされる邪馬台国の卑弥呼という女王の解釈により、最近では神武天皇でさえ紀元前660年前の人物とすることには異論がありながらも、その存在自体はありえて、だからこそ正史である『日本書紀』に記載されているのでは?といった論調もあります。
神武天皇そのものというより、神武の伝承として伝わる物語の核になる史実が存在した。それは現存はしていませんが『日本書紀』編纂の主な材料となりえた『帝紀』などに書かれていたのであろう。と予測する立場があるんですね。
ですから国家や天皇の成り立ち自体はよくわかっていない中で、神話などの古伝承から国家や天皇の成り立ちを整合性を以って説明できるのでは?と目下奮闘中といった人々もいる。とのあり方が現況では一番進歩が見られるスタンスであり、逆にそのような暗中模索な状況こそが、現在の学界における日本国家成立の研究、ないし天皇支配の淵源の研究などの現状だと思います。

そして天皇(大王)を中心とした国家といった概念が表れたであろうとされるのが、いわゆる4世紀の古墳時代と呼ばれる時代であったことは、考古史料から、特に前方後円墳などの規格性の強い墓制の出現で見当がつきつつあるのですが、そこの詳しい実態は、日本はもとより、3世紀段階における日本の国情を伝えた古代中国の史書などが4世紀時点ではないためよくわからないんです。いわゆる「謎の4世紀問題」ですね。

いずれにせよ『魏志』倭人伝などの記述から、卑弥呼が活躍する前後(3世紀)にあっては「倭国大乱」と評価できる内戦状態が、その規模は別として事実あったのでしょうね。もちろんその戦闘状態は天皇の出現と無関係であるとも思えないんです。その様な中、詳しい経緯はわかりませんが、倭国大乱と呼ばれる混沌とした戦乱の世にあって、統一的国家としてのヤマト政権を樹立するだけの武力ないし交渉力が、4世紀段階における天皇(大王)の祖先にあったことは疑う余地はないのかな?と思いますし、考古史料などが語る結果から帰納法的に糸を手繰りつつ明らかにしようと試みている、3世紀から4世紀にどのような経緯で歴史がつながるのか?といった問題は、識者はもとより僕に限らず古代史に興味を持つ者が一番知りたい部分なのです。

ですから率直に申し上げれば「初代天皇は、どういう経緯で出来たのですか?」という質問については「こっちが知りたい部分です」といった頼りない回答になり、せっかくのご質問に明確にお答えできないことを心苦しく思いながらも、現状をご理解いただければありがたいと思う次第です。

実はそのことについてわからないので困っているんです。
というのも3世紀に活躍したとされる邪馬台国の卑弥呼という女王の解釈により、最近では神武天皇でさえ紀元前660年前の人物とすることには異論がありながらも、その存在自体はありえて、だからこそ正史である『日本書紀』に記載されているのでは?といった論調もあります。
神武天皇そのものというより、神武の伝承として伝わる物語の核になる史実が存在した。それは現存はしていませんが『日本書紀』編纂の主な材料となりえた『帝紀』などに書かれていたの...続きを読む

Q「幕府」と「朝廷」の違いを教えて

中学校1年生の子供からの質問なのですが、

・「幕府」と「朝廷」の違いが分からない。
・そもそも「幕府」って何?「朝廷」って何?

と言われました。
お恥ずかしながら的確に説明できません。
教科書には説明が載ってないし、「先生に聞いてみたら?」と言うと
「先生は授業が終わるとすぐに職員室に戻ってしまうし、あまり質問しやすい先生じゃないもん!o(;△;)o 」
とのこと・・・(´_`;)

どなたか教えていただけますか?
私も勉強したいです。よろしくお願いします。<(_ _;)>

Aベストアンサー

朝廷というのは天皇を頂点とした政府のことですが、ここが日本全国を完全に支配していたのはせいぜい平安時代までで、その後紆余曲折はありますが、鎌倉時代、室町時代、戦国時代(この時代は全国を支配した政権はありません)、安土桃山時代から江戸時代まで、ほとんどは武士が支配することになります。
ただ、ややこしいのは武士が支配していた時代でも一貫して朝廷は存在していたことです。幕府の長は征夷大将軍ですが、これは形式的には天皇の部下なんですね。ただ、現実には天皇が将軍を自由に選べるということはほとんどなく、武士に言われるがままに任命していたわけですから、実権は武士の側にあったということになります。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%81%E5%A4%B7%E5%A4%A7%E5%B0%86%E8%BB%8D
これを端的にお子さんに説明するのは難しいかもしれません。
ただ、今の天皇陛下も政治的な実権はまったくなくて象徴として存在しているわけなので、それとちょっと似ているというような説明は、できるかもしれませんね。(今でも首相を任命するのは天皇と決まっています。ただし天皇が首相を選ぶことはできず、国会が選んだ人を形式的に任命するだけです)

