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他人が指摘することにより、気が付く事象(癖など)でしょうか、それとも、他の刺激により思い出せることのような、「ど忘れ」のようなことでしょうか?

A 回答 (14件中11~14件)

No.1です。

色々な質問が出てきたので、話せる部分から話して行きたいと思います。
フロイト曰く、無意識の定義は簡単に言って、「人間の中はまとまりようもないたくさんの考えでできている。極端な話、人間は死にたいとも思っているし生きたいとも思っている。人を殺したいとも思っているし、殺してはいけないとも思っている。その中で考えがある程度まとまっている状態が優先的に現実世界に顔を出す。それが意識である。まとまれなかった考え(人殺し、自殺願望)は意識の外に放り出されるが、現実世界の変化によっていつでも意識の座を狙っている、これが無意識である。」と言った感じです。
したがって感じ方は回答者さんの感じ方でほぼ間違いないと思います。
さて、もう少し詳細に入っていきますが、回答者さんの例を引き合いに出してそのブラシを見るためにはあなたは自分が鏡の壁の前(化粧台)にいると言う基盤が必要です。化粧台の上にあるから髪すきのためのブラシだとわかるわけです。そうでなければ、もしかしたら犬の毛づくろい用のブラシを間違えるやも知れません。このときに化粧台と言う認識の基盤がブラシと言う考えを助けて意識の座に上らせているのです。これが前意識です。これは意識しようと思えば化粧台は意識できるものだからです。
無意識はもっと厄介で、意識しようと思ってもなかなかできるものではないもののことです。ほとんど意識しやすいかしにくいかと言う程度論のようなものです。例えばある男が相手の適切な反論に対してどうしても承服できず、挙句に『誰にナンボつかまされたんだ。』などと根拠のない憶測を考え始めるのは、自分の考えが間違っていることなどありえないと言う意識の座に座っている考えが、無意識の中の『もしかしたら自分は間違っていたんじゃないだろうか』という考えを無理にでも押さえつけようとしているからです。そのくせ、その無意識は抑えつけを巧妙に逃れて別の場所で噴出します。例えば『あの人は前はああいうことを言ったのにこの話題になると意見が翻っている』と言うような時、『あの人』は普段押さえつけている無意識を『この話題』に関して外に出していることになります。そしてこれは意識の根本を覆すような考えなのでなかなか本人はそのことに気づきません。
以上の考えをまとめると、前意識は別の対象の意識ではなく、厳密に言うと今中心議題として扱われている対象への意識を補佐する形で存在しているのが前意識と言うことです。さらに根底にあるのが無意識です。無意識は補佐しているとは限らず、奥底にただ沈んでいるだけのものもあります。砂の小山を考えた時に、一番上が意識、ふもとが前意識、砂場全体が無意識で、砂場のうち小山を支えている部分が意識を補佐する無意識です。だから前意識を意識に持ってくると言う作業は、意識の中心議題を前意識の中の材料から引っ張り出してきて、それを一番上に置く、と言う作業と言うことになります。だから対象が変化することというのは、前意識を意識化するときに起きる変化ということであり、前意識自体が対象の変化を意味するわけではありません。
ちなみに意識する対象がなければ人間は意識することができませんから、(志向性)それが物質界であれ精神界であれ、対象が必要になるのは確かです。ただこれは無意識の概念とはまた別の話題です。
で、私が考えるに、この無意識と言う言葉は概念と事実の描写の間を縫っています。意識と前意識と無意識の区別は定義の通りで、これは違うものだと言うことははっきりわかりますが、では実際にどこまでが意識に位置してどこまでが無意識なのかきちんと区別するには、その境界は、というと、これは相対的な評価になりますのではっきりとしたことはいえません。これよりこれのほうが無意識的だというような言い方しかできないと思います。割とはっきりと分かれているけどその境界は曖昧だと考えるのが妥当です。それはちょうど、山のてっぺんとふもとはすぐに見分けがつくが、ではその境界はどこだと考えてもわからないのと同じようなものです。

この回答への補足

無意識と記憶の関係について

「無意識」とは、何も意識していないことで、「概念」としても考えられますし、「記憶」の領域に押し込んでしまった状態ともいえます。

「概念」として捉えた時、抑圧した状況も「無意識」に含まれますが、「意識」できないのだから、実際には「無意識」という状況は存在せず、記憶の忘却のかなたへと続いているように思います。

「無意識」とは、「意識」に対立する「概念」なのでしょうか?
それとも、大脳生理学的(心理的)に、「無意識」という領域は存在するのでしょうか?

