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No.7
- 回答日時:
廃墟の魅力、美しさを、日本人が最も強く感じるのが、
かの有名な、滝廉太郎の「荒城の月」だと思います。
http://www.mahoroba.ne.jp/~gonbe007/hog/shouka/k …
http://www.ko-jo.com/cd_download/index.html
かつて強者どもが、命を賭けて戦った古戦場・・・
彼らの夢と繁栄と誇りと物語が・・・いまや露と消えて・・ただ月の光の下に草が生い茂るのみである・・。
荒れ果てた城の痕跡が、かずらのつるに見え隠れしながら昔の栄華を物語っている・・
城の栄枯盛衰を、今も昔も変わらず、同じ月が見つめている・・。
この説明し難い「荒城の月」の美しさは日本人の心のふるさとだと思います。
滅ぶものの美しさ・・。
栄枯盛衰の哀愁を心からしみじみ感じ入り、彼らの誇りと悲哀を思いやるとき、諸行無常の無情な摂理が心の中に染み渡るのです。
いいですね荒城の月。浦のとまやの秋の夕暮 、現在と過去の二重性ですか。西洋にもピクチャレスクなどという趣味がありますし、タルコフスキーの「ストーカー」などもろに廃墟趣味です。廃墟については、無常観だけでは語れない美学的な側面があるかと思いました。ご回答ありがとうございました。
No.6
- 回答日時:
#4です。
補足拝見いたしました。ネクロフィリアの意味も調べましたが、行為者には似たような心理が働くような気がします。
交接はベクトルが生へ向いているときには、最も(生に対する)可能性を含んだ行為のひとつと言えるでしょうが、この行為を全く可能性のない相手に対して行なうということはその落差たるや計り知れないものがあるわけで、その落差こそが紛れもない快感となる可能性は大いにあるように思われます。
生命なきものに美を感じるということは、感じる側の人間の死へ向かうベクトルが一般の人に比べて大きいはずです。
生へ向かうベクトルが何らかの理由で弱まっているために、生に対する可能性にはあまり関心を持てなくなっている、ということでもあるでしょう。
そういうわけで、ネクロフィリア自体は単なる本能(エス)の形態の一種であって、それ自体に特殊な意味を持たせることは意味がないと私は思います。
むしろ、その本能を目覚めさせたきっかけにこそ、人間の営みとしての特殊性を見出すべきであろうと考えます。
No.5
- 回答日時:
廃墟だけではないですが、今から30年以上前にNHKで『未来への遺産』という番組をNHKでやってました。
この中でなぜ人は遺跡に惹かれるのか、などといった問いかけをしていました。
この紀行文が書籍になっています。(古いものですがまだ入手可能だと思います)
また、DVD化もされています。
現在では国内情勢などで現地へ入れないところなどが数多く取材されています。
真面目にお勧めです。
ご紹介下さいまして洵にありがとうございます。なかなか面白そうですね。探してみようと思います。遺跡と廃墟の魅力の違いが実はどうも判然としないのです。よく廃墟の本で「遺跡のような美しさ」などという記述がありますので、遺跡ほど大規模になってはその魅力が薄れてしまうのかもしれません。しかし軍艦島などもありますし。。。まあ、廃墟と言っても色々ありますから、病院や廃村などはいただけないです。
No.4
- 回答日時:
#1です。
ご返事ありがとうございます。P・デルボーさんを検索してみましたが、シュールレアリスティックな絵のようで印象深く感じられました。
ダリなどに通じる雰囲気があるように感じたのは錯覚でしょうか。
背景には廃墟らしきもの(絵が拡大できないのではっきりわからないのですが、そのような雰囲気があります)が配置されており、裸の女性がこちらに背を向けて椅子に座った状態でそれを眺めているかのような構図です。
個人的な解釈では、彼女は「崩壊しつつあるもの」を眺めることで、そこに(自らも含めた)物質が必ず安定に向かい得る運命にあるという予感を感じ取っており、そのせいである種の安堵感に満たされているような印象を受けます。
眺めているのが近代建築の粋を集めた高層ビルなどであれば、この安定感(安堵感)が生まれることはないでしょう。
女性が裸であるのは、そのように自らをさらけ出した状態においてもなお揺るがない安堵感を強調的に表現するためではないでしょうか。
補足で述べられていることに関連しますが、眺めているのが「廃墟」であって、完全なる「瓦礫」の山ではないことがミソのような気がします。
瓦礫は安定が完了した状態と言えると思うので、それ以上安定へ向かう可能性はゼロでしょうが、
廃墟の場合は、やがて瓦礫となり(あるものは分子段階にまで分解し)、それらを構成していた物質本来の姿に立ち返る可能性を秘めており、しかも「崩れかけている」ことでそれを暗示しているわけです。
身を取り巻く環境から帰納法的に導いた感覚にすぎませんが、美に色々な形があるとしても、可能性のないものに美を感じることはないように思います。
生のエネルギーと死のエネルギーが拮抗しながらも生のエネルギーの自己主張が強い状態が生きるということ、と言うこともできるでしょう。
しかし、死によって安定したいという欲求が存在することは想像に難くない(バランスを取り続けるということはエネルギーを消費することなので)でしょうし、廃墟はそういった無意識に安定への可能性を暗示する事象なのではないか、と思うわけです。
おっしゃるように、通常の「美」という概念を超えた、ある「魅力」という言葉を当てはめるほうが適当なようにも思いますが、美しくないのか、と問われればやはり美しいと言うしかないような気もします。
No.3
- 回答日時:
いっぱい売っています。
僕もマニアです。怖くて現地までは行けないのですが...↓URLが長くて全部表示できないようですが、アマゾンのページから「廃墟」で検索してみてください。
参考URL:http://www.amazon.co.jp/gp/product/481302016X/sr …
ありがとうございます。URLちゃんと表示されてました。そうなのです。たくさんあってどれを買ったらよいかわからなくて。できればマニアの方のお心を満たし、お目に適うような、また、写真がなくてもしっかり論じているような名著(そうそうそうなんだなあー みたいな)がないかと。。。。
No.1
- 回答日時:
いわゆる「死の本能」をくすぐるからではないか、と思います。
人は言ってみれば何も無い状態(死)から生を得て、再び死に戻っていくわけです。
つまり、生きようとするエネルギーと死に向かうエネルギーの拮抗した状態が生きるということだ、と言うこともできるでしょう。
しかし、良く考えてみると、拮抗している(バランスを取っている)ということは、現状が不安定であるからこそ必要とされるのであって、その意味では【安定したい願望】というものがあるとすればそれは死を意味することになると判断できるでしょう。
良く引き合いに出される例で、
茶碗が割れるということは茶碗が元来の元素に立ち返ることで安定を得ようと望むから、というのが【安定=破壊】の理由です。
「廃墟」は表面的には破壊(あるいは崩壊)の結果なわけですが、その本質はその廃墟を構成していたものたちの「安定」の顕現、ということも言えるのであって、無意識がその本質を感得するために安定という落ち着きへと至る可能性をそこに見出し、美しいと感じ、それが魅力ともなるのではないか、と思われます。
早速のご回答まことにありがとうございます。どうも私は浅知恵なのでメタフォリックな表現の方がすとんとくるのかもわかりません。
これは質問の補足なのですが、P・デルボーなんか背景に廃墟があったかどうだか忘れてしまいましたが、どうも廃墟に少女や裸の女性など配置している写真など多いように思います。これなんか糸口でしょうか?
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