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中国文明にしても南米文明にしても古代にはいけにえという儀式が盛んに行われていましたが、これはどういうことなのでしょうか。死にたくないとか殺されたくないというのは現在と余り変りがなかったと思うのですが、どうも古代文明に共通なことのようなので、不思議に思いました。この質問は歴史というより哲学とか心理学の問題であろうと思ってここに質問を投稿しました。よろしくお願いいたします。

A 回答 (15件中11~15件)

生贄とは


生きている贄(ささげもの)ですね。

生贄=人間という訳ではありません。
家畜等も含めれば生贄をささげる儀式は世界中にあります。

日本にも人柱というものがあります。

動物でなく人を捧げるのは、大自然など未知なるモノ(=神?)に、
自分達の言葉を届けてもらうメッセンジャーをかねるという事もあるのではないでしょうか?

「死にたくない殺されたくない」あったと思いますよ。

だから、生贄は幼児であったり、
何某かの名誉を与えられて生贄になるのはすごい事なんだと思わせたり、
同朋を殺すのに忍びない時は捕虜を生贄にしたりした訳です。

生贄ではありませんが、日本人で一番身近な贄は賽銭でしょうか・・・・・・
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この回答へのお礼

個人的な儀式でもいけにえ的なものはあるのでしょうか。色々と教えていただきました。有難うございました。

お礼日時:2006/03/25 07:07

自分も以前メキシコに行ったときに、生贄に興味を持ちました。



アステカ文明では生贄は「太陽が毎日きちんと昇るように」と捧げられていたようですね。アステカでは生贄のための捕虜が不足してくると捕虜獲得に戦争を起こしたりしていたようですね。

マヤ文明のチチェン・イツァーに行った時は、球戯場のレリーフにある「名誉の生贄」が興味深かったです。球技に勝ったチームのリーダーが生贄になるという、「生贄になることがステータス」だったんでしょう。チチェンではその他にも、似たような名誉の生贄や性器カットなどが行われていたようですね。その他、日照りが続くと泉に少女を沈めたりしたようですね。

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後はすべて自分の想像です。南米のような生贄は宗教観に基くものです。現在の人類は「太陽はなぜ昇るのか?」「日食はなぜ起きるのか?」「彗星は?」「旱魃は?」「洪水は?」「インフルエンザは?」と言う自然現象や人為現象の問いに対して、物理・化学・生物学的に答えます。でも昔はよくわからないことは「神または何かの大きな力」の意思だと考えたんじゃないでしょうか?

その神の怒りを静めるため、または神がずっと国を守り続けてくれるためには、価値のあるものをあげないといけません。神に雨を降らせてもらいたいのに、壊れて使えなくなったお皿なんかあげたら、余計に怒られて大変なことになります。
そこで「価値のあるものってなんだろう?」と考えた結果が、人の心臓であり、目であり、血であり、性器だったんじゃないでしょうか?

他にもいろんなタイプの生贄があるかもしれません。例えば王の埋葬と共に死後の世話をする奴隷も埋めるというのは、また少し違ったタイプの生贄でしょう。でも「神に価値のあるものをあげる。その価値のあるものが人の命だった」というのが、一つの典型的な理由のような気がします。
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この回答へのお礼

ご教示を読んで神が抱く嫉妬による被害の回避を願ったというようなことはなかったかとを考えました。ありがとうございました。

お礼日時:2006/03/25 07:04

#2さんの仰るような区別もあったかもしれません。

ただしそれはかなり文明が進んでからではないでしょうか。
 犠牲が始まった頃、はっきりと動物などの犠牲と人間のそれは区別されていなかったでしょう。ここで犠牲にされる「人間」は他部族や他民族の「人間」、とりわけ戦争捕虜や略奪による捕虜でしょう。この時点ではそもそも人類とか同じ人間、なんていう思想がありません。人間はしばしば「自分たち」と「自分たち以外」に外界を区別するものですが、この自分たちの範囲は歴史的に見て(一部の宗教家を除いて)徐々に拡大してきています。氏族から部族へ、部族から民族へ、民族から国家へ、国家から・・・・人類というように。ですから、当初は自分たち以外の中から犠牲を選んで神に捧げていたわけです。
(あまり小さい集団だと自分たちの中から犠牲を選んだら集団そのものの危機につながりますから)
で、ある程度大きい集団とある程度の社会組織・宗教組織が生まれてきた後で、自己の集団の中から犠牲を選ぶ、あるいは自己犠牲といった思想が生まれてきたのでしょう。より貴重なものを捧げることでより大きな効果を期待したわけですが、後世そういうのがある程度習慣になったあとならともかく、最初は占いや神官による指名(同じ事ですが)によったものでしょう。呪術の犠牲は呪術者が選ばないと効果はありませんからね。
で、そういう事が繰り返されるうちに「犠牲になるのはすばらしい、立派だ」という思想・教義が作られるわけです。それを信じてしまったか、あるいは少なくとも信じざるを得なかったか、信じてなくても逃げる事が不可能だったか・・・・太平洋戦争中の「特攻」なんていうのを考えるとそう思ってしまうのですが。
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この回答へのお礼

ご教示を読ませていただいて、いけにえをささげるほうもいけにえに去れる方も自分が神になったような錯覚を持てるからかと思いました。反芻して考えてみたいと思いました。どうもありがとうございました。

お礼日時:2006/03/25 07:00

難しいテーマですね……


魔術で説明するなら人知及び操作不可能な絶対不変の事柄を改変するための代償。と言った所かと思います。
大抵の古代文明でもサクリファイス(神への生贄)を行うのは天候操作、因果律操作、死者蘇生等と言った人の手には余る事柄を行おうとしているものが多々あり、そしてそれらの儀式では必ず供物。もしくはサクリファイスが行われているのであながち間違いではないかと。
そして、ここで供物と神への生贄を二つの単語で区別したのは、全くの別物ではないかと考えたからです。
簡潔に言えばおまじない程度の事では供物。
因果律操作に始まる不変への改革には人といった風なのではないかと考えます。
……偉そうに書いてますがあくまで想像です。
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この回答へのお礼

原因と結果の逆転のようなことでしょうか。いけにえをささげた人の真情はそれにしてもなかなか想像できません。二つに分けて考えることを追試してみたいと思います。ご教示有難うございました。

お礼日時:2006/03/25 06:56

 フレーザー著 金枝篇 という本が 翻訳されて岩波あたりから出ているはずです。

ご一読をお薦めします。プラスになるかマイナスになるかは解りませんが貴方にとって思想構築の手助けになるかもしれません。
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この回答へのお礼

この本のことは全く知りませんでしたので早速調べてみたいと思います。ご教示有難うございました。

お礼日時:2006/03/25 06:51

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