偽物の小判と本物の小判を見た目で見分けるいい方法はないですか?

A 回答 (3件)

見た目で見分けられるようなら小判として使用できないでしょう。



金の純度が高いと柔らかいので噛んでみてその柔らかさで判別した話は見聞きしましたが、後世経済事情がわるくなり小判の改鋳が多く、金の純度が低下してこの方法も難しく成ったと思われます。
    • good
    • 1
この回答へのお礼

ありがとうございました。

お礼日時:2006/03/06 20:57

江戸時代ですが、小判自体の真贋鑑定は一般人はやりません。


切餅というものがありますけど、小判を25枚和紙で包んで封印したものがあります。
あれは表書きに幕府の責任者や両替商の印が書いてあり、それが信用になります。
包みのまま流通させれば、印を書いたものが中身の保証をしますから、偽小判を見抜けずに入れたり、枚数が足りなければ、保証をした人間が重い罰を受けます。
現在も博物館などにあるものは、開封すると価値がなくなりますから、中身の真贋は不明となります。
また、小判には同じく幕府の公刻印と両替商の私刻印が打ってあり、これが目安となります。
刻印のないものは保証がないと同じことですから、市井には流通しません。
この刻印である程度由来が分かりますし、当時の人はこれを信用していたようです。
    • good
    • 1
この回答へのお礼

大金は切り餅・包み金の形態で信用があるから偽小判が問題にならないということですね、どうもありがとうございました。

お礼日時:2006/03/06 21:02

幕府の役人でさえ、偽小判を使う者がいたそうで、真贋の判別は相当難しかったようです。

    当時不審なものは信用ある両替商か金座へ持参し鑑定して刻印して貰いました。    その方法は不明ですが、本物との比較しかないでしょう。    色、形状、重さでわからぬ時は、刻印の比較を熟練者がするしかでないでしょうか。     
    • good
    • 2
この回答へのお礼

当時もプロに依頼ですか、どうもありがとうございました。

お礼日時:2006/03/06 20:59

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!

このQ&Aを見た人はこんなQ&Aも見ています

このQ&Aを見た人が検索しているワード

このQ&Aと関連する良く見られている質問

Q小判のゴザ目幅

小判でゴザ目が詰んでるのは献上小判などを除くと慶長小判だけなんですか?

Aベストアンサー

小判では慶長だけのようです。

Qもしも小判流出がなかったなら

もしも幕末における小判流出がない、もしくはもっと早期に解決できていたら・・・ その後の歴史はどうなっていたでしょう?
たとえば、太平洋戦争以前に日本は経済的に「絹」以外の外貨獲得手段を得ることはできたでしょうか?
たとえば、日露戦争の戦費にあれ程苦しむことは無かったのかもしれません
金の保有量が紙幣の信用度を決した時代はつい40年ほど前まで続きました。
もしも小判の流出が無かったのなら?
歴史はどう変わっていたと思いますか?

Aベストアンサー

幕末における小判流出がそのあとの歴史にそれほど大きくかかわっているとは思えません。

というのは、江戸時代が終わり、明治時代に発布された「新貨条例」で日本のお金の単位制度が大きく変わったからです。

太平洋戦争で日本の経済が苦しくなるのは、やはり戦争には莫大なお金がかかる上に、これまでずっと頼りにしてきた列国がABCDラインを行って、日本に対し経済封鎖を行ったことや日米通商航海条約・日英通商航海条約の廃棄などが一番の原因だと僕は思います。

日露戦争のころの日本の財政の悪さについては、そもそも「戊辰戦争」や「西南戦争」がその前に起こっていたことが原因です。あの明治における二大戦争の結果、明治政府はお金にとても困りました。なぜなら、当時の明治政府の財政基盤はその前身の江戸幕府の財政を引き継いでいたからです。江戸幕府の財政基盤はお金ではなく、お米。新しい時代にはお米はお金の価値としては役に立ちません。そこでそれの対策として地租改正や不換紙幣を発布したりしたのですが、結局うまくはいきませんでした。
ですがそのあと「日清戦争」がありましたよね?あれで日本は莫大な賠償金(2億両=今の価値で言うとと何兆円とか)を手に入れることができたのですから、財政は潤ったはずです。日露戦争直前に山県有朋が厳しい徴税を行ったのは、その当時臥薪嘗胆という言葉も流行ったようにロシアに対し大きな反発があったからだと思います。なぜそんなにもロシアに対して反発が強かったのかというと、「日清戦争」でせっかく手に入れた「遼東半島」をロシアによる「三国干渉」で邪魔されたから。だから、あの当時は日本全体がロシアと戦争することに対してどちらかというと賛成的だったと思うんです。もちろん、社会主義者や一部の人などは戦争に反対していましたが・・・(「君死にたもふことなかれ」で有名な与謝野晶子は思いっきり反対していますしね。)

