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森前首相のいわゆる神の国発言ってどこがいけないんでしょうか?私個人的にはあの発現を聞いても何にも違和感がなかったんですが。

A 回答 (14件中1~10件)

政教分離に違反するからですね、ただし、一般の方ならこういう発言もOKなんですが、政治家の場合は、国の代表としての発言になるので、つまり、国の代表が国の制度を否定する、というのは問題だということになるのです。

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No.10の方、長文解説ご苦労さま。


発言の片言節句を捉えて大騒ぎする、左翼マスコミの偏向報道の実例を実地でしていただき、たいへん参考になりました。

でもね、普通の日本人なら国語をならって、文章の意味を読み取るくらいの能力はあるでしょう。
あの挨拶で森前首相が述べているのは、最初のよくわからん挨拶(ここを左翼メディアは問題視したのだが)を除けば、子供の教育の話、孫と一緒に神棚にお水をあげる話、その子供が日曜日には教会にいくという神道と仏教だけでなく、キリスト教までごちゃまぜにしている、ある意味日本人らしい宗教との生活での関わりの話です。

確かに、最初の方で『本の国、まさに天皇を中心としている神の国であるぞ』って言っちゃってますけど、本論では全然そこに触れてないでしょう?
こういうのを『木を見て森を見ず』というんです。

まあ、それでも一国の首相だから、批判はあるでしょう。
しかし、マスコミを上げて大騒ぎしたものだから、本来ならスルーするような宗教界からも、コメントを出さざるを得なくなった。
当時のことを思い出すと、だいたいこんな感じですよ。

森首相の発言を批判するなら、挨拶全文を取り上げて意見すればまだ納得できますが、左翼メディアは言葉尻を捕らえて大騒ぎしました。

結論は簡単です。当時の左翼は森首相を引き摺り下ろしたくて、いささか隙の多い森首相の失言を狙ったのです。
そして、その狙いは見事に当たり、森政権は支持率低迷を続け、小泉さんにバトンを渡さざるを得なくなりました。

ただし失言は小泉さんにもありましたが、小泉さんは持ち前の強運と政治的腕力で乗り切りました。
「和」の人である森前首相と「豪腕」の小泉さんの違いは、その辺にありそうです。
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↓あなたのお気持ちは分かりますが、その当時のマスコミも国民も政治家も、そこまで深く非難の理由の解釈をだれもしていない。

 リアルタイムでかかわっていたのなら分かるはず。
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【訂正】



拙文の
> 神の国発言の全文(1990年5月15日。
は、
神の国発言の全文(2000年5月15日。
の誤りです。
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神の国発言の全文(1990年5月15日。

神社オンラインネットワーク連盟)
http://www.jinja.or.jp/jikyoku/kaminokuni/kamino …

端的に言うと、森の発言がいけなかったのは戦後日本の基本文書の一つである「1946年元旦の詔書」と齟齬をきたすことでしょう。「騒いだのはマスコミや左翼」という理解は浅はかで、他ならぬ天皇の言葉に込められた熟慮(天皇個人というより玉座の背後の知恵者たちの)を、台無しにする発言でした。

(1) 森元首相による「神の国発言」は内外の批判を浴び、森内閣(4月5日に発足したばかり)は6月2日に衆議院を解散した。もっとも、急死した小渕の政権時から既に「今年(2000年)は解散の年」の空気があったらしいが、この解散は「神の国解散」と呼ばれることになった。森の発言を批判する声は、野党のみならず自民党内からも、国内だけでなく欧米のメディアからも上がった(注1)。

(2) 話はさかのぼるが、1946年1月1日昭和天皇は詔書を発した(いわゆる「人間宣言」。国立国会図書館)。
http://www.ndl.go.jp/constitution/shiryo/03/056/ …

ここには新日本建設の基本精神が示されている。その31年後(昭和52年)、天皇は記者会見で「(御誓文を引用することが)実はあの時の詔勅の一番の目的でした。神格とかそういうことは二の問題でした」と語った。これは姑息な弁解のようにも見えた。ところが最近、詔勅当時のいきさつを伝える資料が公表された。
天皇人間宣言:草案やメモ見つかる 作成過程明らかに(毎日新聞、2006年1月1日)
http://blog.livedoor.jp/aiue_oh1018/archives/505 …