朝廷というのは天皇を頂点とした政府のことですが、ここが日本全国を完全に支配していたのはせいぜい平安時代までで、その後紆余曲折はありますが、鎌倉時代、室町時代、戦国時代(この時代は全国を支配した政権はありません)、安土桃山時代から江戸時代まで、ほとんどは武士が支配することになります。
ただ、ややこしいのは武士が支配していた時代でも一貫して朝廷は存在していたことです。幕府の長は征夷大将軍ですが、これは形式的には天皇の部下なんですね。ただ、現実には天皇が将軍を自由に選べるという...続きを読む

Q自分が在日かどうか調べる方法

今年で21才になりますが、自分の起源がどこにあるのかわかりません。

今まで運転免許を取ったり、引っ越ししたり、分籍をしましたが、特に苦労したことはありませんでした。
それに親からも在日外国人の家系である、というような事を言われたことはありません。

しかし確実に、ここ数世代のうちに、外国人が混じってはいない、という確証がありません。


ということで自分が在日外国人の流れをくんでいるか調べたいです。
この場合、どのような手段を取ればいいのでしょうか?

自分の本籍地で戸籍謄本(全部証明)を取れば両親のこともわかるのですか?
母親の祖母が在日で帰化していた場合、その事はどの世代まで表記されるのでしょう?

ちなみに私は両親の戸籍から分籍(転籍)しており、本籍は東京ですが、出身および両親の本籍は大阪です。


在日か調べたい→戸籍を取れ、という解答はよく見るのですが、
具体的な方法が見つからず困っています。


また在日がどうのという質問に非難が集中している様子を見ることがありますが、
まぁ私のアイデンティティを明確化させたいだけですので、今回はご容赦ください。
日本生まれの日本育ち、ここ数世代の直系は全員日本人の日本人!と、
日本生まれの日本立ち、でも曾祖母は朝鮮人だから87.5%はチョッパリニダ!では、
やはりちょっと心持ちが変わるので、はっきりさせたいのです…。

今年で21才になりますが、自分の起源がどこにあるのかわかりません。

今まで運転免許を取ったり、引っ越ししたり、分籍をしましたが、特に苦労したことはありませんでした。
それに親からも在日外国人の家系である、というような事を言われたことはありません。

しかし確実に、ここ数世代のうちに、外国人が混じってはいない、という確証がありません。


ということで自分が在日外国人の流れをくんでいるか調べたいです。
この場合、どのような手段を取ればいいのでしょうか?

自分の本籍地で戸籍謄本(全部証...続きを読む

Aベストアンサー

・コリア系の帰化人には
『沢=澤・浜=濱・斎、斉=齋、齊・辺=邊、邉・薮=籔、藪・塩=[旧字、パソコンでは出てこない…]など』の旧字体漢字が使用できません。
『渕、蔦 、[旧字体](高)など』も使用できません。
※ただし、在日外国人なら、日本の戸籍規則に縛られないので通名としてなら上記の漢字は使用できます。


朝鮮人の方々が日本に渡って来だしたのは明治43年頃の韓国併合のときから(鎖国解除後の42年までの間はせいぜい年に0~20人程度)。
明治43年から太平洋戦争が終わるまで韓国併合政策により在日朝鮮人はもとより、朝鮮半島にいる朝鮮人まですべて大日本帝国臣民扱いで法律上、外国籍ではなかった(両者とも本籍は半島にある)。
昭和20年の終戦を迎え在日の多くは半島に帰国しましたが、日本に残ったり、また朝鮮から戻ってくる人達もおりました。
明治時代から昭和26年までの間に朝鮮より日本へ渡って来た朝鮮人達は昭和27年にそれまであった日本の国籍を失って正式に外国籍となる。そして、在日朝鮮人の日本国への帰化が始まったのも昭和27年。

