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無口な人って存在してはいけないのでしょうか。自分はとても無口です。いわゆる内向型人間です。たくさんの人と接することはなく、少人数の人と仲良くなるスタイルで生きてきました。

もちろん無口だからといって、暗いわけではないです。楽しいことも考えるし、冗談も言います。仲良くなった友達とはエンジョイします。

でも、中学くらいからあることを思うようになりました。それは、世の中ではよくしゃべる外交的な人間ばかりが受け入れられるということです。小学校の頃なんかは「友達100人できるかな」なんて歌わされました。そういう価値観を押し付けられて、自分みたいな無口な人間は必要ないのかと思いました。社会は外交的で、社交的で、話が良くでき、とっても明るい人が生きやすいようになってます。友達たくさん作りなさい。元気にあそびなさい。社交的になりなさい。たくさんおしゃべりできるようになりなさい。外交的になりなさい。もっと目立ちなさい。もっと活発になりなさい。というような教えを延々と受けてきました。

そこで、こう思いました。そうなれない無口で内向型の自分は、社会的に邪魔なのかと。無口は無口なりに楽しく生きてきたのに、今は存在を否定されてるようで、なんだか生きるのに苦労します。

社会に出ても無口ですいません、社交的になれなくてすいません、おしゃべりできなくてすいません、と常に心の中で謝ってます。こんな自分で、どう生きたらいいのかと不安になることもあります。

無口な人間の存在について教えてください。生き方とか存在理由とか。何でも思いつくことでいいので、お願いします。
ここまで読んでくださって感謝します。

A 回答 (15件中1~10件)

教育が偏っているだけです。

北朝鮮と同じですね。国を相手に告訴しましょう。
昔は『口は災いの元』とか『沈黙は金なり』とか教えられ、『出しゃばり』『目立ちたがり屋』『おしゃべり』などは嫌われました。テレビCMでも『男は黙ってサ☆ポロビール』など無口で落ち着いた人が評価されるそんな社会背景でした。
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何か他人よりも、抜きん出たものを身につけてみてください。


そうすれば、勝手に周りに人が集まってくると思います。
また、環境をリセットしてみる(転職)のもいいかもしれません。
自分を認めない環境を認めないと、腹をくくることを考えられるようになれれば楽に生きる事ができます。
無口かどうかは比較論です。
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♯6です。



♯14さんとの議論はあなたが正しいと思います。
いろいろな人がいていいんです。そもそも、だからこそ生命はこれほど様々に進化できたんですから………
日本は農耕文化で群れたがる、気に入らないヤツはあることないことを言い立てて村八分にしたり、個性を重視しない。要するに「いじめの文化」があります。これは田舎ほど顕著です。
こんな日本人社会に問題があるんです。

私は調子のいいことばかり言っている人より、無口でもの静かな人の方が大好きです。
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この回答へのお礼

acquavelleさま、正しいと言ってくださり感謝します。なんか涙でそうです。そうやって肯定してくれる人がいると思うだけでも、勇気が沸いてきます。なんといっていいか…。ただうれしいです。もちろん♯14さんの意見をまったく無視はしないです。いろんな人の意見を聞くのも面白しろいんです。
でも、とにかく僕に賛同してくださって感謝します。

お礼日時:2006/03/28 23:32

心理学である実験結果が出てましてですね、内向的なタイプの人と外向的なタイプの人、それぞれにですね、どういったタイプの人に好意を持つのかといった実験を行ったんですが、結果は一緒だったんですね。

内向的な人も外向的な人も、外向的な人に好意を持ったんです。つまり、人は自分がどちらであろうと、外向的な人間を好むという性向にある。あなたも、友達になるなら、明るくてよく喋ってくれそうな、元気な人と友達になるでしょ?一人でいて、あまり話も盛り上がりそうにもない感じの人とはあまり友達になりたくない、これは誰だって思うことなんですよ。突きつめていったら、動物的な本能に行き着くのかもしれませんけど、そこまではわかりません。今言えることは、誰だって外向的な人を好ましく思うということです。

