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中国文明にしても南米文明にしても古代にはいけにえという儀式が盛んに行われていましたが、これはどういうことなのでしょうか。死にたくないとか殺されたくないというのは現在と余り変りがなかったと思うのですが、どうも古代文明に共通なことのようなので、不思議に思いました。この質問は歴史というより哲学とか心理学の問題であろうと思ってここに質問を投稿しました。よろしくお願いいたします。

A 回答 (15件中1~10件)

 フレーザー著 金枝篇 という本が 翻訳されて岩波あたりから出ているはずです。

ご一読をお薦めします。プラスになるかマイナスになるかは解りませんが貴方にとって思想構築の手助けになるかもしれません。
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この回答へのお礼

この本のことは全く知りませんでしたので早速調べてみたいと思います。ご教示有難うございました。

お礼日時:2006/03/25 06:51

難しいテーマですね……


魔術で説明するなら人知及び操作不可能な絶対不変の事柄を改変するための代償。と言った所かと思います。
大抵の古代文明でもサクリファイス(神への生贄)を行うのは天候操作、因果律操作、死者蘇生等と言った人の手には余る事柄を行おうとしているものが多々あり、そしてそれらの儀式では必ず供物。もしくはサクリファイスが行われているのであながち間違いではないかと。
そして、ここで供物と神への生贄を二つの単語で区別したのは、全くの別物ではないかと考えたからです。
簡潔に言えばおまじない程度の事では供物。
因果律操作に始まる不変への改革には人といった風なのではないかと考えます。
……偉そうに書いてますがあくまで想像です。
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この回答へのお礼

原因と結果の逆転のようなことでしょうか。いけにえをささげた人の真情はそれにしてもなかなか想像できません。二つに分けて考えることを追試してみたいと思います。ご教示有難うございました。

お礼日時:2006/03/25 06:56

#2さんの仰るような区別もあったかもしれません。

ただしそれはかなり文明が進んでからではないでしょうか。
 犠牲が始まった頃、はっきりと動物などの犠牲と人間のそれは区別されていなかったでしょう。ここで犠牲にされる「人間」は他部族や他民族の「人間」、とりわけ戦争捕虜や略奪による捕虜でしょう。この時点ではそもそも人類とか同じ人間、なんていう思想がありません。人間はしばしば「自分たち」と「自分たち以外」に外界を区別するものですが、この自分たちの範囲は歴史的に見て(一部の宗教家を除いて)徐々に拡大してきています。氏族から部族へ、部族から民族へ、民族から国家へ、国家から・・・・人類というように。ですから、当初は自分たち以外の中から犠牲を選んで神に捧げていたわけです。
(あまり小さい集団だと自分たちの中から犠牲を選んだら集団そのものの危機につながりますから)
で、ある程度大きい集団とある程度の社会組織・宗教組織が生まれてきた後で、自己の集団の中から犠牲を選ぶ、あるいは自己犠牲といった思想が生まれてきたのでしょう。より貴重なものを捧げることでより大きな効果を期待したわけですが、後世そういうのがある程度習慣になったあとならともかく、最初は占いや神官による指名(同じ事ですが)によったものでしょう。呪術の犠牲は呪術者が選ばないと効果はありませんからね。
で、そういう事が繰り返されるうちに「犠牲になるのはすばらしい、立派だ」という思想・教義が作られるわけです。それを信じてしまったか、あるいは少なくとも信じざるを得なかったか、信じてなくても逃げる事が不可能だったか・・・・太平洋戦争中の「特攻」なんていうのを考えるとそう思ってしまうのですが。
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この回答へのお礼

ご教示を読ませていただいて、いけにえをささげるほうもいけにえに去れる方も自分が神になったような錯覚を持てるからかと思いました。反芻して考えてみたいと思いました。どうもありがとうございました。

お礼日時:2006/03/25 07:00

自分も以前メキシコに行ったときに、生贄に興味を持ちました。



アステカ文明では生贄は「太陽が毎日きちんと昇るように」と捧げられていたようですね。アステカでは生贄のための捕虜が不足してくると捕虜獲得に戦争を起こしたりしていたようですね。