古来からの日本人家系なら苗字漢字に制限なく明治時代からの苗字漢字を継続できます。
在日朝鮮人の帰化が昭和27年に始まり、名前の漢字制限(上記)は昭和23年に始まってますから、朝鮮籍、韓国籍から日本に帰化した者は旧字体漢字で帰化するチャンスがなかったんです。

簡単な調べ方としては『住民票』での苗字名前漢字が旧字体で表記されてるなら明治時代からの日本人家系。
新字体ならば、
「戦前の家系状況が分かる戸籍みせて」と役所に言ってみること。
戦前の家系状況が記されていて朝鮮人を思わせる記述がなければ日本人。
戦前の家系状況が分かる戸籍を見せてくれない場合や戦前の戸籍が日本以外にある場合は帰化人だと判断できます。

戸籍取得方法は先に回答されてる方法をやるといいでしょう。

ただ、例え純粋な日本人でなかったとしても質問者さんが日本が大好きで在日の方々のように反日感情を露わにされるのが不快に感じるなら、心はちゃんと日本人ですよ。

…私も可能性はあるかもしれないんで経済的に余裕が出来れば戸籍を追ってみたいです。


以上、参考程度に

・コリア系の帰化人には
『沢=澤・浜=濱・斎、斉=齋、齊・辺=邊、邉・薮=籔、藪・塩=[旧字、パソコンでは出てこない…]など』の旧字体漢字が使用できません。
『渕、蔦 、[旧字体](高)など』も使用できません。
※ただし、在日外国人なら、日本の戸籍規則に縛られないので通名としてなら上記の漢字は使用できます。


朝鮮人の方々が日本に渡って来だしたのは明治43年頃の韓国併合のときから(鎖国解除後の42年までの間はせいぜい年に0~20人程度)。
明治43年から太平洋戦争が終わるまで...続きを読む

Q「おおざと」と「こざとへん」の区別の起源

「おおざと」と「こざとへん」をよく間違います。

例えば、左にある「こざとへん」を「ひだりざと」、 右にある「おおざと」を「みぎざと」、などのように言えばわかりやすいと思います。

なぜ、「おお」と「こ」で区別することになったのでしょうか。

Aベストアンサー

そもそも「おおざと」と「こざと」では、それぞれの文字の起源が違い、まず「おおざと」があって、これに対して「こざと」という言い方になったようです。

「おおざと(邑)」は、
 「□(領地)+人の屈服したさま」で、人民の服従するその領地を表す。
 中にふさぎこめるの意を含む。
 のち阝(おおざと)の形となり、町や村、または地名に関する漢字の部首となった。

「こざと(阜)」は、
 もと、ずんぐりとした形に土を積み重ねたさまを描いた象形文字。
 「自+十(あつめる)」で、まるくふくれる意を含む。
 従って、ずんぐりとした形にふくれたおかのこと。

現在は、双方とも似た文字(阝)になっていますが
「おおざと(邑)」の名称は、大きな村里の意を文字通りに示すのに対して、
「こざと(阜)」の名称は、「おおざと(邑)」に対して付けられました。
阝の部首(旁ツクリ・扁ヘン)の位置関係ではないのです。

Q源氏は「白」、平家は「赤」の由来。

Netでは、次のような理由を見つけましたが、詳しい説明がないので、すっきりしません。
これらの理由は正しいのでしょうか。
1.源氏の「白」は、源氏が「新羅系」であり、その新羅は「白旗」の国であると
『書紀』に記述されている。
2.平家が「赤」旗を掲げたのは、「赤」が官軍を意味するから。

1 について言えば「新羅は白旗の国である」という意味が解りません。
当時すでに、「白旗」が「降参」を意味するということは、知られていたと思いますが…。
2 の「赤は官軍を意味する」ということであれば、当時、そのように認識されていたのでしょうか。
つまり、過去、何かの戦で、官軍側が赤旗を使ったという事実があるのでしょうか。

よろしくお願いします。

Aベストアンサー

壬申の乱で勝利した大海人皇子(後の天武天皇)が、戦いの時に赤旗を使用していました。

これは、五行思想の火徳を自称した中国の漢の高祖、劉邦にならって、自らが創業帝王である正義の軍である事を主張したのだろうと言われています。

「Netでは」というのが、どのようなサイトの事かがわからないので確認できませんが、官軍とは天皇の軍という事ですから、「赤は官軍を意味する」というのは、その事ではないかと思います。
ちなみに、壬申の乱の時、相手の大友皇子(弘文天皇)側は、金の旗を使用してました。

