我々人間は、欲という煩悩に突き動かされて日々生活・活動をしております。特に、金に対する執着というか、欲望は凄まじく、それの為に人に迷惑になってでも、邁進する場合があります。

金があっても幸せとは言い切れないと思います。しかし、現代の人は、腹底の心で金、金と思い、結局はお金目当てで活動しているわけですが、そんな汚い心を持ってまでして、なぜ欲まみれの生き方を選んでしまうのでしょうか?お金が貯まっていいことがある、と見込んでいるのでしょうか?そのいいこととは何でしょうか?

このQ&Aに関連する最新のQ&A

A 回答 (12件中1~10件)

 一応ご返答差し上げます。

あまり突っ込んでお話すると論争になってしまいますので、簡潔に…(gooの規約違反になるかもしれませんし)

 マネーゲーム狂乱社会ということですが、おそらくこれはいまのグローバル市場、とりわけ多国籍企業や、株などの投機的行為を想起されているのでしょう。

 そのネーミングどおり、たしかにそういった見方は間違いではないでしょう。ただモノの売り買いそのものが悪いというわけではありません。今の残る市場(いちば)という制度は、古くから残された経済的な取引の場です。

 野菜や工芸品などを売り買いし、交換する。おそらくこういったものの現代的形態は商店街ということになるのでしょう。つまり、経済社会という側面は、人間の豊かさの基盤になっているのです。私の考えとしては、欲望が問題なのではなく、欲望のコントロールとバランスだということになります。

 少し欲望という言葉で肯定と否定の両面から理論的にとらえてみましょう。

 欲望を否定的にとらえた人は、たとえばトマス・ホッブズです。彼は、人間を欲望にまみれた利己的な人間として認識しました。よって、そのままにしておくと人間は争いあい、戦争状態に陥ると考えたのです。彼が導き出した処方箋は、国家による個人と社会の調整でした。国家が制度的に確立されることで、人間の欲望が抑制され、秩序がもたらされると考えたのです。

 逆に、経済学の祖アダム・スミスは、ホッブズの考えを転倒させました。彼は、ホッブズと同じく、人間を利己的な人間としてとらえました。しかし、スミスは人間が「共感」能力を持つことを指摘しています。つまり、たとえばAさんが病に苦しむことで、Bさんは自分が病になったわけでもないのに、それに共感することで苦しみを共有しようとします。
 この人間観から彼が導き出した結論は、人間の利己は実は公益になるということでした。たとえば、商店街をとってみましょう。商店街で店を営む人々は、あくまで自分の利益や生活のために商売をしているはずです。ところが、結果としてそこでモノを買うことによって、人々は益を受けることになるのです。
 彼は、市場が生み出す秩序に注目し、国家がそれを阻害するとして、国家の介入を最低限のものにするように主張したのでした。

 ただ、いずれの見解も、仏教的思考と異なることがあります。それは、欲望そのものを否定しようとはしないということです。人間の利己を否定しようとはしていません。ただ、それをコントロールする手法をとらえようとしているのです。

 煩悩という枠組みは、残念ながら、直接的な制御にはつながりませんし、それを抹消することもできません。あるヘゲモニーに対しては、別のカウンターヘゲモニーを作るしかないのです。ですから、今のグローバルな新自由主義的市場は、暴走していることはたしかですが、それは欲望だけの問題として解決しえません。

 人は、お金を得ることではなく、お金から獲得されうる社会的な資産や地位を求めています。ですから、お金という物質が欲しいのではありません。その意味で、お金とは象徴的意味を持ちます。つまり、お金は別に落ち葉でも貨幣的機能をもちうるということです。過去の物々交換の時代はそうでしたが…

 お金をもって、服を買う。家を買う。洗濯機を買う。旅行へ行く。こうした何かの願望の達成が、お金の機能です。

 少しまとめます。現代社会はもはや過去の原始的社会へと回帰しえません。なぜなら、市場的秩序は人々の生活の心臓をなしているからです。つまり、グローバルな市場の崩壊が示すものは、人類の崩壊に等しいともいえなくありません。
 とりわけ都市部の人々は、土地をもたず、作物を育てる意識も能力もありません。それ以前に土地は道路で敷き詰められ、ビルが建ち並んでいます。もし、突如としてモノが変えず、賃金の得られない社会になったとすれば、人間の多くは再び自らの生存欲に従って、争いをするでしょう。
 それは今の状況以上にひどいものになるでしょう。スミスはこうした状況を市場(しじょう)が抑制しうると考えたのでした。

 まとめましょう。私の立場は、一見あなたのおっしゃる言葉で述べますと、マネーゲーム狂乱社会を肯定するところにはありません。その市場社会がもたらした肯定的側面と、否定的側面の両サイドから見つめようとする位置に立っています。
 おもしろいことをいいますと、人間の普遍的価値、たとえば人権は、実は国家によって守られている側面があります。つまり、国家はみながいうように人権の侵害者でもあるのですが、同時に歴史的には保護者でもあったのです。
 煩悩という言葉だけでは、なかなか今の社会はつかみとることはできません。しかし、そういった見解に立つことは間違いではありません。私自身も良いとはとても思えません。しかし、現代の市場社会(経済社会)の肯定的側面をはっきりさせつつ、その否定的側面について考えること、それが答えなのだと考えています。

 
 


 




 

この回答への補足

>私の考えとしては、欲望が問題なのではなく、欲望のコントロールとバランスだということになります。

私も、この考えには賛成です。欲望を真摯に認めつつ、この欲望に振り回されない生活が肝要と思います。

>彼は、市場が生み出す秩序に注目し、国家がそれを阻害するとして、国家の介入を最低限のものにするように主張したのでした。
>スミスはこうした状況を市場が抑制しうると考えたのでした。

市場至上主義的な考えを回答者さんからは感じます。今の、暴走した新自由主義的市場も、結局は、自浄能力のある市場に任せるのが妥当であろう、という事だと思います。市場がそれだけ洗浄能力が高いのであれば、期待したいとこですが、・・・。

煩悩は、死ぬまで残存するので、無くすことはできません。その煩悩(欲望)をどうコントロールしていくか、によって、お金、お金、という意識を持つ人間集団の社会を少しでも変革できるのではないか、と思ってしまうわけです。

http://ameblo.jp/trueye/

補足日時:2006/02/06 20:27
    • good
    • 0
この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
詳細は上に。。

お礼日時:2006/02/06 20:13

「>なぜ、欲まみれの生き方を我々はしてしまうのか?」




人間にとって最大の欲とは何でしょうか。
恐らく「生きたい」ということではないでしょうか。
無論「人間的に」という注釈がつきますが、幸か不幸か人間はまず「生身の動物」でもあります。
生身の動物が生き長らえるために最低限必要なものは何でしょうか。
恐らく「外気の変化から身を守る衣(動物であれば毛皮)や住居」、そして「栄養源である食物」だと思います。
極端な話、これらのいわゆる「衣食住」がある程度満たされていれば、天命がくるまでは一応生き延びることはできます。
現在の人間社会において「衣食住」は基本的にはお金が無ければ手にはいりません。
つまり、人がお金に執着するのは「生物として生命を維持することができなくなることを怖れるため」ということが【第一の理由】と言えると思います。


しかし、「衣」は小林幸子や美川健一のような格好で紅白に出る必要が無ければ左程のお金も必要とはしないはずです。
「食」は農地・畑地を大事にすることによって、また現在の日本の莫大な食物廃棄量が顕著に示しているような無駄を排することによって、糖尿病になるためにせっせと大金を払うのが趣味でなければ、これも左程のお金を必要とするとは思われません。
唯一「住」だけは確かに高額な資金を必要とするかもしれません。
しかし、これも普通に働いて「普通の暮らし」をしていれば、手に入れるのが非常に難しいというほどのものでもないように思います。


にも拘わらず、なぜ人は「過剰と思えるほど」求めてしまうのか。
これは、基本的には「万一の事態」に対する想像力が怖れを生み出すからだと思います。
これが【第二の理由】でしょう。

ただ、この【過剰さ】の理由にはもうひとつあると思います。
本来は「怖れからくる防御」がお金を必要とする理由でしたが、それはとりも直さず安心を確保するということです。
ある程度の安心が確保できると心にゆとりが生まれるでしょう。
「怖れ」は無くなったものの、今度はその「ゆとり」を大きくしたい欲望が芽生えるのではないでしょうか。
つまり「この程度のゆとりではまだ安心できないのではないか」という、「新たな怖れ」が醸成されるのではないかということです。
その過程で「持たざる者」との格差も広がっていくので、相対的な安心感も同時に得られるというオマケつきです。
これらが【第三の理由】です。