マヤ文明のチチェン・イツァーに行った時は、球戯場のレリーフにある「名誉の生贄」が興味深かったです。球技に勝ったチームのリーダーが生贄になるという、「生贄になることがステータス」だったんでしょう。チチェンではその他にも、似たような名誉の生贄や性器カットなどが行われていたようですね。その他、日照りが続くと泉に少女を沈めたりしたようですね。

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後はすべて自分の想像です。南米のような生贄は宗教観に基くものです。現在の人類は「太陽はなぜ昇るのか?」「日食はなぜ起きるのか?」「彗星は?」「旱魃は?」「洪水は?」「インフルエンザは?」と言う自然現象や人為現象の問いに対して、物理・化学・生物学的に答えます。でも昔はよくわからないことは「神または何かの大きな力」の意思だと考えたんじゃないでしょうか?

その神の怒りを静めるため、または神がずっと国を守り続けてくれるためには、価値のあるものをあげないといけません。神に雨を降らせてもらいたいのに、壊れて使えなくなったお皿なんかあげたら、余計に怒られて大変なことになります。
そこで「価値のあるものってなんだろう?」と考えた結果が、人の心臓であり、目であり、血であり、性器だったんじゃないでしょうか?

他にもいろんなタイプの生贄があるかもしれません。例えば王の埋葬と共に死後の世話をする奴隷も埋めるというのは、また少し違ったタイプの生贄でしょう。でも「神に価値のあるものをあげる。その価値のあるものが人の命だった」というのが、一つの典型的な理由のような気がします。
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この回答へのお礼

ご教示を読んで神が抱く嫉妬による被害の回避を願ったというようなことはなかったかとを考えました。ありがとうございました。

お礼日時:2006/03/25 07:04

生贄とは


生きている贄(ささげもの)ですね。

生贄=人間という訳ではありません。
家畜等も含めれば生贄をささげる儀式は世界中にあります。

日本にも人柱というものがあります。

動物でなく人を捧げるのは、大自然など未知なるモノ(=神?)に、
自分達の言葉を届けてもらうメッセンジャーをかねるという事もあるのではないでしょうか?

「死にたくない殺されたくない」あったと思いますよ。

だから、生贄は幼児であったり、
何某かの名誉を与えられて生贄になるのはすごい事なんだと思わせたり、
同朋を殺すのに忍びない時は捕虜を生贄にしたりした訳です。

生贄ではありませんが、日本人で一番身近な贄は賽銭でしょうか・・・・・・
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この回答へのお礼

個人的な儀式でもいけにえ的なものはあるのでしょうか。色々と教えていただきました。有難うございました。

お礼日時:2006/03/25 07:07

人命を軽視していたという文脈で捉えてしまいそうになりますが、むしろ“生贄”を、気象変動のような人智を超えた領域を統べる“神”に捧げるほどの価値がある存在だと考えていたと認識すべきなのでしょう。

交換価値の高い家畜や奴隷の生命、場合によっては高い地位の人間の血や手足といった肉体の一部、もしくは生命を捧げることもありました。

貨幣システムはまだありません。今なら高額の寄付をするところでしょう。現代の科学的因果関係の知識を持たない時代のことです。なぜこんなに長期間雨が降らないのかということに対し、それだけのコストを払う意味があると信じていたのです。また、人権思想もなく、他の価値と人命は比較・交換が可能でした。ある意味、人命のみを絶対化せず、他と平等に扱っていたとも言えます。

社会学的な視点で私は理解可能だと思っています。
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この回答へのお礼

自分なりに反芻させていただきます。ありがとうございます。

お礼日時:2006/03/25 07:11

「生贄」は神への捧げ物でしょうが、神とは自然の摂理そのものと言えるように思います。


自然はあくまで純粋な科学的反応の結果にすぎないはずですが、人智の及ばないものであることは今も昔も大差は無いような気がします。

この「人智の及ばない」ことが神たる所以ではありますが、そこを人は恐れると同時に、人智の及ばない解決方法も持っているはずだと考えたのだろうと思います。
科学が発達していなかった古代においては、その度合が高かったということではないでしょうか。
「人智の及ばない解決方法」を得るためには、「人智を超えた捧げ物」が必要だ、という考えに至っても不思議ではないかもしれません。