おそらくは、この赤に対抗するための、源氏の白だったと思いますが、白にも、清廉潔白の意味があり、軍神である八幡菩薩の色という事だったので、赤に対抗する色としては、ベストな色だったと思います。

ちなみに、「白旗が降参を意味する」という観念は、その頃(源平の頃)の日本にはありません。

幕末にペリーが黒船でやって来た時(2回目の時)、もし交渉が決裂すれば、攻撃も辞さないという意味の手紙に白旗が添えてあり、「降伏するなら、この旗を掲げよ」みたいな説明があって、日本人は初めて、「白旗が降参を意味する」事を知りました。

壬申の乱で勝利した大海人皇子(後の天武天皇)が、戦いの時に赤旗を使用していました。

これは、五行思想の火徳を自称した中国の漢の高祖、劉邦にならって、自らが創業帝王である正義の軍である事を主張したのだろうと言われています。

「Netでは」というのが、どのようなサイトの事かがわからないので確認できませんが、官軍とは天皇の軍という事ですから、「赤は官軍を意味する」というのは、その事ではないかと思います。
ちなみに、壬申の乱の時、相手の大友皇子(弘文天皇)側は、金の旗を使用してました...続きを読む

Q過去分詞ってなんですか?(>д<;)

こんにちわ。

英語苦手です・・・。
配られたプリントに『過去分詞』と書いてありました。
私は中2でして、習った覚えもないし、誰かに聞いても『過去分詞は過去分詞でしょww』っていわれて中々、参考になりません。

題名のとおり、過去分詞ってなんですか?
私にも分かるように分かりやすく、例文などを用いて(難しいですね;;)教えてくれれば幸いです。

Aベストアンサー

★過去分詞とは?
→英語の動詞の変化の1つ

動詞には変化形があります。
たとえば、doという動詞の場合

     do (原形、または現在形で複数の主語を受ける)
     does (現在形で単数の主語を受ける)
     did (過去形)
     done (過去分詞)
     doing (いわゆるing形)ーー現在分詞と動名詞があります
の5つがあります。

この変化のうちdoneが過去分詞にあたります。
なお、doingは、名詞の働きをしていなければ現在分詞です。

★過去分詞の意味
過去分詞は、過去形とはまったく関係ありません。「過去」という語がまぎらわしく「受け身・完了形」という呼び名にすればいいのにと私は思っています。
受け身・完了形ーーなのです。つまり、受け身(受動態とも言います)と完了に使うからです。
分詞というのは、2つの役割に分かれるということを意味します。動詞としての役割と形容詞としての役割です。

★過去分詞の例
まず、動詞の5つの変化の例文を書きます。
1. Tom and I do the work every day.
2. Tom does the work every day.
3. Tom did the work yesterday.
4. The work is done by Tom.
5. Tom has done the work.
6. Tom is doing the work now.
このうち、4番目と5番目が過去分詞の例です。
4. The work is done by Tom. (その仕事はトムによってなされる)
5. Tom has done the work.  (トムはその仕事をやったところです)

4は受動態(受け身)の例です。be動詞+過去分詞で使います。他の例題と主語が違うところが注意です。他の例で動詞の後にくるthe workが主語になっていますね。その仕事はトムによってなされるーーという受け身の意味となるからです。

5は4の受動態とは全く関係がありません。別物です。have (主語が単数ならhas)+過去分詞で使う現在完了形です。

もう1度確認します。
     受動態ーーbe + 過去分詞
     現在完了形ーーhave (has) + 過去分詞

これが過去分詞の使い方です。

★普通の動詞は、過去形と過去分詞形が全く同じです。

work 原形
worked  過去形
worked  過去分詞

ところがdoのようないくつかの動詞は、不規則な変化をし、その中でも過去形と過去分詞が違うものがあります。

do 原形
did   過去形
done  過去分詞

go 原形
went   過去形
gone   過去分詞

take 原形
took   過去形
taken  過去分詞

以上、ご参考になればと思います。

★過去分詞とは?
→英語の動詞の変化の1つ

動詞には変化形があります。
たとえば、doという動詞の場合

     do (原形、または現在形で複数の主語を受ける)
     does (現在形で単数の主語を受ける)
     did (過去形)
     done (過去分詞)
     doing (いわゆるing形)ーー現在分詞と動名詞があります
の5つがあります。