もし小判流出がなかったら・・・そうですね・・・攘夷運動があそこまで過激にはなってなかったと思います。というのは、小判が流出することによって貨幣鋳造を行い、金の含有量を減らしたことが原因で、当時物価がめちゃくちゃ上がりました。その物価の急騰が貧しい武士などの反感を買ったのです。じゃあ、その物価の急騰は誰が原因だろう?幕府?いや、外国のやつらだ!あいつらがいるから、物価がめちゃくちゃ高くなっている!だからあいつらを日本から追い出そう!といって始まったのが、攘夷運動です。だから、小判がもし流出していなかったら物価は安定していたわけですから、あそこまで反感を買うことはなかったのではないでしょうか?
とはいっても、そのほかにもいろいろな理由があります。たとえば、アヘン戦争に負けた清国がイギリスの植民地になってひどいことになっている。日本も同じようなことになるのではないか?それを避けるためには、日本をもっと外国と渡り合える強い国にしなくては!といって立ち上がったのが「坂本竜馬」とか「高杉晋作」です。だから、一概になんともいえません。

というのが、僕の持論です。

幕末における小判流出がそのあとの歴史にそれほど大きくかかわっているとは思えません。

というのは、江戸時代が終わり、明治時代に発布された「新貨条例」で日本のお金の単位制度が大きく変わったからです。

太平洋戦争で日本の経済が苦しくなるのは、やはり戦争には莫大なお金がかかる上に、これまでずっと頼りにしてきた列国がABCDラインを行って、日本に対し経済封鎖を行ったことや日米通商航海条約・日英通商航海条約の廃棄などが一番の原因だと僕は思います。

日露戦争のころの日本の財政の悪さについて...続きを読む

Q井原西鶴 武家義理物語の小判の話

井原西鶴の武家義理物語の小判の話の内容について教えてください。今アメリカに住んでいて井原西鶴の武家義理物語が手に入らないので、困っています。読んだことがある方、できるだけ詳しく小判の話について教えてください。どうやらその話は、、。武士が集まって小判の見せ合いをしていたら、小判が無くなってしまった。他の人が疑われてはいけないと泥棒をかばって自分の小判を置いていったら小判がが増えてしまった。つまり皆が同じことを考え、小判を置いていったから。その後無くなった小判がでてきて小判を出した人は持ち帰るようにと指示するのだが、誰一人とも出した小判を持ち帰らなかった。どんな集まりだったんですか?どんなところで行われたんですか?いつの話ですか?詳しい描写を教えてください。

Aベストアンサー

 No.1です。

 朝、出かける前にあわただしく書き込んだのですが、どうも気になったので確かめてみました。

 まず、お尋ねの小判の話は『武家義理物語』には、含まれていません。小学館『新編日本古典文学全集』版で確認しました。

 該当の話は『西鶴諸国ばなし』巻一の「大晦日(おほつごもり)はあはぬ算用」です。N.1の参考URLにあげた太宰の『新釈諸国噺』の「目次」にも、「貧の意地」の出典は「諸国はなし」になってますね。

 原話が比較的簡潔な描写なのに対して、「貧の意地」は太宰が細部をふくらませて長めの話になっていて、脚色されてはいますが、話の展開はほぼ同じです。

 したがいまして、「諸国ばなし 小判」で検索なさってくださいませ。

 次のURLで読めるようです。

http://inkas.or.tv/koten/ofo1.htm

参考URL:http://inkas.or.tv/koten/ofo1.htm

Q小判の金焼け

小判で言われる金焼けとはどう言うことですか?金色が薄らいでると言う事ですか?