以上のように、お金は生命維持の為に必要なものであり、且つ「怖れを抱いた人間」にとっては際限なく求めざるを得ないようなものである、ということが基本的には言えると思います。
ところで、【第三の理由】のところで少し触れましたが、「相対的安心感」というのが最も曲者のように私には思われます。
結局、他者と比較することでしか自分が幸せであるかどうかも判断できないような人間が、必要以上に金に執着するということではないでしょうか。
これが「怖れ」には限界があるべきであって、求め続けていればきりがないということを気がつかせる機会を奪っているような気がします。
お金で解決できる良いことはたくさんあるという事も否定するつもりはありません。
しかし、それ以上に「お金を稼ぐために何をするのか」ということに留意できなければ、根本的な解決を得るには至らないでしょう。

「平和のために」人を殺したり、「弱者のために」寄付されたお金が別の犠牲者を作り出すことによって得られたものであったり、という【矛盾の連鎖】が永遠に続くのではないかということです。


具体的な方法はわかりませんが、人から生活上の「怖れ」が取り除かれ、相対的ではない絶対的な自己が確立された時、あるいはそれを目指し始めた時、「>欲まみれ」な精神は不要になり、また目指すところとは相反するものとして忌避され、姿を消していくのではないでしょうか。
尤も、その時点で人間が今のような形態を保っているかどうかも不明なほど遠い先の話ではないかという気がしないでもありません。
とはいえ、時々そういう生き方をしている方は見かけますよね。
そういう意味では、「自信を持って生きる」と同時に「自己に懐疑的に生きる」という面もある意味必要なのか、などと思うこともあります。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

>人から生活上の「怖れ」が取り除かれ、相対的ではない絶対的な自己が確立された時

人は、生きたいという本能があり、死への恐怖を抱え、生きているのだと思います。なので、怖れは除去されず、常に戦々恐々と生きていくものと思えます。
臨終の時に、欲まみれ根性で得た財産等は一切持っていけません。そういう事が分かった時初めて、欲まみれ人生に意味がない、と思えるのかも知れません。

お礼日時:2006/02/06 21:05

> お金が貯まっていいことがある、と見込んでいるのでしょうか?


> そのいいこととは何でしょうか?

 お金を貯めて何かをしよう、という人もいるのですが、「ありとあらゆる学問が否定している」らしいお金自体が目的となる心理は、ヒトには実によく見られる傾向です。その事実からすると、「ありとあらゆる学問」とやらは、ずいぶん浅薄なようですね。

 お金というものは、ある程度集めると、それ自体を自己目的化してしまう性質があります。実はこれは、お金というものの特性ではなくて、スコアというものの特性です。
 ゲームでも、ハイスコア競争が行なわれるのをよく見るでしょう。コンピュータゲームに限りません。またスポーツ記録でもそうですし、他にも例えば少年ジャンプにおける強さ指数がすぐにインフレを起こすというパターンをご存知かもしれません。

 そういうスコアを追求する性質をヒトが持っているのですから、スコアとしてお金を捉えて邁進することがよくあって当然のことです。
 スポーツ選手が記録に向かって努力することと、マネーゲームのハイスコアを目指すことと、本質的には違わないのですよね。

 問題があるとしたら、シーズン中の安打数というスコアがいかに高かろうと交換価値に直結しないのに対し、お金というスコアは市場に流せば交換価値が生じるので、「使いでがいい」という性質があるため、他者に干渉できてしまう性質があることですね。干渉には良い干渉もあるでしょうが、当然悪い干渉もあります。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
スコアという概念で、人がハイスコアを得る為だけに、金稼ぎをするなら、人間とは客観的に見て、愚かだなぁ、と思ってしまいますね。
ある意味、ゲームのスコアを良くしようとするのと同様に、お金を求めるのですから、不毛の活動とも言えますね。

お礼日時:2006/02/06 20:52

再度の#4です。


仏教的思考という立場で追加説明させてください。

この世の全ては陰と陽、二極対立、二律背反によって成り立っていますよね。
たとえば、光は影があるから成立するんです。
だって、この世が真っ白な世界だったら、いくら光を放ったって光にならないんです。
影があって、初めて、そのコントラストで光として認識されるんです。

仏と欲望の関係も、これと同じなんです。
欲望があるから仏陀となれるんです。
美しい蓮の華は泥の中からしか咲けないんです。

ですから、仏教は欲望を否定しているとも言えないんです。
確かに肯定はしてませんけど、かと言って短絡的に否定しているのでもないんです。
だって、否定しても仕切れるものでなないし、欲望なくして悟りも在りえないんです。

だから4にも書きましたように「心を鍛えなさい」ということなんです。
欲望が人間の持つ「獣性」だとしたら、それを耐えることで対極にある「理性」が育つんです。
獣性が泥だとしたら、獣性の中からしか理性が育つことはないんです。
逆にいうと、理性を育てようと想ったら、獣性が必要なんです。

だから、仏教では人間界に生まれることは、とても良いこととされているんです。
仏教でも、いろいろな次元の生命の存在を肯定していますが、特に人間界に生まれることは素晴らしいとされているんです。

欲望を肯定してないんだから否定だろ、と相対論で言われれば、そのとおりなんですが、私は必要悪という解釈で良いと想うんです。

筋肉トレーニングをするときの鉄アレイのようなものです。
鉄アレイに反発して、拒絶するように持ち上げるからマッチョになれるんです。
これは、一見すると鉄アレイを否定しているように見えますが、そうではないんです。

欲望も自分の心を鍛え、育てるためには必要なんです。

でも、質問者様のいうとおり、大半の人が鉄アレイに負けているのが現状だと想います。
中には、逆に欲望という鉄アレイに反発しないで、肯定的に受け入れるのが素晴らしいという人もいます。

まあ出家になれば、厳しい戒律によって禁欲が徹底されますが、我々一般人はバランスを大切にすることで欲望を活用できるのかと想いますが、このことに気づかない人は欲望の奴隷になりがちだと想います。
しかし、そういう人たちもまた必要悪であると・・想うんです。



で、「欲望」といっても、それは別に在るのでは無く、我々の心の中にあるものです。
お金が欲望なのではなく、我々の心の中に欲望があるんです。
美人が欲望なのではないんです。
我々の心の中に欲望があるだけなんです。

だから大切なのは、克己修身、自分の心を鍛えなさいということだと想います。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
欲望にふりまわされず、欲に汲みしない生活をするのがいいのですね。

>美しい蓮の華は泥の中からしか咲けないんです。

この蓮は、白蓮華ですね。

お礼日時:2006/02/06 20:46

>お金が貯まっていいことがある、と見込んでいるのでしょうか?そのいいこととは何でしょうか?



例えば世界では年間1,000万人以上の子供が病気で死んでいます。薬、人件費、病院維持費など、お金があれば大部分、解決する問題です。

先日アメリカで心臓移植を受けた子供の場合、
1億7千万円の費用がかかりました。


盲導犬の育成・訓練には1頭で約200万円を必要とします。

お金で解決できる問題はたくさんあります。

お金が貯まっていいことはたくさんあります。

人を救うためにお金を稼いでいる人もたくさんいます。

参考URL:http://www.future-planning.net/x/modules/news/ar …
    • good
    • 0
この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
確かに、お金で解決できる問題は多々あると思います。

ただ、お金の亡者になり、己が社会の迷惑者にならないように注意しないと、お金に使われる人間になってしまい、逆に幸せから遠のく危険性があります。

お礼日時:2006/02/06 20:02

 だいぶんお考えに偏りがあるようです。



 仏教的思考?もたしかに間違いではないのですが…やはり私個人は浅薄だと思います。

 そもそも本当に人間は金のために活動をしているのでしょうか?ありとあらゆる学問は、ほとんどこれを否定しています。

 専門的には、社会的欲求ということもありますね。つまり、人間はお金それ自体を求めているということよりも、そこから得ることのできる社会的地位や資産などを求めているということです。お金とイコールではなく、お金はあくまで媒介手段に過ぎません。

 ですから労働にしても、お金そのものを求めているという人はいません。労働のなかで得られる何かを生き甲斐とする人もいれば、そこで獲得した賃金をもって得られる何かを必要とする人もいます。

 お金、お金というのは、今の現代社会がお金によってモノが取得できたり、活動をできるように編成されているからです。

 わかりやすくいえば、この世でお金の価値がゼロになったとすると、みなお金をもつことをしないだろうということです。

 逆の発想をすると、欲のない世界なんてつまらないということです。いや世界が成立しませんね。動物は停止して、みな植物のようになります。まあ、生きられないでしょうが…生きる意欲さえないのですから。

 あなたがそういうふうに考えることすらないでしょう。考える意欲がないのですから(笑)

 ちなみに、温暖化説はあたかも確定的な事実のように思われがちですが、学問的にはまだまだ怪しいところがあります。テレビが騒ぎ立てているだけで、温暖化反対説も根強くありますよ。

 事実はたえず疑ってかかるほうがいいと思います。とくに紋切り型の思考には何か裏がありますよ。

この回答への補足

>そもそも本当に人間は金のために活動をしているのでしょうか?ありとあらゆる学問は、ほとんどこれを否定しています。

ありとあらゆる学問というものを教えて欲しいです。もし、大半の学問で、そのように教えているのならば、今の社会で起きているマネーゲーム狂乱社会にまではならないのでは、と思います。

>専門的には、社会的欲求ということもありますね。つまり、人間はお金それ自体を求めているということよりも、そこから得ることのできる社会的地位や資産などを求めているということです。お金とイコールではなく、お金はあくまで媒介手段に過ぎません。

煩悩の代表選手には、食欲、財産欲、色欲、名誉欲、睡眠欲があります。お金は財産欲です。財産欲も名誉欲も、結局は人間が持つ煩悩に他なりません。欲にまみれた、あるいは、欲に支配された人間活動の結果が、財産、名誉だと捉えられます。

>労働のなかで得られる何かを生き甲斐とする人もいれば、そこで獲得した賃金をもって得られる何かを必要とする人もいます。

何か、とは何でしょうか?