この変化のうちdoneが過去分詞にあたります。
なお、doingは、名詞の働きをしていなければ現在分詞です。

★過去分詞の意味
過去分詞は、過去形...続きを読む

Q源氏と平氏

清和源氏と桓武平氏は2大軍事勢力ですが、平清盛と源頼朝に至る源平合戦までの経緯と両者が滅んでも傍流は戦国時代まで続きました。その盛衰を見て両者で何が違っていたのでしょうか。

源平合戦までは源氏の武勇伝が多く、平氏の武勇伝は少ないのです。名前だけ挙げると、源氏の頼信、頼義、義家、義綱、為義、為朝、義朝、義仲、義経、頼朝。平氏の将門、貞盛、忠盛、清盛。

源平合戦の後では平氏の数が圧倒的に多いのです。源氏の領地は山国が多く、平氏の領地は海国が多いのです。経済的には平氏が恵まれていたのです。

しかし、その後に大名になった平氏が少ないのです。源氏は足利、新田、佐竹、今川、武田、大内、土岐、斯波と大名になり、平氏の北条、千葉、三浦、伊藤、桑名はいずれも滅んでいます。不思議だなあと思っています。

Aベストアンサー

平氏の系統の歴史が巷間ではあまり知られていないために出てきた疑問かと思います。
ご質問の中に
「源氏の領地は山国が多く、平氏の領地は海国が多いのです。経済的には平氏が恵まれていたのです。」
とありますが、これも源氏が勢力を拡大した時期と平氏が拡大した時期にズレがあったことから結果としてご指摘のようなことになりました。

源氏も平氏も都の人からみれば新興勢力です。
源氏や平氏が版図を広げることができたのは、京や奈良の人達が見向きもしなかった東国です。
古い国名は常陸以北の地域は陸奥でオシマイです。
日本海側も精々越後、出羽までです。
歴代の朝廷は、この辺境の地で常陸、上総、上野の最高責任者は皇族出身者が着任するように定めていました。
朝廷の北辺の地を守護する重要な拠点と考えていました。
つまり、常陸守、上総守、上野守は全て皇族出身者でした。
藤原氏出身であろうとも守の補佐役の介が最高の官職であり官位でした。
吉良義央が上野介を名乗りとしたのも、信長が上総介を名乗りとしたのもこの為です。

東国へ最初に進出したのが桓武天皇の系譜である桓武平氏です。
高望王という人が初代でした。
高望王以前に源の苗字をもらって皇族から臣籍に降下した人は沢山いましたが、みんな都から離れませんでした。
高望王だけが、サッサと都を離れて上総に下向して定住しました。
関東周辺の国には当然都から派遣された国司がいましたが、格が違います。
高望王の子供や孫はそれぞれ関東一帯に分散して住み着きました。
当時の関東平野の南部は現在の江戸川や中川、荒川、隅田川、多摩川の大型河川の河口部分に当たり東西の移動は極めて難しい地帯でした。(橋などありません)
日本武尊も、現在の三浦半島から浦賀水道を横切って房総の地へ渡っています。
国の名前に上総下総などの上下や越前越後という前後を付ける場合都に近い方を上または前としました。
即ち西国から房総の地を経て常陸や陸奥へ行くには東京湾を横切るのが簡便でした。
同じことが後世の東海道の熱田、桑名の間で起きています。(七里の渡し)
伊勢湾の奥は木曽川、長良川、揖斐川、などの河口部分で東西の移動が困難でした。(橋などありません)

上総から東京湾周辺の地域へ移動するのには専ら船がつかわれました。
最終的には東京湾を取り囲む地域は高望王の子孫である桓武平氏一族の版図となりました。
全員の苗字が平では紛らわしいので、各々の居住地の地名を苗字としました。
ご指摘の千葉氏や三浦氏や北条氏はみんなこのような経緯で苗字となりました。