Aベストアンサー

「金焼け」とは、金製品の色調が経年変化することです。どのような色に変化するかは、金以外の混合物の種類や割合によって異なります。

小判表面の金の純度は、色揚げによって100%近くまで上っていますが、それでも若干の銀が残っています。この銀が空気中の物質(主として硫化物)と反応し、黒色に変化します。したがって小判の表面には、ややくすんだ、ぼけたような色調の部分が生じます。

小判の金焼けは、時代の風情を感じさせるものですが、金焼けが進むと金貨としての価値を損ねますので、空気を遮断した密閉ケースに保管することが必要です。

Q天保小判

小判で比較的重さの軽い天保小判などは他の重い小判と比較すると厚さは薄いのでしょうか?まあ大きさが違うと言うのもあるのですがあまり小判を比較検討したことがないものでご存知の方お願いします。

Aベストアンサー

小判の厚さには興味がありますが、不勉強のせいか書かれたものは、見当たりません。     やむをえずデータで見ると、天保小判と宝永小判がほぼ同じ大きさで、分析金位がそれぞれ、56.8と83.4なのですが、重さはそれぞれ11.3グラムと9.4グラムです。    金の純含量を宝永小判に近付けるため、天保小判は総重量を増やしたわけです。       No.1さんの書かれたように軽い銀の含量を上げ、総重量も増したので天保小判はかなり厚みを増したといえます。        現物でお確かめ下さい。

追記    先日のゴザ目の件、V字たがねと、U字たがね両方が使われるとの確かな記載が見つかりました。  

Q東条英機はなぜ英雄なんでしょう?見た目も首相になり

東条英機はなぜ英雄なんでしょう?見た目も首相になり、実権を握り、天皇陛下万歳と全国民市民を戦争に熱狂させ、ちょびヒゲを生やし、完全にナチスドイツのアドルフ・ヒトラーと同じ風貌と戦略でしたというかナチスドイツを崇拝し、後追いでパクってる感がひしひしと感じますが、なぜ彼が日本の英雄なんですか?

Aベストアンサー

 皆さんおっしゃる通り、日本人で東条英機を英雄視している人は極めて少ないです。これまで「日本人の選ぶ偉人ランキング」でも100位以内に入ったことも一度もないはずですし。
 日近的日本人の東条観は「日本を敗戦に導いた官僚」程度のものでしょう。少なくとも積極的評価をする人はまずいないと思います。

 日本人が搭乗英機を英雄視している、なんてのは中国と韓国の方特有の妄想に近いものだと思いますよ。

Q小判の価値は?

昔、貨幣として金や銀を原料とした小判を使っていましたよね。

当時の小判の価値ですが、今の円に換算すると一枚いくらくらいだったのでしょうか?

もちろん小判にも種類があると思いますが、適当に例を挙げていただければと。

また同時に、当時の金銀の価値はどの程度だったのでしょうか?

金銀の価値=小判の額面

でなければ、勝手にお金を作る、もしくは勝手に小判を溶かし金銀として売ってしまう人が続出しまうと思うのですが、当時はどうだったのでしょう?

Aベストアンサー

>当時の小判の価値ですが、今の円に換算すると一枚いくらくらいだったのでしょうか?
換算するときに何を基準にするのかで変わります。
お米の値段を使うか、他のものを使うのかで変わってきます。
時代小説ファンの方達は1両=10万円とすることが多いですが、昭和40年代ごろになんとなく流布した見方です。
お米の値段は、現在は政府の統制があり、あまり当てにならないというのが現在の考え方です。
まぁ~かけ蕎麦の値段などが、生活感としてはいいのかな、と思っています。
かけ蕎麦=16文 1両=4000文~6000文 これでいくと、1両=25万円~30万円 となりますがいかがでしょうか