>逆の発想をすると、欲のない世界なんてつまらないということです。

欲のない世界はつまらない、との事ですが、欲のある世界に生きていて、空しさを感じることはないのでしょうか?楽しい時間の後に来る侘びしさ、寂しさ、空しさ、・・・。


>あなたがそういうふうに考えることすらないでしょう。考える意欲がないのですから(笑)

意欲・意志は、頭の中にある知・情・意の中の、意に相当するものと思います。煩悩とは恐らく違うものなので、意欲自体は、煩悩が仮りに無くなったとしても消失しないのではないかと思います。

今の社会において、欲まみれでも構わない的な風潮が蔓延していますが、これは、欲まみれの人達による、ある種のマインドコントロールと言ってもいいと思います。考えに偏りがあるとのご指摘ですが、今の風潮を疑っていないあたりは、もう一つの面、つまり裏の面を見過ごしているのではないでしょうか?

補足日時:2006/02/03 22:18
    • good
    • 0
この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
仏教的思考か否かですが、まさしく仏教的思考に立っての問いかけです。
詳細は、補足にて記させて頂きます。

お礼日時:2006/02/03 21:57

煩悩の研究ですから仏教書が最良の教科書です。


欲とは悪意の一種です。
この悪意に、健康な意識でも誤解できる間違った理由がついた、精神的なコンプレックスがいわゆる欲です。
欲に身を任せてしまうのは、妄想をしていることと同じで、悪意にとってそれしか心の中の出口が無いためです。
欲望はそれが間違いであり、人間性とはかけ離れていると言う確かな証拠(認識)を自分自身が持たない限り縁を切ることは出来ません。

それから悪意が欲望の本質である以上、真実の人間(仏)である自分自身とは同一性を持っておらず、現実を正しく認識できていません。
したがって欲望に身を任せることイコール間違いを犯すことです。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
悪意とは、「他人を憎み、害を加えようとする気持ち」と出てました。

欲望の本質が悪意であり、その悪意を持っている以上、正しい人間生活を送ることは不可能、という事ですね。煩悩は、決して消すことはできないと言われます。ですから、その煩悩といかにつきあい、いかに支配されないようにするか、がポイントだと認識しています。

お礼日時:2006/02/03 17:14

人には五欲(“物欲”“財欲”“食欲”“性欲”“名誉欲)があるそうです.


本能ですから,仕方ないそうです.
それをどう抑えるかで人はずっと苦しんで来ています.
これを達したのが一部のお坊さんなのでしょうね.

お金に対する執着心は難しいですね.お金持ちにならなければその苦しみは分からないそうです.
殆どの人がそれを知らないから欲するのでしょうね.
お金を持って苦るしんでみたいです.
やはり経験してないから経験してみたいのではないでしょうか・・・.
    • good
    • 0
この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
五欲は、ネット検索したら、「財欲・色欲・飲食(おんじき)欲・名欲・睡眠欲の五つ」と出てました。
お金への執着心は、際限ないものと感じます。今年、1000万円の収入があれば、来年は2000万円を目標にしたりして、欲がどんどん高くなるだけだと思います。お金を持てなくても金が欲しい、お金を持っても金が欲しい、というのが、財欲なのではないでしょうか。

お礼日時:2006/02/03 17:04

人間も自然の産物ですから「枯れ葉」と同じで、とても不安定なんです。



たとえば、意中の人に告白されれば → 嬉しいです。
風が吹けば → 飛ばされる枯れ葉と同じなんです。

悪口を言われたら → 不愉快になります。
これも風が吹けば → 飛ばされる枯れ葉と同じなんです。

誰かが高級品を持っていると → 自分も欲しくなります。
これも風が吹けば → 飛ばされる枯れ葉と同じなんです。

我々の心の領域も、実際の自然と同じでとても不安定に出来ているんです。
だから、少しでも安定したいんです。
安らぎたいんです。

でも、その安定の方法も、上記のように外部の何かによって獲得しようとするんです。
地位、名誉、金、女、酒、ギャンブル、株、不動産、高級車、武器、生存競争・・・・これらを獲得することによって安定(安心)を得ようとするんです。

でも獲得すれば獲得するだけ「欲望」という筋肉も発達してしまうんです。
逆に獲得できなくて欲求不満状態になっても、「欲望」という筋肉は発達してしまうんです。
繰り返し、繰り返し、めぐらされる想いは、ドンドン強化されていくからです。
腕立て伏せをすればするほど、筋肉が増強されていくのと同じです。
だから、欲望が止まることなく増殖していくんです。

不安定だから安定したい・・・これがあらゆる欲望の起源だと想います。



・・・で、余談ですが仏教は外部に対する執着を絶って、自分のその心を鍛えなさいという教えなんです。
なぜならば、この世の全ては諸行無常に移ろっていますから、移ろうものに執着しても本当の安定は得られないからです。
本当の安定が欲しかったら、外部に対する執着を絶って、自分の心を鍛えれば良いんです。
そうすると生存のために必要最低限の欲望で満足できる小欲知足の智慧が現われてくるんです。
何も持っていなくても「心」が自律的に安定しさえすれば、あらゆる欲求が満たされたかのような幸福な状態になるんです。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
欲望を満たす為に、地位、名誉等を獲得しても諸行無常がために安定することはないという事ですね。
小欲知足の考え方はまさにそうですし、それが世界の人々に認識されれば、もっと住み良い世の中になるのではないかと思います。

お礼日時:2006/02/03 16:53

欲があったからこそ人類は進歩してきたのではないでしょうか。


欲を満たすために努力をし、新しい技術等が生まれてくるのだと思います。
欲がなくなってしまったら誰も働かなくなってしまいますよね。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
欲のおかげで進歩してきたのは事実だと思います。
しかし、現在、北極や南極の氷が溶けだし、ヴェネチアでは、水深が上がり、水浸しの状態にあります。欲の為に、人類は自分の首を絞め、崩壊へのカウントダウンをしているのが実状だと思います。

お礼日時:2006/02/03 16:38

このQ&Aに関連する人気のQ&A

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!

このQ&Aを見た人はこんなQ&Aも見ています

関連するカテゴリからQ&Aを探す

このQ&Aを見た人が検索しているワード

このQ&Aと関連する良く見られている質問

Q人間の3大欲とはなに?

この質問は このジャンルでふさわしいのかどうかちょっと迷ったのですが・・・。

人間の 3大欲といわれるものがありましたよね。
あれは 食欲と 後はなんでしたでしょう?

また その「人間の3大欲」という言葉は
誰が 言い出したのでしょうか?

Aベストアンサー

人間の三大欲望は
食欲 睡眠欲 性欲 です。
食欲は,物を食べ,エネルギーにする事。
睡眠欲は,睡眠をとり,脳を休ませること。
性欲は,トイレで用をたしたり,エッチをしたり,する事
この3つはある程度は我慢が出来ますが,人間が生きていくためには必ず必要なことです。欲望というより,必要不可欠なことです。
でも、このことを言った人はわかりません。昔からの言い伝えではないでしょうか?

似たような語で,「衣・食・住」これは、生活の上のことです。

Q甘やかされて育った子供と厳しく育てられた子供の性格は?

甘やかされて育った子供はわがままになると言われますが、本当のところどうなんでしょうかね?
逆に厳しく育てられた子供は、どうなるんでしょう。
単純にわがままの反対はがまんだとおもうので、がまんのできる子に育つと考えていいでしょうか?

