「他人の不幸は、蜜の味」と言いますし、実際にマスメディアにはそういった記事が溢れています。

こういった風潮の良し悪しはさて置いて、何故「他人の不幸は、蜜の味」と感じるのか、その心理を分析していただけますか。

A 回答 (9件)

基本的に、取り合いの世界だからじゃないかと思います。



地位や名誉が全員に行き渡ることはありません。
社長は一人。他の人はなれません。部長や課長も、買った人がなります。取り合いですから、脱落者が居た方が、勝負に有利になります。

魅力的な異性と結婚するのも取り合い。
魅力的な異性も全員に行き渡ることはありません。恋愛では取り合いはよくあること。

豊かな生活も取り合い。それどころか、歴史的には食物さえ取り合いしていた時代の方が長いですね。日本国内はともかく、世界的には今もそう言えるのではないでしょうか。食料も足りない(工夫次第では、そうでもないようなのですが)。全員には行き渡らないので、奪ってでも食うし、敵は少ない方が自分に回ってきます。

水田耕作だってそうですね。両方に平等に水が入れば問題ないですよ。でも、水が少ないときに、敵対者の側の水をこちらへ引き入れることで、自分の畑が潤いますね。昔は深刻な問題だったはずです。


結論としては、みんなに蜜が行き渡らないから、他人が不幸になること(蜜からあぶれること)は、自分にとってのチャンスとなることが、この世界に多かったために、それが心の深くまで習性として身についてしまったということではないかと思います。

個人差はもちろん大きい問題なのですが、とかくこの世界は「取られた(損をした、先を越された)」という心の傷を抱きやすいのですね。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

枡の中の幸せを取りっこする、ということでしょうか。
欲しい物が無限にあったとしたら、「他人の不幸は、水の味」・・・になるかもしれませんね。

お礼日時:2006/09/21 20:18

(1)自信が無いからだと思います。


「蜜の味」がするのは、そのとき感じる「優越感」だと思います。
「優越感」が、「自分の自信のエサ」になってしまう状態なのだと思います。

(2)傲慢だからだと思います。
「他人の不幸が蜜の味」→他人が自分より幸福であることがイヤ→他人の幸福に「嫉妬」→自分が持っていないものを他人が持ってるなんて許せない→傲慢・・だと思います。

ということで自覚された「悪意」であることは少ないと思います。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

「劣等感」が、相手の不幸に面して「優越感」に変わることが、快感なのでしょうか。
「傲慢」、自分が一番幸せでいたいという心理もありそうですね。

お礼日時:2006/09/21 20:25

人間が、相対的思考に陥りやすい生き物だからではないかと思います。


自己の中で完結している絶対的幸福という概念よりも、他者との比較でより自らの幸福を認識できない人が多いということでしょう。
当初、いくら自分が幸せと感じていても、それが(たとえ無意識的であっても)他者を基準にしている場合には、新たな他者の出現によってその幸せの定義が脅かされ揺らぐこともあるでしょう。
逆に、新たに出現する他者(または、その状況)が不幸であるということは、取りも直さず自らの幸福に直結するという論理が成立してしまいます。
つまり、このような相対的価値観に自らの立脚基盤を置いている人にとって、「他人の不幸は蜜の味」は当然の定理と言えるでしょう。

ただ、相対性を全く否定して自己を認識することもまた不可能と言えるわけで、
その「他人」が「自分」と同義であったかもしれない可能性を想像できる能力があるかないか、によって、「甘いだけの蜜」か「苦味の効いた蜜」か、受け止める感覚に差は出てくるような気がします。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

「相対的思考」・・・社会的な生き物だけに、他人を意識せざるを得ないんでしょうか。
相手の立場になって考えることも出来るので、どちらの考え方が勝っているかで「蜜の味」が変わるかもしれませんね。

お礼日時:2006/09/21 20:22

基本的に人間の心理は、DNA保存本能によって説明されると思います。


他人の不幸・・つまりそれは他のDNA保存の危機であり、それは自分のDNA保存にとっては絶好のチャンスだからです。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