補足日時:2005/12/05 15:57
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#2です。

補足をありがとうございます。

「視界」に入っているものでも「見ている」という認識が無い、という場合であれば「意識が無い」。
しかし、「見ようと思えば見れる」わけですから「意識することができない」わけではないと思います。
そういう意味で、kanpyouさんが#1さんへのお礼に書かれていた「前意識」のたとえは、あくまで個人的な感想としてですがしっくりきます。

この回答への補足

考え事など精神活動しているときは、様々なことを自分の意思で巡らせていますが、この状況は、「意識」とは異なるということでしょうか?

「意識」とは『対外的なことに対する』注意意識の集中という意味でしょうか?
だとすると、精神活動中の、記憶などへの「対内的な注意の集中」は、何と呼ぶのでしょうか?

補足日時:2005/12/05 02:53
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多分「潜在的だが意識されるもの」という区分だと思います。


「意識」と「無意識」の中間といったところではないでしょうか。

【ある女性】を
・「好きだと思う」のが「意識」。
・人から言われて良く考えてみれば顔がどことなく「自分と似ている気がする。だから好きなのだろうか」などという意識可能な潜在意識が「前意識」。
・実は自分と似ているのではなく、無償の愛の供給者であった「母親と似ているから好きなのだ」という、いわゆるマザコン(あるいはファザコン?)の原因とされる抑圧された意識が「無意識」。
自信はありませんが、こういった感じだと思います。

この回答への補足

考え事をしているとき、視線のものに対する意識がなくなりますが、この時「意識」があるといえますか?

補足日時:2005/12/04 20:25
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例えば普段は文字を書くときに、こう書いてこう書いてこう書くの、といちいち意識しながら欠かないですよね。

『あ』と思いながら『あ』を書いているといったほうが適切です。このときに、
例えば習字の時間で、注意しながら『あ』を書く事で、「あ、今横棒を書いている、今払っている」と言うことにはっきりと気づきます。
あるいは、他の人に『横棒を書く時にもう少し力強く』などと言われれば、そういえば力を入れていなかったと気づくかもしれません。
記憶とはちょっと違うかもしれません。むしろ自分が行なう行為の裏に潜んでいる意識のことです。思い出すのではないわけです。むしろその行為をやるために当然考えていなければならないことを、自分の中で考えていると思っていないもののことです。で、そこに特に最たる抵抗がなければ、気づこうと思えば気づきます。抑圧したものだったり状況において支障が出るものだと気づこうと思っても気づけません。(どっちかと言うと、心の奥底では気づいたら不利になると言ったような感じです)前意識はこのうち気づいても何の支障もないもののことです。
ですから、他の刺激で思い出すと言うのは少し違うかもしれません。その前意識を気づくきっかけとしてのほかの刺激が必要なことならあります(それこそ他人が指摘する、あるいは自分のやっていることを書き出してみる、等)どちらかと言うと、質問者様が最初におっしゃっていたほうが正しい認識だと思います。その行為を行なうために思い出してはいるんだけど、自分は思い出しているという事実自体は気づいていないといった感じです。
独学色が強いので多少間違ってるかもしれません。他の方の意見も参考になさってください。

この回答への補足

「自我」が自分という意識の基礎となり、その自我が意識していること、していないことに分けられ、まだ気がついていないが、何らかの事情により気がつくことができることを「前意識」というのでしょうか?

例えば、鏡の壁ををのぞいているとき、ぼんやりと全体を眺めているが、よく見るとブラシがあったり、ボトルがあったり…。
ブラシを見た時、「ブラシに気が付き」、他の風景は「前意識の中にある状態」のことをいい、注視している感覚のことを「意識」というのでしょうか?
つまり、ぼんやりとした鏡の中(視野)が『前意識』を表し、その中の視点を思う感覚を『意識』といい、「無意識」とは、思いも及ばない虚無の世界という感じのことなのでしょうか?

『意識』は変わらないが、その対象が変化するという意味なのでしょうか?

またそれらは、『概念』なのでしょうか、それとも、個々人に当てはめて検討できる『器』のようなものなのでしょうか?

補足日時:2005/12/04 19:32
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