みなさんの意見を聞かせてください。
よろしく御願いします。

Aベストアンサー

甘やかされて育つ。皆さんが書かれているように、叱られずに育つということですよね。
甘やかされた子はわがまま、厳しく育った子供は我慢が出来る、でも実際にはそれほど単純ではないんです。

まず、叱ると褒めるが表裏であると言う事をよく考えてみてください。
甘やかされて育つということは、実は叱られずに育つということになり、叱るがないから褒められるがない、つまり本当の意味で褒められた事がないと言えます。

よくあるパタンですが、甘やかされて育った人は、褒められていないので物事に対する達成感がなく(実際には分からない)、どこまでやっても『やり遂げた』という気持ちがあまり具体的にわいてこず、そのうちに『出来ていないんじゃないか』『不十分なんじゃないか』といった不安感に襲われ、やる前から諦めてしまう、さらに悪い状態なら欝になる。

厳しく育てられてきた場合は逆に、厳しい事を聞かなければならないというプレッシャーから、人の顔色を見て育つようになりがちです。求められている事をきちんとこなしているか、これで叱られないだろうか。
なので叱られる事がないようにするために褒められる事もなくなり、結果愛情を求めるようになってしまい傾向があります。

そう考えると、kiccaさんのおっしゃるとおり、やはり叱るべきところはきちんと叱り、その上で甘やかす部分も作ってあげ、そのメリハリをきちんとしてあげるというのが理想だといえますね。

叱る事によって社会のルールをきちんと理解させてあげ、褒める事によってその子のもつ才能を伸ばしてあげる。時には自分の行いを子供の前で反省する事もあってもいいですし、あえて子供を褒めるように料理のお手伝いを頼んでみたり(きれいに切れたね、上手に盛り付けられたね、など)。

それによって、自分自身の『気付き』も生まれてくるものですよ。

子供を育てるのではなく、子供の人生を育てる事が本当の意味での『育児』なんですよ。
自分の経験を見直して、『反面教師』として受け取った事に対しては『私は○○をされて嫌だったから子供にはしない』と考えて、楽しく人生を送る事が出来るように導いてあげてくださいね。

甘やかされて育つ。皆さんが書かれているように、叱られずに育つということですよね。
甘やかされた子はわがまま、厳しく育った子供は我慢が出来る、でも実際にはそれほど単純ではないんです。

まず、叱ると褒めるが表裏であると言う事をよく考えてみてください。
甘やかされて育つということは、実は叱られずに育つということになり、叱るがないから褒められるがない、つまり本当の意味で褒められた事がないと言えます。

よくあるパタンですが、甘やかされて育った人は、褒められていないので物事に対す...続きを読む

Qなぜ「どうせ死ぬのに」、頑張って生きるのですか?

20代半ば、会社員です。


最近、あらゆることに対してやる気や情熱が持てなくなってしまいました。
理由は、質問のタイトルにも書いた通り「どうせ死ぬから」というもの。


例えば・・・

自分が勉強して知識を付けても、その内のほとんどは自己満足。

仕事でその知識を使い社会に貢献できたとしても、社会全体から見たらほんの極わずか。

自分が痩せて「嬉しい!やった!」と思っても、ほとんどの他人にとってはどーでもいいこと。ましてや社会にとっては何の意味もありません。

僕本人にしか分からないレベルで小さな変化や成長を自分の中に感じても、他人にとってはどーでもいいこと。

何かの技術に習熟して、他の人ができないことができるようになったとしても、やっぱり社会全体から見たら取るに足らないこと。

僕が何かの資格を取ったりしても、やっぱりそれは地球全体で考えたら本当に些細なこと。


そしてそもそもの話。

どんな風に生きたとて、結局のところ人は死にます。
当たり前の話ですが。

じゃあなんでどうせ死ぬのに頑張って生きるのでしょうか。

しかも、上述したように、何か頑張って成し遂げたとしても、ほとんどが自己満足。
自己満足を超えて社会に幾ばくか貢献できたとしても、その影響は本当に小さい。。。


もしあなたがベートーベンやゴッホなどの世界クラスの才能をお持ちであるならば、その影響は大きいでしょう。
ですが、そんな人は本当に極一握り。

僕を含む、彼ら以外のその他大勢の"凡人"は、結局頑張ってもその努力の跡や功績は後世には伝わらないんです。

じゃあ、頑張っても無駄じゃないですか?


一生懸命、大変な思いをしながら生きるのって、必要なくないですか?


ただでさえ、あなたは日本や世界という基準で見たら、小さい存在で、正直いてもいなくてもいいんですよ。
あなたは後世に残る程の偉人にはならないだろうし、多くの人間に必要とされる人間にもならないでしょう。


その上、悪口を言われたり嫉妬されたり、潰されたり、精神的に辛い思いをさせられたり・・・と、色々な目に遭いながらも一生懸命生きたとして、残念ながら結局は死にます。


じゃあもう、どうせ死ぬなら生きなくてよくないですか?



・・・・っていうようなことを、ここ3ヶ月ぐらい前からずっと考えています。



自分は今20代半ばで、これまで色々とその場その場で頑張って来たつもりです。


高校受験の為に勉強して、部活では一生懸命走って、大学受験をして、そして就職活動をして・・・と、なんやかんや頑張って生きて来ました。


でもここまで生きて来て急に気付いたんですよね。


「俺、どうせ死ぬんじゃん」
「このまま生きてても、どうせ俺は後世に何年も残る偉大なものを作り上げることなどできない。つまり長い歴史で見ると俺の人生なんて何でもないんだ」


ってことを。


これまで本を読んだりして知識を付け、本人しか分からないレベルで成長したこと。
趣味を一生懸命やって、そのスキルを磨いて自己満足を得たこと。
ダイエットして痩せたこと。
何かに感動したこと。
新しい経験をし、新しいことを知って喜びを感じたこと。


これら全て、結局僕以外の人間にとってはどうでもいいことなんだなと。
そして、当たり前ですが、結局死んで無になるんだから全ては無意味なんだなと。


こんなことを最近強く思ってしまうようになったんです。


別に仕事で辛いことがある訳でも、プライベートで絶望的何かがあったとかでもありません。
恋愛で躓いているとか、他人が羨ましくて仕方ないとかでもありません。
特にサボリたいとか、その様な怠慢状態になっている訳でもありません。


単に、

「凡人が生き続けても何も残らないし、自分が何に感動し何に喜びを感じても他の人にはどうでもいいこと。 しかもいつか死ぬ。じゃあ生きてても意味なくね?」

という気持ちが急に湧いて来て、消えないだけです。


巷には

「人間関係を円滑にする方法!」
「コミュニケーションをスムーズにする為の〇〇ステップ!」
「資格試験取得への第一歩!」
「10年先を見据えた生き方をしよう!」


みたいな趣旨を唱う自己啓発本みたいなのが山のようにありますが、こんなのも正直無意味です。

結局あなたに、そして僕待っているのは「死」なんです。



・・・みたいな、「そもそも論」的な部分でしか物事を考えられなくなってしまっただけです。



こんな状態なため、ここ3ヶ月は本を読んで知識を付けようと思っても、

「どうせ俺がこうやって知識を付けて賢くなっても、結局は自己満足だ。 しかも俺より賢い人はゴマンといる。 じゃあやっても意味ないよな・・・」

って考えてしまったり、趣味に没頭しようと思っても、

「どうせ俺がこうやって趣味を楽しんでも、俺よりこの趣味に習熟している人なんて山程いる。。。 じゃあ意味ないんじゃないか・・・」

こんなことを思ってしまい、もう全てに対してやる気が失せ、情熱を燃やすことができないんですよ。



この気持ちが一向に消える気配がないので、思い切って仕事も辞めようかとも思い始めてます。
仕事を辞めて、一切の友人関係を絶ち、部屋に引きこもって餓死するまでずっと横になって生ける屍になろうかと。

冗談ではなく、本気で。


かなり前置きが長くなって申し訳ありませんが、以上を踏まえて質問です。


なぜあなたは「どうせ死ぬのに」生きるんですか?
あなたが幸せになろうが喜びを感じようが他の人にとってはどうでもいいのに、なぜそれらを追い求めて一生懸命生きるのですか?
それと(これはできればで結構です)、どうすれば僕はまた生きることを肯定的に捉えられるようになると思いますか?


これらのあなた自身の明確な意見をお聞きしたいと思います。

(回答する際はお手数ですが、年齢の方も最初に明記して下さい。 その方が回答者様の人生経験などを推測しやすいので)

20代半ば、会社員です。


最近、あらゆることに対してやる気や情熱が持てなくなってしまいました。
理由は、質問のタイトルにも書いた通り「どうせ死ぬから」というもの。


例えば・・・

自分が勉強して知識を付けても、その内のほとんどは自己満足。

仕事でその知識を使い社会に貢献できたとしても、社会全体から見たらほんの極わずか。

自分が痩せて「嬉しい!やった!」と思っても、ほとんどの他人にとってはどーでもいいこと。ましてや社会にとっては何の意味もありません。

僕本人にしか分からないレ...続きを読む

Aベストアンサー

19歳女性です。

生きる意味なんていうのは、私も分かりません。
でも、「なぜどうせ死ぬのに頑張って生きるのか」の答えは何となく分かる気がします。
あくまでも私の考えです。

私は、「どうせ死ぬから」こそ、頑張って生きているのではないか、と思うのです。
もし、いつか死ぬと分かっていなかったら、ここまで生きてこられなかったかもしれない。
「死」という人生のゴールがあるからこそ、そのゴールまでの道のりを全うしたい、と思えます。
さらにいえば、生きる意味が分からないのも当然のことだと思います。
「生きる意味を探す」「生きる意味をつくる」というのも、立派な「生きる原動力」です。

抽象的になってしまい、分かりにくくなってしまいました。
もう少し分かりやすく言うと、私は、いのちの期限が決まっているからこそ、可能な限り、自分に与えられた人生を全うしたいと思うのです。
「生きる意味」というのは、誰かに提示されるものではなく、自分で見つける、さらにいえば、自分でつくるものだと思うからです。
だから、簡単に見つかるものではないのは当然です。
一生をかけて、向き合っていかなければいけない問いなのです。

勉学に励むことも、恋することも、友達と過ごすことも、家族をつくることも、仕事をすることも、全て、無駄なことではないと私は思います。
それらは全て、自分の生きる意味を形成するための重要な材料になるからです。

19歳女性です。

生きる意味なんていうのは、私も分かりません。
でも、「なぜどうせ死ぬのに頑張って生きるのか」の答えは何となく分かる気がします。
あくまでも私の考えです。

私は、「どうせ死ぬから」こそ、頑張って生きているのではないか、と思うのです。
もし、いつか死ぬと分かっていなかったら、ここまで生きてこられなかったかもしれない。
「死」という人生のゴールがあるからこそ、そのゴールまでの道のりを全うしたい、と思えます。
さらにいえば、生きる意味が分からないのも当然のこと...続きを読む

Q煩悩ってどういう意味ですか?