じゃあ、ここで君が考えるべきことがあります。
世の中は、誰かが決めたとかそんな前に、外交的な人を好むという傾向にある。それはね、社会がそう求める以前に、あなただってそうなんですよ。誰だって、そう。個人の志向性があってね、それの集計値が社会の志向性です。どんな場面にいったって、外交的な人が好まれるのは、社会が作ったわけでもなんでもなくて、まず個人がそう思ったからですよ。だから、あなたはそれをまず認めなければなりません。外向的な人が好まれる、評価される、それは言ってみたら、当たり前です。そこにね、突っかかっていって、文句を言ってもしかたない。いいですか?よく、こんなことを言う人がいます。
「人を見た目で判断しないで欲しい」
でもね、誰だって人を見た目で判断してるんですよ。髪の毛を赤とか紫に染めてる人を見たら、うわっと思ったりね、めがねでデブを見たらオタクだと思ったりね、第一印象なんて見た目しかないわけですからね、見た目で判断するなという方が無理がある。だから、こういう反論は意味ないんです。見た目で判断されたくなかったら、見た目で相手に誤解を招かないような見た目を自分で作らなければならない。髪の毛を奇抜に染めたり、容姿に気を使わないということは、そういうリスクを含むということです。そう判断されるリスクを含むということです。
ですから、「見た目で判断するな」という地点で反論するのではなくて、見た目で判断されることは大前提でね、それから自分を正当に評価してもらうためにはどうするかを考えることのほうが大事なんですね。見た目で判断されるのは当然、じゃあ、その次にどうするか、それが自己呈示の仕方です。
あなたが言ってることも、これとまったく一緒です。
ただの泣き言なんですよ。
「内向的な人間はダメなのか」
ダメじゃない。ダメじゃないけど、外交的な人間が好まれるのは、当然のことなんです。確かに、外向的か内向的かだけが人間の性格じゃないですが、それ以外の評価点を提示するのはあなたの責任です。社会にそういうことを求めてもしかたない。内向的で無口な自分が、どうやったら評価されるのか。それは自分で見つけるべきです。それが嫌なら、外向的になればいい。社会が悪いわけでもなんでもない。自分もしていることは否定のしようがない。誰でもそう思うやろ、そう思うようなことを覆すのは無理なケンカです。無口で内向的な人間が評価されるためには、なにかやり方あるでしょう。自分で考えてください。泣き言垂れるのは止めましょう。君の主張は、わがままです。
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この回答へのお礼

ずいぶん前の補足とかのやり取りで、口論してしまいましたけど。僕の意見の方が正しかったという人がいます。正しいみたいです。だから、僕の意見も聞き入れてください。これはいやみではなくあなたに対するお礼です。僕の意見を聞き入れたほうがあなたも心理的に成長するでしょう。もう消されたけど、思い出して心に刻んでください。

お礼日時:2006/04/10 21:30

無理に社会がこうだから自分もこう生きていかなきゃならないっていうのはないんじゃないですか?明るくなれないなら生きる価値がないなんてそんな世の中ではありませんよ。

きっと悩みだしたから極論に達したのでしょうね。
私も専門学校に行くまで内輪でしか騒げない、内向的な人間でした。今は周りの環境が変わったせいか、会社の内容上かいろんな人とよく話すようになりました。でも苦しいとは思ってません。私がそっちのほうが楽しいやって思って変わったことだから。
無理に自分を変えたら嘘だし、つらくもなります。
仲のいい友達がいて、楽しく過ごせる時間があるのなら他人は気にせず楽しい時間を楽しい仲間と過ごせばいいのではないでしょうか。
もっと楽に生きていいと思います。

この回答への補足

回答してくださった皆さんすいません。お礼は後ほどゆっくり書いていこうと思っています。回答に感謝しています。

補足日時:2006/03/28 22:10
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 無口な人も存在していいと思います。

私自身、内向型の人間です。おしゃべりな人間が必ずしも人に好かれるわけではありません。話に不愉快な内容が多いおしゃべりよりはずっといいのではないのでしょうか?
 仕事などに必要なことを話せればいいと思います。企業などの面接でも、最低限は必要な応対ができること(相手の話を聞く能力も必要です)がコミュニケーション能力として求められているのであって、無理に話題を作れる人間を求めているわけではありません。
 社会は外交的で、社交的で、話が良くでき、とても明るい人が生きやすいようになっているのは、ある程度事実です。でも、それは状況によりけりです。社交的な人間が状況に合わないこともあるはずです。
 それに、社交的な人間ばかりだと、話を聞く人がいなくなり、結局バランスが取れなくなるのではないのでしょうか?
 無口な人間の存在理由は、私なりの意見として、社交的で話を聞いてもらいたがっている人の受け皿になるというのではいかがでしょうか?
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「無口な人って存在してはいけないのでしょうか。


こういう考え方はしなくていいと思います。

私の経験で無口な人に感じた事がありました。
それは共同作業をしてて、必要な情報も口にしてくれない人がいた事です。
2度3度と、こちらからたずねて初めて首を縦に振る…といったぐあいで、
非常に気疲れしたのを覚えています。