「DNA保存の絶好のチャンス」・・・やはり、生存競争が埋め込まれているんでしょうか。

お礼日時:2006/09/21 20:20

大昔、人類が猿の様に暮していた頃、時々仲間が狼やトラみたいな


天敵に食われていた。
 そして仲間一匹が食われると言う事は、その他の仲間のしばらくの間の生を保証する事でもあった。
 だから彼らは、仲間が食われれば内心ホッとしてつかの間ではあるが
自分が生きている実感を噛締め、
「もう居なくなった仲間の事をくよくよしてもしょうがない、俺たちにには明日があるんだ!」と
希望に燃えた・・・のかもしれない。

他人の不幸が蜜の味なのはその頃の先祖の心理が余波として我々の内面に生きている・・・・のかも?
 
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

「他人の犠牲は、自分の命」となりますでしょうか。
本能というより、生存競争の遺伝子があるのかもしれませんね。

お礼日時:2006/09/21 20:13

「他人の不幸は、鴨の味」ともいいますね。


たとえば、ホリエモンが、逮捕されたときは、快哉を叫んだ人が多数いると思いますが、いわれもない犯罪に巻き込まれてわが子を失った人にこの言葉を使えるでしょうか。
使えませんね。
対象のAさんの行状を見知っていて、快く思っていなかったり、うらやんでいたりした場合、Aさんが不幸になると、この言葉は、ぴったりはまります。
生き死にに関係ない程度の不幸で、ちょっと茶化す感じのこの言葉は、多くの人の心理、深層心理にあると思います。
もちろん、自分にもあります。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

「鴨の味」というのは知りませんでしたが、ねぎをしょっていそうですね(笑)

確かに、同じ「不幸」といっても、大きな違いもあります。
この場合は、「つきがない」<「不幸」<「悲劇」の違いでしょうか。

程度が軽いほど、蜜の味がするようです。

お礼日時:2006/09/21 20:11

自分は自分、他人は他人といった自我の確立がなされない社会において



周囲に合わせて目立たないようにしていなければならないストレスから、
特段境遇が変わったわけでもない自分であるけれども
他人にみまった不幸は、幸福に感じられるのでしょう。

裏返せば、自分に幸運が訪れたとき他人のうらやみを買って
村八分不幸に突き落とされる恐怖があるのだと思います。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

自分自身は変わっていないのに、他人の不幸で相対的に幸福感を味わえるという心理でしょうかね。
これも、都合のいい考え方で、逆になった時が念頭にないんでしょうね。

お礼日時:2006/09/19 21:18

1.「自分はまだマシ」(自分よりもっと不幸な人を見ると、自分の不幸など小さなものだと癒される)


2.「他人の方が不幸になれば、そのぶん自分に得が回ってくる」(同僚の失脚など)
3.「ざまあみろ」(普段こちらの苦労苦痛も考えずに暮らしていた相手が、災厄に見舞われて苦しみを思い知った場合など)

どれも人間として非常に下劣な心理ではありますが、そう言ってはばからない人がいるのは事実です。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

「自分はまだマシ」、自分が下ではないことで、安心したいのでしょうね。
「他人の不幸=自分の得」、狭い範囲では、確かにある心理ですね。
「ざまあみろ」、心理的な仇討ちみたいなものでしょうか。

お礼日時:2006/09/19 21:15

 いろいろあると思うんですが、「引き下げの心理」と言うのが大きいのではないでしょうか。


 
 自分が何かで、最下位だとへこんでしまいます(目立つし、実際に最低の評価だから)。しかし、もっと下に他の誰かがいたとすれば、安心しますよね。
 
 ですから、他人の不幸に注目するのは、
1.自分の不幸を目立たなくする。(自分より下がいるんだから、私は注目されずにすむ)
2.実際に、自分より不幸な人がいた。最下位じゃなくて良かった。

と言うような心理じゃないでしょうか?
 