人智を超えた最たるものは「死」と言えるでしょう。
無知な人間が神の恩恵(あるいは力)を得るために、闇雲に編み出したなりふり構わぬ生きるための智恵だったように思います。
ただ、程度の差こそあれ現代においても尾てい骨のようにその名残は残っていて、時折(実は常にかもしれませんが)似たような捧げ物を神は享受しているような気もします。
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この回答へのお礼

含蓄のあるご教示だと思いました。ありがとうございました。

お礼日時:2006/03/25 07:13

プレゼントですよ。

価値交換です。

カワセミのオスはメスに小魚を獲ってあげて、ご丁寧にも骨を砕いてプレゼントします。
男が求愛しようとすれば、相手に指輪や他のいろんなものをプレゼントします。
男が結婚しようとすれば、結納と称して相手の両親へ金品をプレゼントします。
金印の見返りに、倭の奴国王は奴隷160人を漢王にプレゼントしました。
国会や会社でもめごとがおきれば、腹心や若手のクビをプレゼントします。
学校や政治家のセンセイにせっせとプレゼントする人もいます。
日本他(キリスト教以外)の多くの神様や仏様には酒や米、お土産の饅頭などをプレゼントします。
2月14日になれば、女は身近な男たちに「お世話になってます」といってチョコをプレゼントします。
12月になれば24日までに、みんながみんなをちょっとだけ幸せにしたくていろんなプレゼントをします。
……等々キリがありません。

人間に限らず、この世はプレゼントの行為に満ちている気がします。なぜでしょう?

いろんな意味があると思われますが、カワセミ他、交尾のために巣をプレゼントする魚や鳥の例から考えると、利己的行為を保障する利他的なコストという面があることは明らかです。

家族、求愛対象、上司、地域有力者、王、神とエスカレートしていけばプレゼントもエスカレートしていくのは道理でしょう。望みが大きければそれだけコストも嵩みます。

プレゼント対象について、身近な人から神までの間に特別な境界はなさそうです。地鎮祭で酒を土地に撒いてプレゼントするのも、人柱を差し出すのも、根本的違いはないのです。
コストをかければかけるほど、より困難な問題を克服し、より高い願望はかなえられると考える。とてもありがちなことです。
自分の利他的な行動には見返りが欲しい、いうことは、逆の場合、相手も見返りを求めているにだろう、たとえそれが神であっても何かを欲しているに違いない、という思考だと思われます。

現代において、黒部ダムなみの難工事にあたっても、生きた人間を穴に埋めて工事の無事を祈ろうと考える人はまずいません。科学によってそれだけのコストをかける価値がないことを知ったから、というだけのことです。

参考URL:http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4167138 …
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この回答へのお礼

プレゼントが無駄になったということも多かったと思いますが、それを権力によって続行させていたのでしょうか。ご教示に感謝いたします。

お礼日時:2006/03/25 07:15

難しい問題ですが、「生贄は(超越者への)プレゼントである」というような捉え方と比べてみると、少しはその意義がはっきりしてくるのではないでしょうか。



プレゼントがプレゼントであるためには、相手が生贄を価値あるものとして「消費」することが肝心です。少なくとも、送り手の側がそう納得していなければならないでしょう。しかし、いろいろな生贄のありようを見ると、どうも生贄は先方に「消費」されることよりも、生贄が「破壊」されることに意義があるらしいのです。

バタイユという思想家は、「生贄とは有用な富の総体から取り除かれる一種の剰余である。そしてそれは利得なしに蕩尽されるためにしか、従って永久に破壊されるためにしかそこから抽出されない」と書いています(『呪われた部分』)。
生贄の目的とは、社会の富を何の役にも立たないことに無駄づかいすることだ、というのです。

例えば、古代中国の儒家で行われた生贄儀礼では、祭主自らが犠牲獣をしてそれを神前に供えたのですが、生贄の全体ではなく血と毛だけを供えれば足りたといいます。これは、毛によってどんな色のどんな動物が殺されたのかがわかり、また生き血によって、生きていた動物がわざわざ神のために殺されたことを示せるから、だったそうです。つまり、ここでは明らかに、神の消費のためではなく、犠牲獣が殺されること、そしてそれを神に見せるという、一見すると無駄でしかない儀礼にウェイトがおかれているのです。

