死刑制度について、廃止すべきか存続すべきかについて考えていたんですけど、行き詰まってしまいました。

私が取り上げたのは「被害者問題」です。

もし、死刑を廃止したら、被害者の怒りはどこにぶつければいいのだろうか。故意に人を殺しておいて、何故犯人だけは生き延びているのだろうか。どんな事をしても、被害者が帰ってこないならば、せめて、憎き加害者の存在自体無き物にして、事件全てを忘れた方がよいのではないだろうか。犯人を死刑にし、無理矢理にでも、この事件は終わったんだと自分に言い聞かせ、忘れていこうとしたほうがいいのではないだろうか。

死刑は最低限の苦痛を与える方法によってのみ、その執行を認められている。被害者は、突然大きな苦しみの中で亡くなっていった。この犯人の死に方で、遺族は満足するか? 加害者が犯罪を反省していない場合、死刑によって加害者がいなくなったところでその犯罪に対する反省も答えも残らないのではないだろうか。
また、死には死をと言うのならば、目には目をがあってもいいはずなのに、体の一部に対する刑罰は許されていない。体の部分は許されていないのに、全体だと許されるのはおかしくないだろうか。

…ながながと書きましたが、ここでつまってしまいました。この先、まだ何か言えそうな気がするんです。
皆様のご意見・ご指摘をお願いします。

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A 回答 (13件中11~13件)

初めに、私は法律の専門科でも無いことと、至極私的な「死刑」に対する考えを書いている事を断っておきます。



先進国〔特に欧米〕では死刑撤廃の方向で進んでますね。
私は少しだけ疑問です。先の方も述べられてるように、被害者の人権は軽んじられて、何故、加害者の人権のみ重要視されるのでしょうか。
この事に皆が納得出来る様説明出来る人なんているのでしょうか?
他人の権利を奪っておいて自分の権利は守られるなんてどう考えてもおかしいです。

「目には目を、歯に歯を」ハムラビ法典ですね。
それと同じように殺人〔殺人の動機、意味にもよるが〕の加害者の極刑は「死刑」若しくは、「人権剥奪」が妥当だと思います。
蹴られようが殴られようが、はたまた誹謗中傷されようが何の文句も言えない。
せいぜいペットくらいの権利を与えてやればいいのでは無いでしょうか。

こんな事を云うとお叱りの言葉を頂いてしまいそうですが、私はこのように考えています。
幸い私の身内には被害者となった者がおりませんので、その遺族となってしまった方達の悲しみや苦しみ、そして憎しみはとうてい察する事が出来ません。
死刑廃止論者の人でも、自分の愛する人が被害者となってしまった時もその意見を貫けるのでしょうか?
もし、死刑廃止論者の方で家族が、加害者の余りにも身勝手な考えでしかも残忍極まりない被害にあってもそれでも死刑は廃止すべきだと云うのなら、その意見はとても大切にしたいと思いますが。
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この回答へのお礼

御礼が遅くなって失礼しました。
どうにもどちらかがどちらかを丸め込める結論のつく問題ではないようですね。
今頃気付きました。
難しい問題です。
ありがとうございました。

お礼日時:2002/02/04 21:21

一つ残酷な見方を提示しておきますと、死刑に限らず現在の刑罰の制度は「社会全体のため」「秩序を維持し市民一般を守るため」に存在しています。


強いて言えば「市民の望む正義の実現のため」もあるかもしれません。しかし「被害者や遺族の救済」は全く、一つも考えられていないと言ってもいいでしょう。私の知る限り法律にもそのような考えはありません。
その証拠に少年犯罪などの場合には、被害者が誰にどのように殺されたのか、遺族が知ることもできないというケースもあります(最近多少制度が変更されているようですが)。「人権上やむをえない」というより、「そういう事」は始めから問題にされていないだと思います。

「そもそも、それでいいのか?」という所から始めたほうが良いかもしれませんね。

私個人の考えとしては、このような法のあり方は問題だと思っています。
なぜかというと、いくら人道的・平和的でも「法が自分たち善良な市民一人一人の代わりに戦ってくれる」という認識・信頼を市民がもてない制度は、いずれ市民の支持を失って弱体化・無力化していくと思うからです。
近代以前は「お上が不心得者を懲らしめる」という発想に近い法制度で問題はなかったのだと思います。しかし民主主義の時代となると、例えば被害者あるいは不特定の善良な市民が「犯人を許せない。血祭りにあげてやりたい‥」と心から思った時、これにどう答えるかという問題がでてきます。
これは実は重い問いです。「そんな復讐的な発想は非人道的だ。間違っている」と決め付ける権利は、私達市民自身にはあっても政府や法制度自体には無いはずですから。

長い目で見ればいずれ私達の社会にも、「犯人の更正」だけでなく「被害者のための報復」「市民一般が納得するための制裁」といった理論が次第に持ち込まれていくのではないかと私は思っています。
そういう意味では私は「本当に市民が納得すればどのような残酷な刑罰もあり」だと考えています。もちろん市民が冷静な判断力を保つ事が前提ですが、これを保証するのが民主主義の制度的な面の役割ということになると思います。

こういう考えが良いことなのか悪いことなのか、色々な意見があるでしょう。
しかし一見時代に逆行しているようでも「民主主義」という現代社会のあり方の、これは折り合うべき「陰の面」だと思っています。そしてその時過度の復讐欲や残虐性に陥らず、市民全体の福祉を保証できる刑罰制度を作っていけるかどうかは、結局は市民自身の自制心やバランス感覚、いわゆる「民度」にかかってくるのだと思います。

まとまりのない意見で恐縮なのですが。
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この回答へのお礼

御礼が遅くなって失礼しました。
そうですね。
国が制裁をしているからには、それは極端な話、国本位の制裁であって、個人本位の制裁ではないんですよね。
↑語彙が乏しくて、うまく伝わらなかったらすいません。
いろんなところに目を向けていくと(政治とか…疎いので表面的なことしか分かりませんが)国民のため、市民のために、それを第一に考えて運営されている組織はどのくらいあるのでしょうか。
ただ、そんな理想的なことばかり言っていたら、物事は前に進んでいかないのでしょうね。
でも前向きに、何事にも改革が必要なのでしょうね。
ありがとうございました。

お礼日時:2002/02/04 19:49

こんばんは。



私も以前から、犯罪者の人権をやたらと尊重しまくる法にはちょっと腹立ちを覚えてました。殺人なども動機によっては全て悪だとは言いませんが、自己中心的で明らかに凶悪犯な場合、人権を尊重してやらなくてもいいと思うんですよね…。
また、絞首刑なんかじゃなく、凶悪犯には自分が殺した相手と同じ痛みによって死を味わわせてやりたい、とも思います。

…なんだか同意だけで進展のない意見ですみませんです…。
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この回答へのお礼

御礼が遅くなって失礼しました。
ご同意ありがとうございます。
多方面から見たときに、もしこの意見がずれていたとしても、一方面から見た場合の私のこの意見もアリなんだな、と心強く思います。
自己中心的で明らかに凶悪な犯罪を犯した犯人(特に少年)に「更生の可能性あり」なんて懲役判決はなんだか首を傾げてしまいます。
でも、可能性に懸けたい!というのも人間っぽくて暖かいものなのかしら、でも、凶悪犯に人間っぽさなんて・・果てしない想像が膨らみます。
難しいですね。
ありがとうございました。

お礼日時:2002/02/04 19:40

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