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

「引き下げの心理」、他人を自分より下に引き下げることで、自分が安心したいという心理は、あるでしょうね。

お礼日時:2006/09/19 21:12

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よろしくお願いします。

Aベストアンサー

>自分をいじめたやつがいじめられててざまーみろと思うときは
自分が不幸なのでしょうか?>

 違うと思いますよ、いじめていた人がいじめられて今までの憤りが解消したということではないでしょうか?つまりそれは自分の中にあったいじめっ子の脅威が消えてなくなったという事でしょうから別に自分が不幸である訳ではないと思います。あえて言えばいじめっ子に対する恐怖が以前あったという一面で不幸な精神状態であったという事は言えるかな?そういう意味では・脅威(苛められていた時期)があったから「ざまーみろ」と思う・ということを「不幸」と呼べばまあそれはそれでそういうことなのかなという気はしなくはないですが・・・?そういう意味では脅威が消えてなくなって幸福を感じている訳ですから正常と言えると思います。ただ他の人が不幸になるのを望むというのはおそらく自分の不幸を誤魔化したい(自己投影)ということでしょうからそういう意味では不幸である証明になると思います。つまりこの違いは自己投影か脅威の投影かの違いということになると思います。つまり脅威の投影であれば自分が不幸というより脅威を消し去りたいという願望の現われですからそういう一面では正常ですね。例えば昔いじめられていた人がヤンキーを見て憎しみを感じるのは昔のいじめっ子と似ている要素を感じるからヤンキー(やくざ等)に対して恐怖と憎しみを感じる訳であって、そのヤンキー(やくざ等)が消えていなくなったということに対してホッとしているのであればそれはヤンキー(等)に対する脅威の投影であり、決して自己投影ではないです、なので自分が不幸な証拠というよりか・・・過去に脅威を感じた証拠ですね。

>自分をいじめたやつがいじめられててざまーみろと思うときは
自分が不幸なのでしょうか?>

 違うと思いますよ、いじめていた人がいじめられて今までの憤りが解消したということではないでしょうか?つまりそれは自分の中にあったいじめっ子の脅威が消えてなくなったという事でしょうから別に自分が不幸である訳ではないと思います。あえて言えばいじめっ子に対する恐怖が以前あったという一面で不幸な精神状態であったという事は言えるかな?そういう意味では・脅威(苛められていた時期)があったから「...続きを読む

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Aベストアンサー

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Aベストアンサー

>皆さんにとって他人の不幸って蜜の味ですか?

んー、YESでもありNOでもあります。

>私自身といえば、(中略)たとえイヤな奴でもそこまでは思えないなあ

質問者様のこの感覚に共感できるかということであればYESです。私は他人の不幸を積極的に「喜ぶ」ような感受性はもちあわせていないし、おそらく他の大多数の方も同意見だと思います。

しかし「他人の不幸は蜜の味」とは、このような直接的なことを必ずしも意味しないのだと思います。

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>本当に日本人にその傾向は強いんだろうか??

これは、特に「日本人に強い」とは思いません。質問者様のおっしゃるように「世界共通の感覚」でしょう。

>皆さんにとって他人の不幸って蜜の味ですか?

んー、YESでもありNOでもあります。

>私自身といえば、(中略)たとえイヤな奴でもそこまでは思えないなあ

質問者様のこの感覚に共感できるかということであればYESです。私は他人の不幸を積極的に「喜ぶ」ような感受性はもちあわせていないし、おそらく他の大多数の方も同意見だと思います。

しかし「他人の不幸は蜜の味」とは、このような直接的なことを必ずしも意味しないのだと思います。

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こんにちは。
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「前部帯状回」といいますのは苦痛や葛藤を処理する場所であり、「線条体」では心地良い感情と意思決定を受け持っています。前部帯状回が判定しているのは心の痛み、即ち「妬み」です。これによって他人の不幸に対する線条体の活動が活発になりますので、それが喜びとなります。従いまして、ここには必ずや「妬み」という要素があり、他人への妬みが大きいほどこの脳の反応は強くなります。...続きを読む

Q他人の不幸は蜜の味、ネット住民の大半はこんな感じ?