源氏が東国へ進出してきたのは極めて遅く義家の時代になってからです。
出てきてみたものの、関東南部の一帯は既に平氏一族が押さえていましたので、やむなく北部の下野上野甲斐などの丘陵地帯に住み着きました。
ご指摘のように源氏の領国に山国が多いのはこのためです。
東海道が東西の幹線道路になったのは家康以降です。
それまでは、中山道が京都と坂東を結ぶ幹線道路でした。
逆に平氏は早くから都を離れていて源氏が遅くまで都に留まっていたことも。京都中心の歴史書には源氏系統の人が残されやすかったのではないかと思います。

平氏系の目立った武将や大名が見当たらないのも若干経緯があります。
高望王の子供たちの中で長男の国香の子の貞盛が草深い関東の地を離れて都へ上りました。
その子の維衡が伊勢平氏の始祖となりました。
伊勢平氏の末裔である清盛が栄耀栄華を極めますが、このときに、坂東に残っていた坂東平氏一族を全く顧みませんでした。
これに対する不平不満が坂東平氏一族に蔓延していました。
源氏の嫡子である頼朝が伊豆で一敗地にまみれて安房へ逃れてきました。
頼朝一行はわずかな人数で北上し下総の国府(現在の市川市)にようようたどり着きました。
このとき、坂東平氏の親分株だった千葉常胤が兵を引き連れて駈けつけてきました。
常胤と頼朝の父義朝とは保元の乱を戦った戦友でした
戦友の御曹司が伊勢平氏打倒の志で兵を挙げたというので、放っておくわけにはいかないと駈けつけました。
常胤のジイサンが加勢したというので、坂東平氏の連中が我もわれもと集まってきました。
現在の市川市には頼朝旗揚げの地として白幡神社というのがあります。
後はお馴染の源平合戦です。
ここでお分かりの通り頼朝はあくまでも旗頭で、実態は伊勢平氏と坂東平氏の戦でした。
結果として都にいた伊勢平氏の一族はチリヂリになってしまい再び歴史に登場することはありませんでした。

鎌倉幕府のスタートメンバーも多くが坂東平氏の末裔でした。
この坂東平氏の末裔どうしの政争に勝ち残ったのが北条氏です。
この政争で後世大名となるような坂東平氏は駆逐されてしまいました。
地元の有力豪族程度であれば沢山残りました。
室町時代から戦国時代の関東の有力豪族であった渋谷氏、豊島氏、葛西氏、江戸氏、太田氏などは全て坂東平氏の末裔です。
これもやがて小田原北条氏の配下に組み込まれ、最終的には家康にとって代わられてしまいました。
このような経緯と、源平合戦から関ヶ原までの歴史が西国が主体だったことも坂東平氏の譜系の一族が出てこない遠因でしょう。
特に戦国時代の武将が系譜を云々する際に、武家政権の始祖である頼朝にあやかって源氏を名乗ったことも影響しているのかと思います。

参考
平氏一門とされている氏族は、前記の人以外に以下の苗字のような人がいます。
関東地方の地名が多いことに注意して下さい
東 稲毛 飯倉 海上 小山田 大庭 大須賀 河越 河崎 梶原 金沢 木田見 国分 畠山 秩父 相馬 武石 匝瑳 大堟 馬加 千田 丸子 六郷 柴崎 俣野 長尾 村岡 中村 長野etc  

平氏の系統の歴史が巷間ではあまり知られていないために出てきた疑問かと思います。
ご質問の中に
「源氏の領地は山国が多く、平氏の領地は海国が多いのです。経済的には平氏が恵まれていたのです。」
とありますが、これも源氏が勢力を拡大した時期と平氏が拡大した時期にズレがあったことから結果としてご指摘のようなことになりました。

源氏も平氏も都の人からみれば新興勢力です。
源氏や平氏が版図を広げることができたのは、京や奈良の人達が見向きもしなかった東国です。
古い国名は常陸以北の地域は陸奥...続きを読む

Q「前九年・後三年の役」の呼び名の由来は?