つまり、GHQ側の主眼は「天皇の神格否定」だったが、日本側で「五箇条の御誓文」を盛り込んだという(注2)。77年の天皇の言は姑息なのではなく、このことを指していたのだろう。この詔書から次の3点が読み取れる。

(a) 御誓文(1868年)には民主主義の基本が表れている。
(b) 現御神(あきつみかみ)や超国家主義は架空の観念であって、歴史や真実ではない。
(c) 天皇と国民との紐帯(かたい結びつき)は、昔から相互の信頼と敬愛によるものであって、単に神話や架空の観念によるものではない。

実のところ、(a)の御誓文が意味するのはせいぜい「啓蒙専制君主または寡頭制の下での制限民主主義」だったが、とにかくこれを持ち出すことで、日本にも民主主義があったことを示した。また(b)は、神話と歴史とを区別することにより、神話は神話として生き延びる道を残した心配りでもある。(c)は、戦前戦中の通念が「神話・伝説」「架空の観念」であることが明らかになっても、国民と皇室との相互信頼はこれからも揺るがないという根拠を示した。

(3) さて私は、なぜ半世紀も昔のことをごちゃごちゃ説明しているのだろうか? それは、戦後日本の基礎が皇室のあり方も含めて、アメリカとの協調の上に築かれていることを説明するためである。それを部分的に裏付ける興味深い資料がある(前出の資料と同じく故・浅野長光氏が保管)。
戦後60年の原点:皇室の在り方、提言 学習院に英文資料、GHQ作成か
http://www.mainichi-msn.co.jp/shakai/wadai/sengo …

敗戦前と戦後とで皇室は様変わりしたが、60年経った今もほぼこの指針に沿った行動が見られる。占領軍の指示を受け入れることは、支持を取り付けることでもあった。「日本国民の総意」に加え、最強国家アメリカとの協調も基にしているからこそ、皇室の安寧は磐石になった。そのことを知らない人は、ことさらに神話や架空の観念で皇室を飾り立てないと、不安でしょうがない羽目に陥るのだろう。

(4) 以上のように、敗戦後日本政府とGHQの折衝を経て「日本の国のあり方、皇室のあり方」は作り直された。時として日本政府は巧みな交渉を行った。こうしてできた複雑精妙な仕組みをガサツにも無視したのが、森喜朗である。
森は陳謝したが、発言そのものは「どこが間違っているんだ」と言って撤回しなかった。なるほど、「神国」を辞書で引くと「神がつくり、守護している国」で、神話にそういう話はあるから、言い伝えがあること自体は本当だ。しかし、日本において「神の国」という言葉は次のような意味内容を背負っている。
戦時中の初等国語教科書(斎藤彰氏による)
http://www.asahi-net.or.jp/~uu3s-situ/00/kokugo. …
この国を神生みたまひ、
この国を神しろしめし、
この国を神まもります。
http://www.asahi-net.or.jp/~uu3s-situ/00/kokugo. …
神は大八州を生み、皇祖皇宗は国を肇めたまう。(中略)
大平洋は、皇国の鎮めによってのみ、とこしえの「太平」の海なのである。(引用終わり)

このように、「神国」、「天皇による日本統治」、「日本が太平洋(ひいては諸外国)を支配する使命」はセットメニューとして国定教科書で教え込まれていた(注3)。46年元旦の詔書は、このセットメニューを否定するものである。したがって、詔書の文言に「神国」の語がなくても、国家のあり方から「神の国」の考えを排除する内容であることは間違いない。繰り返すと、神話としてはOK、国家のあり方としてはNGである。
要するに、戦後の日本の首相が「日本の国、まさに神の国であるぞ」と言ってはなるまい。物には言い方というものがある。「日本の神話には神の国という言い伝えがありますが」とか、「日本は多くの神々がおわす国ですが」とか、ワンクッション置いた表現があろうというものだ。森の無神経ぶりときたら、度が過ぎている(注4)。