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Aベストアンサー

メシウマ住民や鬼女はそうだろうね。
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私は最低かもしれませんが
他人(自分より不幸な者)と比較することによって幸せを実感できると思います。
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それは自分より不遇な人と比べることによって幸せを実感できているからです。
なので皆が幸せになってしまったら幸せを感じることができなくしまうのではないでしょうか?
かなり自己中な考えですが適度な不幸な人間がいることによって自分が幸せになれるのではないかと思いました。

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Aベストアンサー

比較して、幸せを感じる?余りにも不幸な考え方ですよ。
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「他人の不幸は、蜜の味」と言いますし、実際にマスメディアにはそういった記事が溢れています。

こういった風潮の良し悪しはさて置いて、何故「他人の不幸は、蜜の味」と感じるのか、その心理を分析していただけますか。

Aベストアンサー

基本的に、取り合いの世界だからじゃないかと思います。

地位や名誉が全員に行き渡ることはありません。
社長は一人。他の人はなれません。部長や課長も、買った人がなります。取り合いですから、脱落者が居た方が、勝負に有利になります。

魅力的な異性と結婚するのも取り合い。
魅力的な異性も全員に行き渡ることはありません。恋愛では取り合いはよくあること。

豊かな生活も取り合い。それどころか、歴史的には食物さえ取り合いしていた時代の方が長いですね。日本国内はともかく、世界的には今もそう言えるのではないでしょうか。食料も足りない(工夫次第では、そうでもないようなのですが)。全員には行き渡らないので、奪ってでも食うし、敵は少ない方が自分に回ってきます。

水田耕作だってそうですね。両方に平等に水が入れば問題ないですよ。でも、水が少ないときに、敵対者の側の水をこちらへ引き入れることで、自分の畑が潤いますね。昔は深刻な問題だったはずです。


結論としては、みんなに蜜が行き渡らないから、他人が不幸になること(蜜からあぶれること)は、自分にとってのチャンスとなることが、この世界に多かったために、それが心の深くまで習性として身についてしまったということではないかと思います。

個人差はもちろん大きい問題なのですが、とかくこの世界は「取られた(損をした、先を越された)」という心の傷を抱きやすいのですね。

基本的に、取り合いの世界だからじゃないかと思います。

地位や名誉が全員に行き渡ることはありません。
社長は一人。他の人はなれません。部長や課長も、買った人がなります。取り合いですから、脱落者が居た方が、勝負に有利になります。

魅力的な異性と結婚するのも取り合い。
魅力的な異性も全員に行き渡ることはありません。恋愛では取り合いはよくあること。

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Q他人の不幸を喜んで優越感に浸る女の生物的正体とは?

他人の不幸を喜んで優越感に浸る女の生物的正体とは?

他人の不幸を喜んで優越感に浸る人が男女問わずいます。
これは一体どういう心理的メカニズムによるのでしょうか?
動物としてのヒトが持つ生来的本能なのでしょうか?
また、誰もがそのような側面を持ち合わせているとはいえ、
その程度に大きな個人差があるのはなぜでしょうか?

         ***

人間の性格は、育った環境の影響も大きく受けるとはいえ、
やはり生まれつきの「悪人」がいると、経験則上感じています。
例えば、同じく苦労して育った人間であっても、
その人格は次の二通りのタイプにハッキリと分かれます。
(1)自身の経験から、人の痛みを理解する人間。
(2)人に自分以上の苦しみを与えないと気がすまない人間。

もちろん善悪の基準は人間社会が決めたものに過ぎません。
例えば、殺人が悪であり、人道に反するとされるのは、
人間同士が決めた契約に過ぎないということが、
生物学の世界では常識のようです。

人間の倫理観も、生物学の世界では打算の産物と言われます。
もしも突然この世から法律がなくなったり、
悪いことをしても処罰されない特権階級が生まれたりしたら、
殺人を犯しても罪に問われない特権を手にした男性が、
強いオスとして女性からモテモテになるでしょう。

そして、残酷なことに、人間として優れた善人が、
子孫をたくさん残す生物的優等生とは限りません。
人間として優れていることと、生物として優れていることは、
互いに全く別物であり、両立しないことが多いような気がします。
善人だけが子孫を残していれば、我々はみな善人のはずです。
歴史上の善人は子孫が残らず、死に絶えてしまったのでしょうか。

やはり、人間にこのような攻撃性やマイナス思考があるのは、
動物の進化の過程で必要だったとされる本能が、
今でも名残として残っているためなのでしょうか?

