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旧分国名で
 上総・下総
 上野・下野
は上下に分割されていますが、これ以外の国々は前中後に分けられています。
 例 備前・備中・備後

私的には、下総国と下野国が常陸国に接していることやら、親王領ということで上総介・上野介は存在しても上総守・上野守は存在しなかった、ということに理由があるのではと想像しているのですが、なにか文献的・史的な根拠があるのでしょうか?
ご教授ください。

A 回答 (1件)

これらの旧国名の由来は当時の都、京から近いか遠いかにより付けられています。


京に近いほうから【上】【下】、【前】【中】【後】と付けられています。

つまり、【下野】より【上野】の方が、【越後】より【越前】の方が京に近いということになります。
ただ【上総】【下総】については地図上では【下総】の方が近いように見えますが、当時の交通として
船を使っていたため、交通的に【上総】の方が京に近いので逆転しています。

ご参考まで・・・

この回答への補足

ありがとうございました。

文献的にも『記・紀』でのヤマトタケルの行程が相模から浦賀水道を渡り上総に向かっていることや、伝教大師最澄の東国訪問が東山道経由であったことなど、行程的に京に近い側が上・前であることはご回答の通りに史的常識かとおもわれます。

しかしながら私の質問の趣旨は「上下と前後」の分割の根拠ではなく
  なぜ、総州と野州とだけが「上下」にわけられているのか?
  これは、常陸を含め上総・上野が親王領であったことに理由があるのか?
という点でした。

「上下」分割でも総州は南北分割で、野州は東西分割です。同様に「前後」分割でも豊州・肥州は南北で、越州・備州は東西です。(地図を見て国府の位置を確かめたわけではありませんが)

あらためてのご回答、よろしくお願いします。

補足日時:2006/02/18 22:45
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