(5) しかもこの発言は、神道政治連盟(神政連)国会議員懇談会のパーティーの席で飛び出した。神政連は神社本庁の政治団体であり、神社本庁は全国の神社の9割、約8万社を束ねる宗教法人である。つまり、巨大な票田で圧力団体だ。結局、一国の首相ともあろう者が、細心の注意を払うべきセンシティブ(sensitive)な「国のあり方の基本」よりも、支持団体向けの「おべんちゃら」を優先したことになる(注5)。この軽薄さは世上の怒りを買い、総理としての資質を問われるもとにもなった。


(注1) 神の国発言の報道
5月15日夜のこの発言は直ちに問題視され、さっそく翌日から新聞に載った。
<森首相>「日本は天皇中心の神の国である」と発言(毎日新聞から転載)
http://www.onebyone.co.jp/bbs-t1/bbs-t1.cgi?tw=& …

(注2) 「天皇の人間宣言」の起草者
幣原喜重郎(当時首相)は自分が起草したと語り、かつては一般的にもそういうことになっていた。しかし幣原は憲法9条も自分が発案したと称するなど、どうも起草関係については信用できない。人間宣言の草案を作成したのは幣原ではなくGHQで、ブライス(GHQ顧問、のちに皇太子明仁の家庭教師)が書いたらしい。それに日本側で手を入れ、GHQの許可を経て漢文調に訳したようだ。
なお、この詔書には天皇の戦争責任追及をかわそうという意図もあったと言われている。

(注3) 神国と現御神はセット
次の神話などによって結び付いていた。
【天壌無窮の詔勅】
日本書紀神話で、天孫降臨の際、天照大神が天孫、火瓊瓊杵尊(ほのににぎのみこと)に言ったと伝えられる言葉。天皇家が日本を支配すべきことと、その繁栄の永続性を寿ぐ内容の言葉。(小学館『大辞泉』)

(注4) 森喜朗の失言癖
あまりに失言が多く、政権が短命に終わる原因ともなった。
森喜朗 問題となった発言集(ウィキペディア)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A3%AE%E5%96%9C% …

(注5) 暗愚か、狸親父か
暗愚と評されることの多い森だが、政界の寝業師とも言われる。森の右翼的発言は、バブル崩壊と「失われた十年」で自信を喪失した日本人の、一部の琴線に響いたようだ。プチナショナリズム(?)などの風潮に乗り、共感する人も結構いるらしい。圧力団体だけでなく、そこまで計算してのリップサービスだとしたら、森も狸親父だ。
森は自称だが小泉の後見人であり、時期総裁最有力候補の安倍・福田も森派である。
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「どこがいけないんでしょうか?」というご質問は、「自分はいけないとは思わないが、皆さんはいけないと思いますか?いけないと思う理由はなんですか?」といった趣旨ではなく、「どこが問題になったの知りたい」という意味だと了解してお答えします。

でないと、回答ではなくて意見を求めている事になって、それは、このサイトでは、基本的には禁止されている「解決すべき問題がなく、同意や感想を求める質問」あるいは「明確な回答が存在しないものについて意見を求め、議論を行う事を目的とした、または結果として議論となった質問」に非常に近くなりますので…。

で、問題になったのは、発言中の「日本が、天皇を中心としている神の国」である、というところが、「国民主権を否定している」、「戦前の天皇を中心とした国家神道復活につながる」という点で批判されました。

ですから、宗教関係者からも、下にあるような抗議・批判がありました。
http://www.shin.gr.jp/kyodan/yosei/y126.html
http://www.relnet.co.jp/relnet/brief/r12-66.htm
どちらも、いわゆる「左翼」に分類される人・団体ではありませんね。特に、後の方は、自らも「教派神道」の流れに身を置いている、と言っており、Webの内容を見れば、左翼でない事は一目瞭然ですし、中身もあくまで信教の自由に関するものです。反対した人間(の多く?)が、自分から見て「左翼」に見えるからといって、森首相(当時)の発言に対する反発を、左翼かそうでないか、という観点から理解するのは間違いでしょう。