こういったことはおそらく古代ユダヤでも共通していたでしょう。捧げられるのが血だけであるという場合も多かったようですし、血を抜いたあとの肉を食べる儀礼も、あまり重要なものとはされていません。まさに破壊こそが生贄の供犠の核心なのです。

牛や羊といった重要な財産である家畜を、他の目的ではなくて神のためだけに殺す。それを「神の意向に沿って行うこと」と観念することによって初めて、人は自分たちが自分たちのために家畜を処分することを許されると考えたのでしょう。大いなる富が、神のためだけに浪費されることが肝要だったのです。
つまり生贄は、神が所望するご馳走となるべく殺されるのではなく、まさに殺されるために、もっと言えば破壊を見せつけるためにこそ殺されるのだ、ということです。

このような生贄は、牧畜を生業とする地域で古来から見られるものです。
これに対して、共同体の秩序を守るための生贄というものもあります。ムラや地域のなかで不安定要因と考えられたもの、例えば宗教的なケガレなどを担わされた、いわばスケープゴートとしての人間や動物が破壊されることによって、ケガレを象徴的に外部に追い出し、共同体内部を守ろうとするものです。(民俗学の分野では赤坂憲雄がこういう分析をしていることで知られています)

ほかにも色々書かないといけないと思いますが、ここまでにしておきます。いずれにしても、生贄はなかなか一口の分析を許さない、難しくも面白い事象だと思います。わかりやすい説明でわかった気にならないことが大事ではないか(笑)と思います。何かのレポートならば、参考文献をご紹介します。
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この回答へのお礼

中身の濃いご教示を有難うございます。生贄にもいくつかの異なる意味があるのでしょうか。私は人間の存在理由を知りたいという欲求と関係はないだろうかなどと考えたのですが・・・

お礼日時:2006/03/26 06:40

個人的な勝手な想像です。


素人の戯言ですが聞いて下さい。

 古代洪水や天災により多くの人が死んだとき人々は神が多くの命を欲していると感じたのではないでしょうか?そしてそれが毎年のように起こるとしたら?

 神の怒り?欲求?を何とか少なくする為には 予め命を捧げて満足してもらおうとしたのではないかな。
例えば川が氾濫する時期の前に生贄を捧げて、もう人は死にましただから全滅だけは勘弁してって。

 だから生贄になる人も自分が仲間の変わりに死んで多くの仲間が助かるならこんな良いことは無いと思って名誉の生贄なんてものがあるのではないでしょうか

 多分とても簡単に多くの人が死んでしまうので生贄になる人もどうせ自分も死ぬんだろうから先に死ぬことによって本当に被害が小さくなるならと言うあきらめもあったんで無いでしょうか?

 んで以って自然現象だから当然小規模なときもあって するってえと やっぱ先に人が死んでおいたのが効いたんだなんていう奴が出てきて、被害が大きいと やっぱ生贄が足りないんだ見たいな・・・・

 最初は動物だったところも人になったり段々エスカレートして人数が増えてきたり、挙句の果ては自分たちの集落だけでは足らなくなって、違う集落から連れてきたり違う集落丸ごと全部とか・・・・

 古代人たちが天災をを恐れていたことは想像に容易いので収まるべくして収まった氾濫も生贄のお陰だなんて話は広まるのも早く皆真似したのではないでしょうか?

 逆の話で諸葛亮孔明が人の変わりに万頭を生贄として河に捧げ生贄の風習をなくさせたって話もあるし。

 それも孔明の偉大さが薄れた頃に土地の権力者か何かが被害が大きい時に やっぱり生きた人間じゃなきゃダメだとか言ってその年被害が少なかったら又元に戻るのではないでしょうか。

 人間は弱い生き物で 自然を恐れ戦いを恐れ死ぬのが怖いからこそ生贄を捧げたのでは無いでしょうか。

 生贄が減ってきたのは自然現象が解明されそんなことをしてもしなくても結果は変わらないと解ってきたからで他に理由なんて無いと思います。
 
 逆にどっかのオカルト集団では現在でも生贄はあるんではないでしょうか?今の科学では説明できないことに関しては今でも人間は臆病でそして残酷なものだと思います。
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この回答へのお礼

説得力のあるご意見であると思いました。根底では人間が存在するということに不安を持っていることに繋がるかなと思いました。

お礼日時:2006/03/26 08:12

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