煩悩(ぼんのう)ってどういう意味ですか?
辞書で調べても難しくて理解できません。
具体的に、わかりやすく教えてください。よろしくお願いします。

Aベストアンサー

 
  煩悩は、仏教の用語で、元々、かなり難しい思想的意味を持っていましたし、煩悩とは何かというので、色々な議論もありました。
 
  しかし、それはともかく、具体的な例の話で、日常語での「煩悩」の使い方というか、意味を考えてみましょう。
  「煩悩」は、「煩」と「悩」から出来ています。「煩」は、「わずらわしい」という意味で、「わずらわしい」と入れて変換すると、「煩わしい」と出てきます。また「悩」は、「なやみ」のことで、「なやみ」と入れて変換すると、「悩み」と出てきます。
 
  煩悩とは、わずらわしく、悩みになることだ、ということになります。しかし、そんなに煩わしく悩む、困ったことなのかというと、日常の用法では、ちょっとニュアンスが違います。ここは、仏教のお坊様に出てもらって、具体的な使い方の説明をしましょう。
 
  仏教では、覚りを開くため、修行する人が、元々「坊様」だった訳です。従って、元の仏教の「戒め」では、修行者は、例えば女性となれなれしく口をきいてはならないとか、女性の姿もまともに見てはならないなどとなっていました。女性の美しさなどは、「迷い」の元だというのです。
 
  しかし、坊様がすべてそうではないでしょうが、すけべな坊様もいる訳で、道で通りがかりの、和服の美人を見て、ほわ、と口を開けて見とれ、なんちゅう、綺麗なべっぴんさんや、いや目の毒じゃ、これも「煩悩、煩悩」などと云いながら、女性の後ろ姿を見送ったりします。別に和服でなく、洋装でも構わないのです。また、坊様も、そんな女を見るとすぐ見とれるような人は珍しいでしょうが、やはり、坊様も男ですから、美人と道ですれ違うと、ふと、心が動くこともあるのです。
 
  あるいは、仏教では、イスラム教と同様、精神の安定や、日常の心の状態を興奮させたり、おかしくする飲み物などは禁じています。例えば、麻薬などは無論駄目ですし、煙草やお酒も駄目なはずです。しかし、日本の坊様は、何時頃からか、「般若湯(はんにゃとう)」と称して、酒を店で買って飲んでいたりします。坊様が、良い酒を味わいながら飲みつつ、何という味わい、この酔い心地、さすがに銘酒は違う。極楽じゃ。しかし、考えてみれば、これも「煩悩、煩悩……仏様よ、お許しあれ、南無阿弥陀仏、いやもう一杯、何ともうまい」などと云っていると、どこが、煩い、悩みの煩悩か分からないでしょう。
 
  また仏教では、生き物のいのちを大切にせよと教え、殺生を禁じ、従って、動物の肉は無論、鳥の肉も、魚も食べてはならないことになっているのですが、それも何のことかです。酒のさかなに、コイのあらいを食べつつ、いい気分になって来て、坊様が、いや、浮き世もまた楽しいぞよ、酒はうまいし、ねえちゃんは綺麗だ……などと歌っていると、「生臭坊主」ということになるのですが、以上は極端に戯画化しているので、日本では、昔から、坊様が、妻帯し、子供がおり、酒は飲み、魚も食べ、それで別に社会から糾弾などされていません。
 
  大酒を飲み、酔っぱらって、寺の本堂で乱交パーティを開くような坊様は、それは別に坊様でなくとも、普通の人でも社会から糾弾されます。
 
  仏教の坊様にとっては、女性と触れたり、メイクラヴすること、酒を飲んだり魚を食べたりすることは、仏教の教えに反することで、こういう「欲望」を、修行の妨げになる「煩悩」と呼ぶのですが、煩悩というのは、多くの坊様の日常生活から云うと、自然なことのようです。
 
  もう一つ、坊様ではありませんが、一般に、「子煩悩」という言葉があります。これは、別に、子供が煩わしく悩みの種で、何かの邪魔になるのかと云えば、そうではなく、子供が可愛く、何時も子供のことを考え、細かいことにも、子どものためにと、あれこれ気も身も使う親のことを、こう呼びます。別に、子どもが、何かの「妨げ」になっているのではないのです。親にしてみれば、ふと、思うと、「ああ、おれは、何と子どものことばかり思っているのか。これも煩悩か」などとなります。
 
  「煩悩」というのは、仏教の教えとか、人間の生き方はいかにあるか、などということの前では、何か安楽な、気持ちよい、楽しい方にばかり気が向くようで、困ったことだという考えもある他方、「自然な欲求」「自然な望みのおもむく方向」であって、煩悩だが、しかし、これもまた良しなどというものです。
 
  これは、仏教の教義として、煩悩に迷う人の姿こそ、すなわち、仏の姿に他ならないという考えもあるのです。
 
  煙草をやめないと、肺ガン確実と云われていて、それでも吸いたいという人の場合、煩悩とは云いません。また、大学受験中なのに、異性のことに意識が向いて勉強に集中できない高校生も、それを煩悩とは云いません。(ただし、高校生の親が、寺の住職だったりして、子どもに、そんな煩悩は振り払え、と説教するかも知れません)。
 
  煩悩というのは、本来の仏教の教えでは、たいへん厳しい、覚りの道にあって、克服せねばならない誘惑や欲望だったのですが、「煩悩すなわち仏」というような考えは、人間は自然に振るまい、自然に生きるのがやはり一番であるという考え方でしょう。
 
  肺ガン寸前の喫煙者や、受験勉強に必死な高校生にとっては、喫煙や、恋愛は、自然のままを楽しもうなどということではないのです。
 
  人間は、欲望が強すぎると、色々不都合なことが起こることが、或る程度分かっているともいえます。分からない人、自制がきかない人は、酒に溺れて身を滅ぼすとか、守銭奴になって、世人の顰蹙を買うなどとなり、そういう人自身は、煩悩も何もないでしょう。しかし、そういう人を横目で見ていると、酒を飲み、恋愛をし、ギャンブルで小銭を失い、自堕落な生活を少々しても、歯止めがかかっていて、ああ、これが煩悩というものか……で片が付きます。
 
  「わかっちゃいるけどやめられない」というのは、確か古い歌の言葉ですが、そういう心境の「分かっている」のが、煩悩だと分かっているということで、度を超さなければ、やめる必要もない訳です。本格的な修行をしている坊様にとっては、厳しいことでまた別ですが、普通には、煩悩はまた楽しいことなのです。本来しない方がよい、というのをするのは何とも楽しいことなのでしょう。
 
  世界中の文化がそうだとは分かりませんが、日本は、煩悩を楽しむ文化です。
 

 
  煩悩は、仏教の用語で、元々、かなり難しい思想的意味を持っていましたし、煩悩とは何かというので、色々な議論もありました。
 
  しかし、それはともかく、具体的な例の話で、日常語での「煩悩」の使い方というか、意味を考えてみましょう。
  「煩悩」は、「煩」と「悩」から出来ています。「煩」は、「わずらわしい」という意味で、「わずらわしい」と入れて変換すると、「煩わしい」と出てきます。また「悩」は、「なやみ」のことで、「なやみ」と入れて変換すると、「悩み」と出てきます。
...続きを読む

Q優しい人のほうが損?美輪さんの教え?