っていうか、「ややもすると政府側、いま私は政府側におるわけでございますが、若干及び腰になること をしっかりと前面に出して、日本の国、まさに天皇を中心としている神の国であるぞということを国民の皆さんにしっかりと承知をして戴く、その思いでですね、私達が活動して三十年に なったわけでございます」という発言は、挨拶を文章にするとありがちな、非常にわかりにくいものですが、とにかく、『自分達は、政府にとっては、躊躇しがちな事でも、ちゃんとやって、日本が天皇を中心としている神の国である事を国民に理解させようとしてきた』と言っているのは、どう読んでも間違いない訳で、政府だと躊躇しがちな訳ですから、政府のトップにいる森首相にとっては、(自分の言っている事が正しい事だと思っていたとしても)政府がやれば、それに対する何らかの障害があるだろう事は認識していました。

だから、森首相が、身内の集まりだと思って、(本音かリップサービスかは別として)政府だったら多少躊躇している事に関して、政府のトップとして不適当な発言をしてしまった、というのが、常識的な理解でしょう。森首相の言う事を「まったくその通り!」というかどうかは、まさに個人の「意見」ですが、何が問題になったかは、森首相は自分でよくわかっていたでしょうから、いくら『バカだ』という批判があったにせよ、それぐらいは理解してやらないと、いくらなんでも気の毒だと思いますよ。

尚、神道政治連盟国会議員懇談会は、No.7の方が正しく指摘されている通り、政治家の集まりであって、「神道集会」や「神道関係者の集会」ではないです。(リップサービスが入っているであろう事は、No.7の方の言うとおりだと思います。)
首相が、政治家の集まりで、わざわざ「政府がややもすると躊躇しがち」という枕詞をつけて、『文化論』を語る、というのは、まぁかなり無理な理解で、どういう集会かについて、誤解があるように思われます。先にあげた参考のWeb(下のほう)を読めばわかるような、神道政治連盟の方針との関連性で理解するのが、常識的な理解でしょう。
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この問題のポイントなのが、この神道集会に多数のマスコミが同席しており、発言時はまったく問題にならなかった事。

 問題として取り上げられたのが、一週間をゆうに過ぎてからです。

おわかりですよね?
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今思い出しても、あの頃のマスコミは森さんを引きずり下ろしたくて懸命になってました。



国会議員の集いとは言っても、宗教関係の集まりなんですから、政治家たる以上、リップサービスも必要でしょう。
それを軽々しいと批判する意見はあるかもしれませんが、言葉尻を捉えて寄ってたかって批判するのは、はっきり言って異常だと思います。

今でこそ、問題発言の全文が気軽に読めますが、当時のマスコミは『天皇を中心としている神の国』だけを取り上げて、大々的に報道したんですね。
マスコミの偏向報道の典型的な手口ですが、残念ながら国民の人気という点では今ひとつだった森さんは、防戦に回らざるを得ませんでした。

しかし、発言を最後まで撤回しなかったことと、首相を辞めるときに次期首相を公選で選出するようにして、小泉首相が登場するきっかけを作ったことは、評価してもいいと思います。
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彼個人が「日本が天皇中心の神の国だ」と思うのは勝手ですが、一国の首相として「そういう認識をしっかり国民にももってもらうぞ」てなことまで言ってしまうと、他人の内心の自由に踏み込みすぎになるでしょう。

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質問者様の感覚が正しいと思います。

私も当時「森がアホなのは事実だが、この発言は構わんだろ」と思いました。

便利な時代になったので、改めて
http://www.jinja.or.jp/jikyoku/kaminokuni/kamino …
の全文を読むと、「神道政治連盟国会議員懇談会結成30周年記念祝賀会」の祝辞にふさわしい挨拶をしているとしか思えません。

そもそも、口頭で述べた挨拶について、
「「日本は天皇中心の国であり、神の国」といったのなら問題は小さかったと」
などと突っ込む方がおかしいと考えます。
(No4の方の回答を批判する意図ではありません)
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