日本史に詳しい方、どうか教えてください。
平安時代後期の「前九年・後三年の役」ってありますよね。
鎌倉時代初期までは、前九年の役は「康平の十二年合戦」と呼ばれていたと古今著聞集にあるのですが、ではいつ頃からどういう由来で「前九年の役」と呼ばれるようになったのでしょうか。
同じように、後三年の役も、後白河法皇が後三年合戦絵詞をつくったことからそう呼ばれるようになったことまでは分かっているのですが、その後三年という言葉がどこから出てきたのか分かりません。
やっぱり、「前・後」というからには何かから起算して9年だったり3年だったりするんでしょうか?
学校の先生に聞いても「知らん」と言われてしまいます。よろしくお願いします。

Aベストアンサー

源頼義と安倍氏の戦いは、古くは、「奥州合戦」とか、「奥州十二年合戦」と呼ばれていました。それが、「前九年の役」と呼称されるようになったのは、鎌倉時代からです。ところが、この九年という年数がどこから出されたものかは甚だあいまいで、恐らくは十二年合戦というのを源義家の「後三年の戦い」を合わせたものと錯覚し、十二年から後三年を差し引いて出された年数と考えられます。もっとも、十二年合戦という呼称は、頼義が陸奥守となって赴任した永承六年から、安倍氏との戦いの終結する康平五年まで足かけ十二年に及んだことに基ずくのですが、実際に十二年の間戦闘が行われたわけではなく、こうしたことも後に誤解を生む原因の1つにもなりました。

Qオランダが鎖国中にも貿易ができた理由

鎖国中には清とオランダが出島に限って貿易を許されましたが(他に朝鮮通信使や琉球慶賀使などはありましたが…)オランダ船来航が禁止されなかったのはキリスト教布教に熱心ではなかったということを聞いたことがありますがこの理解で正しいでしょうか?

Aベストアンサー

キリスト教布教に熱心でなかった、なんてレベルじゃないです(^^;)。

キリスト教布教絶対絶対やりまっせん!!! 商売一筋!!!
だから我々オランダの船とだけ仲良くしてねっ♪♪♪

とゆー強烈アピールをしまくった結果です。
何しろ島原の乱の時、幕府に協力して、篭城中の日本人キリスト教徒たちに砲撃までしてますから。
(他の欧州キリスト教諸国からは「そこまでして金儲けしたいんか!?」と大顰蹙だったそうです)

当時のオランダにとって、対日本交易は結構な利益でした。
独占出来ればこんなにオイシイ話はないので、表から裏からアレコレと頑張っていたようです。
(以前NHKで見た歴史番組によれば、そもそも、ポルトガルとスペインは布教目的で来日するから追い出したほうがいい、と進言したのもオランダだった、という話です)

幕府としては、キリスト教に関係の無い国となら貿易しても構わなかったのですが、それぞれいろんな事情があって、「皆そろって長崎で交易」というわけではありませんでした。
逆に言えば、長崎を通して交易していなかったからと言って、日本と交流が全く無かったわけではない、ということです。
以下、知っている限りで並べておきます。

●朝鮮王国●琉球王国●アイヌ諸族●
>>>>>それぞれ対馬藩、薩摩藩、松前藩が専門に担当。
これらの藩は、江戸時代以前からの交易相手であり、財政も交易の上りで成り立っていました。
他藩に横入りされると死活問題なので、江戸幕府成立前後は硬軟様々な手段を講じ、「対XX交易のエキスパート」という地位を獲得しました。

これら3つについては、幕府直轄の長崎を通していなかった、というだけで、日本全体で見た場合は“交易があった”と言えます。
(通信使や慶賀使は国家同士の公式の使節のやりとり。
 商売はまた別に、各藩の港でやってます)

●明→清帝国●
正式の国交は無し。民間の貿易商のみ往来。

●東南アジア諸国●
実は江戸前期には数回来た記録が残っています。
しかし、遠い上に、対日交易を独占したいオランダが妨害工作することもあって、いつの間にか来なくなってしまいました。

東南アジア諸国の物産はオランダや清の民間商人が持ってきてくれるので、日本人は別に困ることもなく放っておいたと思われます。

キリスト教布教に熱心でなかった、なんてレベルじゃないです(^^;)。

キリスト教布教絶対絶対やりまっせん!!! 商売一筋!!!
だから我々オランダの船とだけ仲良くしてねっ♪♪♪

とゆー強烈アピールをしまくった結果です。
何しろ島原の乱の時、幕府に協力して、篭城中の日本人キリスト教徒たちに砲撃までしてますから。
(他の欧州キリスト教諸国からは「そこまでして金儲けしたいんか!?」と大顰蹙だったそうです)

当時のオランダにとって、対日本交易は結構な利益でした。
独占出来ればこん...続きを読む


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