周りの人間関係をみていて
ふと思ったのですが、
優しくて人格者で性格の良い人は
損をする事が多いように思います。

他人が嫌な思いをしていないか、
気づかってめんどう役も引き受けたり、
相手に親切にして、逆になめられたり。。。

そして、反対に
他人をばかにし自分が優位に立ちたいと
いつも思っている、
あまり優しくない人達のほうは
他人の感情等気にせず
自己中心的な考えで、自分の意見をまかり通してしまう。。。

私は、美輪明宏さんや、江原さんの本が大好きで
いつも読み返すたびに
「やっぱり他人に優しくて愛情豊かな人間のほうが
上質なんだな~」と思い返してますが、
それにしてもやはり
現在社会では
ある程度、自己中心的で図々しいひとのほうが
社会を要領良く飛び回っているように思うのです。

やっぱり優しくて
他人に気遣いする人間の方が損でしょうか?
皆さんはどう思われますでしょうか??

Aベストアンサー

こんにちは☆

私も美輪明宏さんや江原さんが大好きで、たくさん本を読んでいます。

あなたがおっしゃっている優しい人格者とは、人の気を汲みすぎてしまい、自分よりも相手を優先してしまう人、のように感じました。そういう人をあなたははたからみていて、その人が我慢して自分の思い通りにできずに、損しているんじゃないかなと思っていらっしゃっるのでは?
私が思うに、優しい人格者の方は、自分が相手を優先したり譲ったりするという選択をしたならば、その選択について後悔したり損したとは感じないと思います。「ああ、できてよかったなぁ!」って自分の選択に満足できます。
それと、自分を押し殺して人を優先することとは優しさとは違うと思います。人格者であっても、これはこの人のためにはならないと思うことははっきり断ると思いますし、自分の思いや気持ちを押し殺し相手の言うがままにするのは優しさとは違うように思います。

優しさとは行為にその人に対しての愛があるかないかだと私は思っています。
結局、人にした愛は自分の方に必ず返ってくるし、そういうふうにできる人はみんなから愛され幸せになれますよ♪
お互いそういう人になりたいですね♪♪

こんにちは☆

私も美輪明宏さんや江原さんが大好きで、たくさん本を読んでいます。

あなたがおっしゃっている優しい人格者とは、人の気を汲みすぎてしまい、自分よりも相手を優先してしまう人、のように感じました。そういう人をあなたははたからみていて、その人が我慢して自分の思い通りにできずに、損しているんじゃないかなと思っていらっしゃっるのでは?
私が思うに、優しい人格者の方は、自分が相手を優先したり譲ったりするという選択をしたならば、その選択について後悔したり損したとは感じないと...続きを読む

Q人から利用される性格を直したい

何故か、人から利用され易い性格の様な気がしてなりません。

例えば…
 一年位、一切連絡や付き合いの無い人から、その人が知りたい事があるときだけ「○○教えてくれない!?」とメールが来る。で、返答しても「ありがとう」の一言も無い。

 子供の幼稚園のバス待ちの仲間内のある人は、他にもっと仲の良い人がいるのに、自分がバスに遅れそうな時や、急にお休みになった時など、先生に連絡して欲しい事がある時には何故か私にメールが入る。で、「先生に言っておいたからね。」とメールしても返答無し。(>_<;)

勿論、友人や親友からはそんな失礼な態度を取られる事は無く、全ての人からそういう扱いを受ける訳では無いですが、一部の図々しい人からは、すぐに利用される体質!?みたいです。^^;

そういう相手にはなるべく関わらない様にはしていますが、最近どうしてこんな風に軽く見られてしまうのか、自分が情けなくなって来ました。
私の性格は、人と衝突するのが苦手で、他人に対してあまり強く言えないです。他人に迷惑を掛けるのが怖くて遠慮ばかりしています。
人からどう思われるかが凄く気になるので、「自分は自分」と、中々思いにくいです。八方美人的になってしまっているのかも知れません。

もっと強い自分をアピール出来るようになるべく、何かアドバイスがありましたらお願い致します。

何故か、人から利用され易い性格の様な気がしてなりません。

例えば…
 一年位、一切連絡や付き合いの無い人から、その人が知りたい事があるときだけ「○○教えてくれない!?」とメールが来る。で、返答しても「ありがとう」の一言も無い。

 子供の幼稚園のバス待ちの仲間内のある人は、他にもっと仲の良い人がいるのに、自分がバスに遅れそうな時や、急にお休みになった時など、先生に連絡して欲しい事がある時には何故か私にメールが入る。で、「先生に言っておいたからね。」とメールしても返答無し。(>...続きを読む

Aベストアンサー

こんにちは^^ お気持ち察します。
私も以前は八方美人で頼まれると断れないタイプでした。なので同様に普段仲良くない人から都合よく使われたこともあります。私も仲が良い人達とはそんなこと無いですよ。

私の克服方法は「まずは断る」こと。ちょっと小さな事も「ごめんなさ~い、最近忘れっぽくって、頼まれごとを忘れちゃったら困るから他の人に頼んで~!」などやんわりと。もしくは笑いながら「え~、でもこの前○○した時お礼の言葉が無かったから、どうしよっかな~?」や、「だって○○したとき何も言われなかったし~。」など言ってみるとか・・。(相手との仲にもよりますが)

後はメールで聞くだけ聞いてお礼の返事が無い人からの突然のお尋ねメールなどには返事を送らない!など。(催促が来れば「あ!メール来てたっけ?忙しくて忘れてた~!」などをアピール。)

「都合のいい人」じゃないということを相手に分かってもらうということ。でもそれは「悪意」が無いということ。この2点が揃えば相手を逆なでることも無いと思いますし、それなりの関係が築けると思いますよ^^

Q愛情不足な環境で育った人間はどう成長するか。

こんにちは。
初めて質問させて頂きます。
唐突なのですが、愛情不足な環境で育った子供は大人になるとどんな傾向があるのでしょうか?

私は母子家庭で育ちました。
親には苦労こそかけましたが、特に愛情不足を感じたこともなく、
今も平和に平凡に暮らしています。

しかし以前、同じように母子家庭で育った友人(こちらの方がもっと複雑な家庭環境だと思われます)から、
「やっぱり、片親で育った人は変わってる。あなたも変わってるもん」と言われたことがあります。
あまり深く突っ込まなかったので真意はわかりませんが、
自分と同じものを感じる、という意味の発言だったようです。

私は貞操観念や倫理観があまりない所があり、
彼女がいる男性のことを好きになることが多いのです。

先日ネットサーフィンをしていて、
『恋人がいる人を好きになり、相手が振り向くと途端に好きじゃなくなってしまうような人間は、
子供の頃十分な愛情を貰って育っていない可哀想な人間』
という記述を目にしました。
相手が振り向くと好きではなくなる、ということはあまりないのですが、
彼女がいる人を好きになる、そういう傾向があるのは確かです。
また、自分に恋人がいても他に好きな人を作ってしまったり、二股していたこともあります。

以前また違う友人(同じく母子家庭)には、
「心理学を勉強している人に言われたんだけど、
母子家庭みたいに男性がいない家庭で育つと、男性との距離感がつかみにくくなるらしい。
父なのか兄弟なのか友人なのか、区別がつかないから、すぐ好きになってしまうんだって」と言われました。
私もその友人も、すぐ人を好きになりやすいので、この話には非常に納得しました。


私は自分の貞操観念や倫理観があまりないこと、また恋愛に一途になれないことが
自分のウィークポイントだと思っています。
どうにか改善していきたいのですが、この今の状況が家庭環境に関係しているのかどうか判断して頂きたいのです。(難しいとは思いますが・・)

ちなみに22歳女です。
よろしくお願いいたします。

こんにちは。
初めて質問させて頂きます。
唐突なのですが、愛情不足な環境で育った子供は大人になるとどんな傾向があるのでしょうか?

私は母子家庭で育ちました。
親には苦労こそかけましたが、特に愛情不足を感じたこともなく、
今も平和に平凡に暮らしています。

しかし以前、同じように母子家庭で育った友人(こちらの方がもっと複雑な家庭環境だと思われます)から、
「やっぱり、片親で育った人は変わってる。あなたも変わってるもん」と言われたことがあります。
あまり深く突っ込まなかった...続きを読む

Aベストアンサー

相変わらず長文です。覚悟して読んで下さい(笑)

> もしかしたら外的要因(この場合家庭環境)もあるのではないか?

