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「600巻に達する”大般若波羅蜜多経”をいろいろな高僧がまとめた(訳した)。なかでも一番有名なのが玄奘三蔵の”仏説摩訶般若波羅蜜多心経(いわゆる般若心経)”である」というところまではインターネットで調べられました。
 が、以下の2点について調べ切れませんでした。ご存知の方がいらっしゃいましたら教えてください。

1.一般にいう「538年 仏教伝来」の際には玄奘三蔵は生まれていないが、他の高僧が訳した「大般若波羅蜜多経」はその際に伝わってきたのか

2.玄奘三蔵の「般若心経」が日本に伝わってきたのはいつ頃か

よろしくお願いします。

A 回答 (5件)

まず私は般若心経と大般若経は別物という立場ですかし(空海の『般若心経秘鍵』に曰く「龍之蛇鱗有るが如し」<龍に蛇の鱗があるからといって両者が同じでないように、般若心経と大般若経に同じような文面があるからといって、同じ物とはいえない>)、歴史的に見ても般若心経の成立は「ギャテイ ギャテイ…」の般若波羅蜜多の咒(=般若心)への信仰が基本ですから(大般若経にはこの咒が説かれていません)。


 それと玄奘の訳したのは『般若波羅蜜多心経』であって『仏説摩訶般若波羅蜜多心経』ではありません。玄奘訳は本文も「五蘊等皆空」「遠離顛倒夢想」。末尾も「般若多心経」であって、通行のものと異なります。
 さて、日本に通称『般若心経』がいつ伝来したかは不明ですが、天平4年(732)3月25日の『正倉院文書』続修第16巻裏所載「僧智首貢度人状」に秦公豊足(はたにきみとよたり)という人が僧になるための資格の一つに「多心経」の暗唱、「大般若咒」誦咒が挙げられています。次に天平6年7月27日の鴨県主黒人(かものあがたぬしくろひと)の「貢状」にも「多心経」とあるので、玄奘訳はこの当時には伝わっていたと考えられます。

繰り返しますが般若心経は異本を含めて多くの形で伝来しています。羅什訳の『大明咒経』、アジクタ訳の『陀羅尼集経』巻第三「般若波羅蜜多大心経」などなど。そしてその本文も現在の物とは異なっています。
通行唱えられている『仏説摩訶般若波羅蜜多心経』と同じ形の物では天平勝宝7年(755)の写経が存在します(個人蔵)。

詳細については『般若心経秘鍵入門』(村岡 空:大覚寺出版部)をご参照ください

参考URL:http://www.sagagoryu.gr.jp/jpn/shop/hiken01.html

この回答への補足

ご回答ありがとうございます。勉強になります。
今一度自分の質問分を読み直し、補足が必要であることを痛感しました。
 信仰に熱心な知り合いが「出羽三山の開祖である蜂子皇子は、羽黒山に登る際に般若心経を唱えていた」と言っていたので
「ん? 羽黒山開山が588年、そのころに「般若心経」はあったのかいな・・・」と疑問に思ったのです。
すくなくとも玄奘三蔵の般若心経はなかったはずなので、他にあったのかな、と。

補足日時:2006/01/06 21:13
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追記。


なお、玄奘訳の『般若波羅蜜多心経』は「大唐三蔵聖教序碑」(672)のものが底本となっていますが、これは羅什訳の心経を基調として玄奘が新訳しました。ただし、この碑文は皇帝の勅でウシネイにより潤色(編集)されているため、もともとの玄奘記述とは異なっているでしょう。
 私は羅什訳『般若波羅蜜大明咒経』とは別に、通行の『仏説摩訶般若波羅蜜多心経』の訳者は羅什であるという立場にたっていますが、それも空海著『般若心経秘鍵』の記述によるならば、経末には功能文(経典の功徳を讃える文章)が添付されていたと考えられます。
 ちなみに「心」と訳されるインド語「フリダヤ」ですが、これは心臓の意味であり、単なる臓器ではなく生命のシンボル、生命の中心、また仏教では未開蓮華の形から衆生が宿す仏性の象徴であって、いわゆる精神的な“こころ(チッタ)”をも包括する肉体的な存在です。そしてフリダヤには瞑想の際に発する聖なる言葉「マントラ(咒・真言)」と同じ意味で用いられています。ですから、旧訳の心経のフリダヤに当たる部分は「咒」「明」などと意訳されました。「心」という訳し方は直訳に近いでしょう。ただこの「心」が精神的なこころも含む意味の言葉なので、「フリダヤ」と「チッタ」が混同された感もいなめません。それと現存する最古の梵字心経である法隆寺蔵「貝葉本」には、巻末は「ギャテイ…」の咒の後に「以上が般若波羅蜜のフリダヤである」と締めくくられ、「経」を意味する「スートラム」という言葉がありません。ですから、もともと般若心経は経(仏の教えを説いたもの)というよりも、咒(瞑想修行のための言葉)として成立していたのでしょう。
 インドというと神秘の世界とすぐ連想しがちですが、その背景には日本人好みの情緒的・感傷的なものではなく、合理性・論理性に立脚した思想が構築されてます。

