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17日、映画、男たちのYAMATOが公開ますね
そこで、戦艦大和(武蔵も)は完成したときからすでに時代遅れ、世は空母と艦載機の時代となり、ただでかいだけ、日本海軍のシンボルとしてしか存在する意味を持たなかったと思うのですが皆さんはどのように思われますか?

A 回答 (11件中1~10件)

動く大和の携帯ストラップが欲しくて、前売り開始直後に買いました。

その後、金券ショップで900円で売られていたチケットも買ったので2枚手元にあります。

さて、本題。
竣工した時には、航空機の優位性が立証されていましたが、設計、建造の最中は大艦巨砲主義の真っ只中でした。後の時代から時代遅れの批判をするのは簡単ですが、設計~建造まで存在意義についての考え方は間違っていなかったと思います。

ただ海軍に引き渡されてからは用兵を誤ったと思います。ほとんど内地とトラックを往復するのみ。「大和ホテル」という陰口もたたかれたそうです。第一戦隊はGF旗艦の戦隊でしたから、戦場への投入が憚れたのでしょうか?
アメリカ太平洋艦隊の司令部はハワイの陸上。いっそGFも呉あたりにあれば、実戦での大和投入もあったかもしれません。実際、大艦巨砲主義が崩れたとはいえ、ソロモンでは殴り合いが繰り返されました。そういうところへの投入機会もあったかもしれません。

建造時期から外国はもちろん、国民にも秘匿され、進水式もこっそりやるなど、機密保持に気遣っていました。軍艦の存在意義に、武装の強力さ故のプレゼンス効果という一面もあると思うのですが、大和級の場合、その機会すら十分に与えられなかったのかなと思います。
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・戦艦大和(武蔵も)は完成したときからすでに時代遅れですね。


・リメンバーパールハーバーは、「これからは巨艦巨砲では駄目だ、空を制するものが戦いを制する」と、USAに教えたようなもんです。
・太平洋戦争のミッドウェー海戦以後を見れば、明白でしょう。そして今も戦略を有利に進めるには、ミサイルや空軍力が問われます。
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 記憶に間違いがなければ、大和や武蔵と同じく超弩級の空母「信濃」がありました。

建造途中の曳航で沈められちゃったけど。

 でも、空母に旧国名をつけたことだけでも、空母を戦艦なみに重要視した表れじゃないかな。

 だから、日本海軍の「大艦主義」は、私はそんなことなかったと思っています。

 ただ、情報に対する認識が甘かったと思います。山本長官も狙い撃ちにあったようなものと聞きますし、「信濃」だって同じ。
 「大和」や「武蔵」を狙わずに、「信濃」が沈められたのは、やはり「信濃」の方が脅威だったからでしょう。

 ただ、「信濃」が無事だったとしても、結果は同じだったろうけど。

 沖縄は救えたかな……。
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運用方法の問題では?



参考URLの「第二次世界大戦後の戦艦」を参照されたし。

国力からして、海軍は日本海海戦的勝利を求められており、前線への主力艦投入にためらいがあったと思われる。
真珠湾攻撃について、霧島一隻だけではなく、もっと戦艦を随伴させておけば(敵反撃に対しての対抗力)、二次攻撃も可能と判断できたのではないか?

との文章を読んだ記憶がある。

参考URL:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%A6%E8%89%A6
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大和、武蔵が建造された時点でも、十分有効利用できたはずです。


ただ、日本海軍は、大和・武蔵を温存し、使うべき場所で使わず、結局宝の持ち腐れにしてしまいました。

その最たる例が、ガダルカナル島の砲撃です。
巡洋戦艦の36センチ砲ではなく、大和の46センチ砲で砲撃していれば、ガダルカナル奪回も可能だったかもしれませんし、ミッドウェー海戦の時も、機動部隊の前衛として行動していれば(ミッドウェー砲撃)、南雲機動部隊は、対敵空母に専念でき、一度に4空母を失う事はなかったでしょう。
また、大和を前衛に出し、空母に戦闘機中心に積み込み、その戦闘機で上空護衛させて、敵を攻撃するなどの作戦も、十分できたはずです。
(大和の速力では、敵機動部隊を捉える事は不可能ですが、輸送船団や敵の重要基地には可能だと思います。ポートモレスビーや、ガダルカナルなど)

アメリカ軍は、真珠湾で沈められた旧式戦艦を、修理し、その後の日本戦に投入して、敵前上陸の支援に、大きな役割をはたしています。

大和、武蔵を、積極的に使用する作戦をたてられなかった日本海軍軍令部や、連合艦隊の参謀たちが、バカだったのです。
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昨夜、試写会でこの映画を観てきました。


ネタバレになるので映像&話は内緒ですが、
戦闘機が勝敗を決める時代に、戦闘機を沢山作れるだけの
材料(しかも資源の乏しい国なのに)を戦艦に利用したのは・・
これを造ることで富を得た人もいるわけで・・。
と映画を観る前から思っていました。
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まぁ大体軍の上層部は、ずれている人が多いのも確かですが。


ただ、私が思うのは大和はある意味「偶像」だったのではないかと云う事です。
つまり「大和があるから日本は大丈夫、勝てない訳は無い。」と兵士の戦意高揚や平民に対しての「日本にはまだまだこれだけの力がある。」と見せつけるために。
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真珠湾攻撃で、大艦巨砲主義は終わりました。


マレー沖海戦でも、戦艦は航空機に敵わないことが証明されました。

大和は速力も遅く、高速の空母を中心とした機動部隊について行けません。
ただ、地上に対する艦砲射撃などでは活躍の場があったかも知れません。
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それは昭和16年に戻って判断しないといけないと


おもうのですが。
真珠湾攻撃をしないで英戦艦レパルスとプリンスオブ
ウェールズ攻撃も航空攻撃をしないで大和竣工を待って艦隊攻撃して飽くまで航空攻撃の有効性を秘匿した
状態で実施したら大和の出番はあったでしょう。

戦艦よりも航空攻撃のほうが有効である点を実証したのは大和を造った日本そのものです。
いや大和を造ったから戦艦の弱点も解っていたのかも
知れませんね。
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個人的には「使い方間違えたよな」です。


戦艦を空母護衛に積極的に使えばミッドウェイは変わったかもしれません。

実際航空決戦は日本が考えついたのに「大艦巨砲主義」が生き残ったのは問題ですね。
太平洋戦争開戦時はアメリカも「大艦巨砲」主義だった用ですが、ミッドウェイあたりで空母護衛に変換してますからね。
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