なるほど、判りました。

(理想的な両親や母子家庭の場合で)両親がそろっている場合と、
片親だけの場合どのような、違いがあるのか?
考えてますと、以下のような違いがあると思います。

1)親が子どもを叱る(叱られる)場合や親と対立した場合の逃げ道

  ・両親がいれば、片親が怒っても、もう片親が慰めてくれるとかの
   怒りを緩衝してくれる働きや、子どもの避難場所に成ったりもします。
  ・一方、片親だけの場合、緩衝的な役割がなく、直接怒りを受けます、
   子どもにとっては、逃げ道がなく、対立したときには、
   完全に対立したままか、不本意でも親の意見を受け入れざるを得なくなり
   折衷案的な解決方法を経験しないままに大人になると思われます。
   もしかすると、一か八か的な性格が形成されるのかも知れません。

2)もらえる愛情のバリエーションの多さ(二人分)

  ・余り説明の必要はないと思いますが、二人分のタイプの違う愛情をもらい
   愛された経験ができます。
  ・片親だけの場合は、主にひとりの親だけの愛情・・・愛し方を受け入れること
   になります、その分、愛情の濃密度は濃いかも知れませんが、片親では
   経験できない愛情表現があるかも知れません、そしてそれが特に母子家庭の
   場合には、ふた親のそろった家庭との男性からの愛情経験の差・・・が
   男性との関係(距離の取り方)に影響(※)を与えている可能性があります。
   (※惚れっぽいとか、騙されやすいとか、質問にeco39さんが書いてあることです。)

まだまだあるかと思います。この辺が大きな差かなと思います。

3)そして、『倫理観』については、上の両親が居た場合と違って、
 母親の性格的な部分に左右されてしまうことが大きいのです。
 交流分析の理論では、倫理観は主に、父性的な性質をもち、両親が健在の場合
 子どもは、どちらかというと父親側から倫理観を受け取ることになりますが、
 母子家庭で、なおがつ母親がそういった父性的な厳しい部分が少ない場合、
 子どもの倫理観は育たないまま大人になって行くことになります。
 (このことを心配して厳しく躾けた場合や、母親が倫理観に厳しい場合また別ですが…)

兄弟関係だと、兄弟同士の相性問題や親の愛情の取り合いなども有り、
理想的な兄弟関係は、ちょっと考えられないです。
これは↑我が家の愛憎ごちゃ混ぜの兄弟関係が邪魔して考えつかないのかも(笑)スイマセン!

> これは具体的にどのようにすればいいと思われますか?
> 好きという感情をコントロールする術を身につける、

このような、1)2)3)性質が自分の中にあるのを感じたら、
そういう性質が悪い方向に向かわないように、
初期段階で少しづつコントロールすれば良いと思います。

その為に、先ず自分を正確に知ることかも知れません。
カウンセリング受けることや臨床的な心理学を学ぶ事も役立ちますし、
交流分析(※)などは、論理的で解りやすいのでお薦めですし、
意識して、友人や他人との比較することや世間を知ることが、
自分を知ることにつながると思います。自分はいつも他人や世間との
“あいだ”に立現れて来るものです、自分の好み・好きなものを
追求し探してみて下さい。案外好みと思っていたものが、幼い頃の
男性像の残骸なのかも知れません(笑)

 余談ながら、世間で言われる『自分探し』がもっとも自分を解らなくし
 混乱を招く一番下手(上手?)な方法だと私は思います。

最初の一歩はそれ自分の性格を自覚することから始まります、
人は、無意識・無自覚の好みや嗜好に引きずられて、
異性を求めていたりします。無意識に理想の父親像を男性にみていないか?
子どもの頃どんな父親が欲しかったのか?ちょっと思い出して書出してみてください。
その理想の男性(父親)のイメージを、異性に投影していないか?
経験したことのない異性の行動を愛情と勘違いしていないか?
いままでに、好きになった、つきあった男性達を通して共通項を探すのも方法です。
その人達は、無意識に引きずられて好きになったものではないのか?
検証してみる必要があるだろうと思います。

勿論、無意識が幸せに向かっているなら、問題ないでしょうが、しかし、
多くの場合、幼い無意識に支配された嗜好は、不幸な結果を招く事になります、
なんであのような酷い男性を好きになったのかと後悔する場合がとても多いのです。
その為、燃え上がった恋心が長続きしないのです。

 私にも遠い昔(オイオイ!)に経験がありますが、本格的に好きになる前の段階なら
 理性的に、感情を抑え変えることも可能です。最初の段階で徹底的に調べて
 行くか止めるか決めると良いですよ。大火事に成る前に消し止めるのが、
 感情のコントロールの方法です。感情は思考の結果生まれるものです。
 考え方・受け取り方を変えれば、感じ方が変わります。

例えば、倫理観の薄い性格の場合、相手側にも倫理観の薄い人を選ぶ傾向があります、
その結果、不倫や犯罪の被害者や加害者になることさえあります。
「君子危うきに近寄らず」「無事これ名馬」世間で言い継がれて来た言葉は、
やはり、真実を含んでいると思います。

まして、貴方は女性です。倫理観の薄い男は、薄い倫理観を正当化する為に、
自分勝手な倫理観や屁理屈を持っていることが多ようです。
そういった男達とつきあうのは、危険なことでもあります。

そして、科学的な実証はされていませんが、経験上、
江原氏や三輪氏の言う正負の法則は、やはり在るものと思います。
不倫とかの世間に顔向けの出来ない方法で結ばれても、大病したり
別れたり、殺し合ったりと、そういった心理傾向をもつ人達のグループでは
不幸な結果になるプログラムに支配され従って、無意識に動いて居るのですから…

> 男性と接する機会を減らす、等でしょうか。

これは、むしろ逆だと思います、と言っても特定の男性ではなく男性の友人を
沢山作ってみてグループや大人数で沢山の男性と楽しく付き合ってみて下さい。
男性の友人を沢山作ると男性的な思考ややり方、行動、見方を学べますし
相談も出来ます、ひとりの男性に夢中になり他人が見えなくなるのが
最悪のパターンだと思います。まだお若いのですから、誠実で人間として
良い男をとは?どんな行動をするのか?考えて観察して、
ひとりでは心許ないなら色んな友人の意見を取り入れて、
男性を選ぶ眼を養ってみたら如何でしょう。

故事曰く「己を知り、敵を知れば、百戦危うからず」と言うことです。

お節介ながら、お礼の疑問にお答えしますと、

> これは、幼少期のときにということでしょうか?
そうだと思います。

> 父の愛、兄弟の愛が足りなかったから、母との信頼関係が崩れたということですか?
そういうことはありません、元々に父や兄弟は存在しないのですから、
父・兄弟の愛に関わらず、母との関係は親子の二人の間の関係です。
そこに元からなかった愛の不在を感じることは、普通にはあり得ません。

(子どもに限らず)人間は愛が欲しい生き物です、
特に親の愛情は子どもの「心の栄養」と言われています、
欲しいときに親からの心の栄養が十分でないなら、幼い子どもは
「親が悪い(他罰的傾向)」や「自分が悪い=愛される資格がない(自罰的傾向)」の
傾向がつよくなります、心の栄養失調が余りに過ぎると、成長してから
「他人を信じられない」とか「自分を信じられない」とかの要素が強くなり、
 (中には、両方の要素を強く持つ人も多くいます。)
ここに倫理観の希薄さや誤った価値観が重なると、
前者では、最悪の場合「殺人者」後者では「自殺」という結果を引き起こします。
「他人を責めるまたは、自分を責める」このことが人間不信の正体と思います。
このふたつの考え方では、問題は解決しません、子どもの頃なら考えも幼いので
この考えに逃げ込むしか生きる方法が無かったのですが、問題なのは、
大人になってもこの幼い解決方法を自動的に使い続けた結果、
孤独に成って行く可哀相な人達がいるということです。
これは、eco39さんの事ではありませんのでどうぞ心配なさらずに(笑)

> 裏切られない何か、を人間に対して求めることは可能なんでしょうか?

No.1 の回答者さまの論は、何を意図してなのかは、私には判断できませんが、
「裏切り」と感じる為には、そこに何らかの約束や期待があっただろうと思います。
その「約束」は確約なのでしょうか?伝えてあるのでしょうか?
双方の了解事項なのでしょうか?
「人は皆、自分が基準です」しかし。いつも「他人には他人の基準」があることを
無視したり忘れてしまっています。「裏切り」と解釈する一歩前にもどって
どのような「約束」を取り交わしたか、考えて見ては如何でしょうか?
そして、信じる強さは、『相手に期待しない・依存しないで信じること』です。
これは、親の愛、母の愛によく似ていると思います。


※交流分析にエゴグラムという心理テストがあります、
 これがすべてではありませんが、自分を知る為の一助となると思います。
 検索しても色々なエゴグラムテストが出てきますが、参考URLを貼っておきます。

参考URL:http://www.sinritest.com/ego-test.html

相変わらず長文です。覚悟して読んで下さい(笑)

> もしかしたら外的要因(この場合家庭環境)もあるのではないか?

なるほど、判りました。

(理想的な両親や母子家庭の場合で)両親がそろっている場合と、
片親だけの場合どのような、違いがあるのか?
考えてますと、以下のような違いがあると思います。

1)親が子どもを叱る(叱られる)場合や親と対立した場合の逃げ道

  ・両親がいれば、片親が怒っても、もう片親が慰めてくれるとかの
   怒りを緩衝してくれる働きや、子どもの避難場所...続きを読む

Q「みんな死ねばいいのに」

気分が沈むと、人間が嫌いで仕方なくなります

誰でもいいから人を殺したくなります。

身近な人を殺している自分を想像してしまいます。

みんな死んで、人類など滅びてしまえと思います。


そして自分も死にたくなります。


ですが、しばらく(半日~3日くらい)すると落ち着いてきます。



皆さんの中にも似たような方はいらっしゃいますか?