>もちろん小判にも種類があると思いますが、適当に例を挙げていただければと。
小判の種類に関わらず1枚=1両です。
現在の貨幣と同じ考え方です。

>また同時に、当時の金銀の価値はどの程度だったのでしょうか?
江戸では、幕府が決めた通貨が主として使われていましたが、大阪では銀の固まりを通貨として主に使っていました。
この銀の固まりは重さで表示されていました。
大阪で「ぜに○○もん」と言ったときと江戸の人が「ぜに○○もん」と言ったときでは内容が違います。
大阪の人の「もん」は匁(もんめ)で江戸の人は「文」です。
これは歌舞伎でも起きています。元禄時代につくられたものは「匁」の方を使っていすが、江戸歌舞伎では「文」を使っています。
この銀の固まりを小判や銭に交換する相場市がありました。(現在の外国為替市場とほぼ同じです)
両替商と呼ばれる人達は、この相場の変化で利益を上げていました。
相場ですから、毎日変わっていました。
平均の例としては
1606年 1両=72匁6分~75匁
1621年 1両=57匁5分~63匁
1841年 1両=62匁5分
1863年 1両=85匁9分
御存知の通り小判の金の含有量は時代ともの減っていますので、それだけ金の地金は値上がりしていました。

ここでもっとやっかいなのが、銭と小判との両替も相場だったということです。
今で言えば、1円玉と1万円札を交換するのが、その日の相場で決められていたということです。
現在のドルと円との交換と同じように考えて下さい。
平均
1688年~1703年(元禄時代) 1両=4000文前後
1700年~1820年         1両=4500文前後
1820年~1865年         1両=6500文前後
注:1000文を1貫と呼びました。(重さの単位と同じ言葉が使われているので、ややこしいです)

庶民が小判を手にすることはまずありませんでした。
現在でも10万円札など出てきたら、日常生活には不便で使えません。
庶民は全国共通で銭(文)を使っていました。
全国を横断する大口の取引には小判を使いました。
つまり、銀は大阪(関西)の地域通貨です。人の交流に従って江戸へ流れ込みました。

参考
1両=4分……幕府が始まったときには 1両=4000文と決めました。
1分=4朱
通貨としては1文銭 4文銭 1朱、2朱 1分 1両 丁銀 小玉銀(こつぶ)です。

(天保銭などというのが出てきたのは幕末です)

>勝手にお金を作る、もしくは勝手に小判を溶かし金銀として売ってしまう人が続出しまうと思うのですが、当時はどうだったのでしょう?
いました、いました。
作っても、使っても、持っていても、捕まれば即刻首を切られました。(いまのような裁判もへちまもありません)
贋金造りは、何時の時代、何処の国でもやっていました。

とにかくややこしい通貨制度です。
江戸時代の人が算盤が上手いわけです。
読み、書き、算盤が必修だったのも良く解ります。

>当時の小判の価値ですが、今の円に換算すると一枚いくらくらいだったのでしょうか?
換算するときに何を基準にするのかで変わります。
お米の値段を使うか、他のものを使うのかで変わってきます。
時代小説ファンの方達は1両=10万円とすることが多いですが、昭和40年代ごろになんとなく流布した見方です。
お米の値段は、現在は政府の統制があり、あまり当てにならないというのが現在の考え方です。
まぁ~かけ蕎麦の値段などが、生活感としてはいいのかな、と思っています。
かけ蕎麦=16文 1両=40...続きを読む

Q小判の光次

小判の刻印にある「光次」は何て読むか分かってるのですか?ミツツグ?

Aベストアンサー

金座の責任者である後藤庄三郎光次の名と、花押ですね。
さて、読み方ですが・・・
次はおそらく「ツグ」でよいと思うのですが光のほうが問題でして「アキ」「アリ」「ミツ」「カネ」など、いろいろと考えられます。

で、辞典で調べてみると後藤庄三郎光次は「ゴトウショウザブロウミツツグ」となっていますので、ミツツグであっているものと思われます。

参考URL:http://www.imes.boj.or.jp/cm/htmls/history_11.htm

Q偽物小判

偽物の小判と本物の小判を見た目で見分けるいい方法はないですか?

Aベストアンサー

見た目で見分けられるようなら小判として使用できないでしょう。

金の純度が高いと柔らかいので噛んでみてその柔らかさで判別した話は見聞きしましたが、後世経済事情がわるくなり小判の改鋳が多く、金の純度が低下してこの方法も難しく成ったと思われます。

Q小判の時代判別

小判で裏に「文」とあると文政か元文、ではそれをどちらかと決める大きなポイントは何ですか?裏の銀座、吹き上げ棟梁の刻印ですか?

Aベストアンサー

小判の種類は裏面の極印でわかります。
元文と文政では字体が異なります。
元文のほうは文の字がはっきりしており、文政はくずした文の字です。


人気Q&Aランキング

おすすめ情報