このような事意外なら、私は無口な人に対して特に何も感じません。
また、口数で人を評価したりしません。

野球の野茂選手なんか無口だけど、社会的な評価は高いですよね。
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無口な人間がいて初めて無口ではない=おしゃべりな人間がいます。


こんな存在理由はどうですか。無口というのは分かりやすいラインだと思えばいいのです。おしゃべりには上限がありません。
個人的にですが無口な人間は大歓迎ですよ。あなたは劣等感から解放されるべきです。
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どんな場合でも同じだと思いますが、物事には必ず二面性があります。
「無口」も当然両面を備えています。

誰に対しても思いついた事をすぐ口にしては後悔するようなタイプの人も大勢いますし、そういう方は家へ帰ってから人知れず後悔し無口になれたらどれほど良いかと願っているに違いありません。
無口であることは落ち着いた印象を与えますし、四六時中しゃべっている人よりはその一言に重みが増すということもあるでしょう。
他にも数え切れないほどのメリットはあると思いますが、先に述べたように当然デメリットもあるわけで、この点について考えてみたいと思います。
このデメリットをどのように解釈するか、ということが重要になってくるような気がするからです。
無口で悩んでいる方は多いですし、その理由もよくわかります。
ただ、この理由というのが実は大いなる誤った思い込みである場合が殆んどです。


無口の最大のデメリットは、臆病な人間にとってはある種の脅威になってしまう、ということでしょう。
何を考えているかわからない、ということともちょっと違います。
人が他者を判断するには色々な要素があります。
目付きであったり、仕草であったり、そのひとつとして声があると思います。

話す内容の他に、語調などでその時の感情が表現できることを私たちは既に経験しています。
他者の声を聞くということは、相手の人となりや状態を知る重要な手がかりになるわけです。
臆病な人間は相対的な価値観を持っています。
絶対的自己を目指すことに不安があるので、常に他者との比較で自分の位置を確認しようとするわけです。
そういう人間にとって、相手の声が聞こえないということは大変な脅威に感じるでしょうし、不安のあまりその相手を忌避しようとするのも良く見られる現象です。
理解できないものに対して不安のあまり無闇に吠え立てる犬のように、排斥しようとして攻撃を仕掛ける人も中にはいるでしょう。


このような臆病者(特別な人ではありませんし、むしろ半数はそうであると思って良いかも知れません)に対するには【安心させる】のが一番効果があります。
「>たくさんおしゃべりできるようになりなさい。」というのは、そういった意味であろうと思います。
しかし、無口には無口のメリットがありますから、無理にしゃべろうとする必要はないでしょう。
要らぬことで他人に調子を合わせていると、知らない間に自分も臆病で相対的判断よりできない人間になってしまう危険性もあることです。

あなたが「>社会的に邪魔」にされているのではなく、相手があなたを脅威に感じているのです。
「>生きるのに苦労」しているのは相手の方ですから、安心させてあげるのが得策です。
具体的には、ありきたりで申し訳ないが「笑顔」ということになるのでしょう。
敵意は無い、ということを知らせてあげるのです。
社交的でないといって謝る必要があるとすれば、そういうことになるでしょう。

臆病な人間に愛の手を!

ということです。
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こんばんは。


重く考えすぎだと思いますよ^^。

学校で、主張することや社交を教えるのは、将来苦労させないためという目的があるからだと思います。

だんだん権利を主張しないと生きづらい世の中になってきたし・・。黙ってると、何でもなされるがまま、いいものは持って行かれてしまう・・。「存在していてはいけない」ではなくて、回りにいいように使われたり利用されたり、悪い意味で重宝される危険性さえあります。
主張もしないといけないという価値観になってきて、黙っていることが美徳であったと言われる昔の道徳は、通用しない感じになってきました。

苦労しますよ、ってことですね。実際、私も基本的に必要性にせまられないと、積極的には主張しませんので、図々しい人には結構苦労しますね。
もし、回りが遠慮深い人だったり、察しの聞く人同士だったりしたら、無理に社交的である必要もないし、主張しなくてはいけないこともないと思いますね。必要ないのですから。個性として互いに尊重し合えばいいと思います。でも、回りに自己主張していかないと、苦労しそうでしたら、悪いということではなくて、生きるのが大変だと言うことです。

私は、どちからというと、自己主張したり、つきあいを広めておかないと苦労するような環境よりは、無口で主張の弱い人で生きていける環境の方が、暮らしやすいとは思いますけどね。
学校教育は、今後ますます自己主張しないと生きて生きにくくなるであろう社会に出たときのことを考えているのでしょうね。

親の立場になったときも、自分が無口で手柄を取られたり、何かと苦労してきた人は、子供には苦労しないように自己主張のできる子になって欲しいと思うと思います。
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