Aベストアンサー

それだと、私も、私の家族も死んでしまえと言うことですよね。

そう言われると、辛いですね…。
赤ちゃんでも「死んでしまえ!」なのでしょうか?

私は、
「みんな死んでしまえ!!」とは思ったことはないです。
でも、身近な人を二人、憎く思って、
「早く死んでしまえ!!」と思ったことがあります。殆ど呪いですね。
その時は、何も手に付かなくなったので、どちらも病院に行きました。
だいぶ気が収まってから行ったので(ストレス障害だとは言われましたが)、薬は出ませんでした。正常だと言うことですね。
でも、人を呪った話をしたら、薬が出たもしれないですね。
気が収まってからは、頭の中に詰まっていたのは、憎しみよりも悲しみでした。

どちらも殺したいとは思いませんでした。
ころっと死んでしまえばいいのにと思いました。
やはり自分の手を汚すのは嫌だし、殺人をして捕まるぐらいなら、自分が死んだ方がましだからです。そして、
「葬式になんか、絶対行ってやるもんか!!」と思いました。


殺人を犯す自分の姿まで想像できないのは、結局、私は死ぬのが怖いからだと思います。死ぬのが怖いから、殺人が出来ないのだと思います。
きっと質問者さんは死ぬことに、私ほどには抵抗がないのでしょう。

「みんな死ねばいいのに」というのは、結局、質問者さんが死にたいんですよね。
でも、一人で死ぬのは嫌なんですよね。
それは、孤独だからですよね。
一人で死んでいくのが嫌なんですよね。

では、一緒に死んでくれる人がいたら、死ねるのでしょうか?
そうはならないですよね?

世の中、全部が終わって欲しいんですよね。
自分が死んでも何もなかったように続く、世の中が許せないんですよね。
でも、自分が死んで何も変わらないように続く世の中は、頭の中の世界で、現実ではないですよ。
本当は自分が死ねば、世界なんか無くなります。
だって、自分はいないのだから、誰も生きていないのと同じです。
世界が無いのと同じです。
自分が死ねば、みんな死んだのと同じです。

だから、
「みんな死ねばいいのに」って考えるのは無駄なことです。
誰だっていつか死ぬから、質問者さんもいつか死にます。
別に自分の手を汚さなくとも、死ぬ日が来たら、質問者さんの記憶の中のみんなが死にます。自分を取り巻く世界が死にます。
気休めのようだけれど、あなたが観ていた世界は終わります。

それだと、私も、私の家族も死んでしまえと言うことですよね。

そう言われると、辛いですね…。
赤ちゃんでも「死んでしまえ!」なのでしょうか?

私は、
「みんな死んでしまえ!!」とは思ったことはないです。
でも、身近な人を二人、憎く思って、
「早く死んでしまえ!!」と思ったことがあります。殆ど呪いですね。
その時は、何も手に付かなくなったので、どちらも病院に行きました。
だいぶ気が収まってから行ったので(ストレス障害だとは言われましたが)、薬は出ませんでした。正常だと言うこと...続きを読む

Q男性が気持ち悪い。男性不信

単刀直入に言いますが男性って気持ち悪い人が多くないですか?(もちろん素敵な男性もたくさんいます。)

最近男性不信気味です。

私は中高大と女子中、女子高、女子大に通っています

しかし男性の友達もいるしお付き合いの経験もそれなりにあるし今も彼氏がいます

私はコンビニでバイトをしてるのですが、気持ち悪い酔っ払いや、みんな並んでるのに待てずに「おせぇよ!」と暴れてる人や

財布から小銭をほうり投げて「取れ!」と言ったり、何日お風呂入ってないんだろうってくらい臭い人がいたり・・・

バイト中嫌な思いをするとたいてい相手は男性です。女性で変な人もたまにいますが本当にたまにです。たいてい変な人は男性(おっさん)ばかりです。

あと私はひどいハウスダストなのでいつもマスクをしています。すると男子高校生の集団に

「あの人いつもマスクだよね。なんでだろ?」

「素顔がとんでもないブスなんじゃね?」と言われました^^;失礼ですよね。

他にも男子高校生の集団はいつもワーワーうるさかったり店の中で誰が奢るかじゃんけんをしたりしてます・・・

こんな感じで私がバイト中嫌な思いをするのはたいてい男性が相手だし、

ニュースとかでも無差別殺人事件とかレイプ殺人とか監禁とかとんでもない事件の犯人はたいていが男性です。

他にもAKBの握手会に精子をつけていく男性がいたとニュースになっていました。

ジャニーズファンにも非常識な女性はたくさんいますが(しつこい追っかけなど)さすがに自分のオシッコをつけてジャニーズタレントと握手をしようと考える女性はいないと思います

男性の方が常識外れで気持ち悪い方が多いように感じます。
これはなぜなのでしょうか?

社長など偉い人に男性が多いのも事実ですが男性の底辺レベルはあまりにひど過ぎます。

素敵な男性もたくさんいます。私も素晴らしい男性の存在を知っています。
一部の男性について今回質問させて頂きました。

単刀直入に言いますが男性って気持ち悪い人が多くないですか?(もちろん素敵な男性もたくさんいます。)

最近男性不信気味です。

私は中高大と女子中、女子高、女子大に通っています

しかし男性の友達もいるしお付き合いの経験もそれなりにあるし今も彼氏がいます

私はコンビニでバイトをしてるのですが、気持ち悪い酔っ払いや、みんな並んでるのに待てずに「おせぇよ!」と暴れてる人や

財布から小銭をほうり投げて「取れ!」と言ったり、何日お風呂入ってないんだろうってくらい臭い人がいたり・...続きを読む

Aベストアンサー

他の人の回答にもありますが、男は優劣の振れ幅が大きいのです。女性のノーベル賞受賞者というのはとても少なく、よく2ちゃんねるあたりで男性優性主義を主張する人なんかはよくそれを指摘しますが、学校の補講に呼び出されるのは圧倒的に男子生徒が多いですよね。一方、女子生徒はとんでもないバカは少なくて、大抵の子は頭が悪くても補講には呼ばれない程度に帳尻を合わせるのが上手です。

なぜかというと、要はオスって当たりがひとりいればいいんです。その優秀なオスがあっちこっちのメスに種付けすれば全体の種は保たれますし、優秀な種は残ります。
一方、メスはそれほど飛び抜けた才能は必要としません。オスが自分の子孫を残せる数とメスが残せる数ではメスのほうが少ないからです。むしろ、平均的な能力を持ってきちんと子供を育てられることのほうが大切です。

まあ、頭の良さもバカさも男の方がスケールが違うってことですね・笑。
ちなみに、ホームレスも圧倒的に男性が多いのですが、なぜ女性のホームレスが少ないのかというと、中高年の女性にもホームレスになってしまいそうな状況に置かれてしまう人はいるのですが、彼女らの多くは、独身男性の身の回りの世話をする代わりに住むところを確保するので、屋根を失うようなことにならないそうです。
そういえば、昔ちょっとお付き合いがあったある女の子は身寄りもなくお金もない子だったのですが、男のところを転々としながら生きていました。ある意味、たくましいですよね。

他の人の回答にもありますが、男は優劣の振れ幅が大きいのです。女性のノーベル賞受賞者というのはとても少なく、よく2ちゃんねるあたりで男性優性主義を主張する人なんかはよくそれを指摘しますが、学校の補講に呼び出されるのは圧倒的に男子生徒が多いですよね。一方、女子生徒はとんでもないバカは少なくて、大抵の子は頭が悪くても補講には呼ばれない程度に帳尻を合わせるのが上手です。

なぜかというと、要はオスって当たりがひとりいればいいんです。その優秀なオスがあっちこっちのメスに種付けすれば全体...続きを読む

Q冗談が通じない人ってどんな人が多いですか?

タイトルの通りですが、会話にジョークがあった方がいいと思いますし、
場が和むと思うんですけども。
冗談が通じない人って、いますよね。
そういう人って、どんな人が多いのでしょうか。

Aベストアンサー

感情よりも論理的思考優位の人に多いと思います。
自由な感情表現ができない人とか。
冗談を理解するには、「笑い」という自然な感覚が、理屈ではなく実感としてわかることが前提になると思います。
論理的思考型の人は、その「自然な感情の流れ」がわかりにくいんですね。
感情優位の人にとっては当然のこととして身についているセンス(感覚)が、論理優位の人には身についていないこともあるんですね。だから、彼らにそういうセンスを理解してもらうには、論理的に「これこれこういうわけで、ここが面白いんだよ」とまで説明してあげないといけないこともあります。「だってこれはこうじゃない!」では、理解不可能なんですね。

あるいは、相手が冗談を言ってると判っても、うまい返し方を知らないこともあると思います。で、真面目に返すものだから、冗談通じてないなと思われてしまうとか。


このQ&Aを見た人がよく見るQ&A

人気Q&Aランキング

おすすめ情報