ですから空海は般若心経を「般若波羅蜜多の心真言による三昧地法門(瞑想の実践)」と述べられるのも、決して空海独自というよりも心経成立の歴史から考えると必然的です。
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 既に回答されているとおり,天平年間には般若心経が伝わっていたと思われます。


 ただ,最初に伝わってきた般若心経が,鳩摩羅什が漢訳したものか,玄奘三蔵が漢訳したものか,定かではありません。
 多くの宗派では鳩摩羅什訳としているようです。

参考URL:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%88%AC%E8%8B%A5% …

この回答への補足

ご回答ありがとうございます。
Wikipediaによりますと「現存する最古のサンスクリット本は609年伝来」とのことですが、#1の方の回答に補足した「588年に伝わっていたのか」は不明なんですかね・・・。

補足日時:2006/01/07 19:23
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2について、609年小野妹子が持ち帰ったとされる「貝葉梵本心経」は書体などの研究によって8世紀後半の写本とみられるので、7世紀始までに日本に伝わった確証はありません。

玄奘三蔵が求法の旅を終えたのが645年ですから、少なくとも漢訳はその後のこと。玄奘訳の伝来はさらに後ということになります。ちなみに5世紀はじめの鳩摩羅什訳は、日本では古い写経の例がありませんから、6,7世紀には伝えられていないと思われます。
しかし玄奘訳の般若心経が日本にもっと早く伝えられた可能性としては斉明天皇6年(660年)が考えられます。
というのも、この年、白雉4年(654年)に唐に渡った道昭が帰国したのですが、道昭は玄奘に師事しているからです、たとえ伝えていなくても、一番最初に般若心経にふれた可能性はかなり高いと思われます。
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この回答へのお礼

アドバイスありがとうございます。
なるほど、玄奘に指示した日本人もいたんですね。

お礼日時:2006/01/07 22:59

 『日本霊異記』記載の道照(道昭)の自寂伝に、玄奘三蔵よりインドに行く際にある村で梨を食べて気力を回復した話は聞かされ、「今汝は是れ梨を持ちたる沙門なり」と言われたことや、帰朝の際に玄奘より舎利・経論とともに一つの鐺子(なべ)を授けられたことが書かれています。

この鐺子は玄奘が西域より持ち帰ったもので病を治す不思議な力がありました。しかし海上で船が進まなくなり、これは竜王が鐺子を欲しているためだと海中に投じましたが、以上の説話は『大唐大慈恩寺三蔵法師伝』で玄奘が道中で「心経(=般若の咒か)」を授かり、幾多の困難を脱したという内容を連想させるため、村岡 空説では梨や鐺子は「多心経」の象徴ではないかと指摘しています。
 No.4さんの言われるように日本での法相宗第一伝の道照が、玄奘訳「般若多心経」初伝の可能性は高いでしょう。
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この回答へのお礼

度々のご回答およびアドバイスありがとうございます。
 知り合いが言うところの「蜂子皇子が羽黒山に登る際に般若心経を唱えていた」が事実だとしても「玄奘が訳したものではない」のは確実ですね。
が、「だから(羽黒山に祀られている)出羽の神に般若心経をあげるのはスジが通っている」というのは微妙なところですね。
 おかしな行為ではないのでしょうが、「知ってて言ってるのか?」という意地悪な突っ込みをしてしまいそうです・・・(^^ゞ
 

お礼日時:2006/01/09 17:59

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