もう少し具体的な事例は、以下で述べることとします。

時々このような女性を見ます。
(わかりやすいようにわざと誇張して書きます。)

彼女らは、長身で高学歴の男性が好きと言います。
理由は、子供に男性の体質や知能が遺伝するからだそうです。

しかし、子供に遺伝するのは、男性が持つ先天的素質のみです。
男性の身長や学歴は、先天的素質ばかりではなく、
10代までの育った環境、親が与えた環境などの、
後天的影響も少なからずあります。
先天的素質に恵まれながら、大人になるまでの短い間、
後天的素質である環境に恵まれなかったため、
素質が開花せずに大人を迎えてしまった人もいます。

ところが、恐ろしいことに、この種の女性の中には一部、
このような(ある意味気の毒な)男性を見下して、
優越感に浸る者がいるのです。
ごくたまに、環境に恵まれなくても、生まれつき頭が良いのか、
塾にも通わず独学でエリート大学に合格する苦学生もいます。
「バカが子供に遺伝するのは嫌だ」と言いながらも、
恵まれた環境で育った低学歴の遊び人以上に、
このような貧乏苦学生を見下す女性がいるのです。

冒頭で挙げた例とは逆になりますが、不思議なことに、
経済面や愛情面などで恵まれた家庭で育ったはずの女性も、
次の二通りに分かれます。
(1)素直で純真な人間に育ち、どんな人にも愛情を持つ女性。
(2)家柄で人を見下し、恵まれない人を内心で見下す女性。
同じいわゆる「令嬢」でも、このように性格が割れます。
実際のところは、前者(1)のタイプが多いと感じていますが、
たまに後者(2)のような女性もいます。

自身の経験則を総合すると、どう考えても、
人間の性格は生育環境だけでは説明がつかない気がします。

やはり、男女を問わず生まれつき悪い人間はいるのでしょうか?
また、そのような悪人も、生物学的視点からは、
生物界全体の進化向上にとっては必要であるが故に存在する、
“必要悪”と考えられるのでしょうか?

他人の不幸を喜んで優越感に浸る女の生物的正体とは?

他人の不幸を喜んで優越感に浸る人が男女問わずいます。
これは一体どういう心理的メカニズムによるのでしょうか?
動物としてのヒトが持つ生来的本能なのでしょうか?
また、誰もがそのような側面を持ち合わせているとはいえ、
その程度に大きな個人差があるのはなぜでしょうか?

         ***

人間の性格は、育った環境の影響も大きく受けるとはいえ、
やはり生まれつきの「悪人」がいると、経験則上感じています。
例えば、同じく苦労して...続きを読む

Aベストアンサー

>他人の不幸を喜んで優越感に浸る人が男女問わずいます。
これは一体どういう心理的メカニズムによるのでしょうか?
動物としてのヒトが持つ生来的本能なのでしょうか?

おっしゃるとおり「>生来的本能」が大いに関係しているでしょう。
ただ、「他人の不幸を喜ぶ」というのはひとつの形態にすぎないのであって、根本的には、相対的な価値観でしか自己基盤を確立できない憐れな(ある意味で健気な)人種と言えます。
いわゆるアイデンティティ無しには人は生きられないようですが、このアイデンティティを確立するには案外手間がかかります。
動物としての(無くてはならない)本能を適度に制御しつつ、精神の高みを目指すよう人はプログラムされているわけですが、本能を制御するということは中々難しいことです。
しかも自主的にそれを為すとなれば余計に難しいでしょう。

そこで、自らは努力せず、自分よりも弱い立場のものを見つけ、その者と比較することによって自らの優位性を確認しようとします。
これによって彼の存在意義は確立され(たと勘違いし)安心するわけです。
ところで、「弱い」と判断する基準が、二義的ではありますが問題になります。
一般的には「異質性」を以って弱いという判断が為されるのではないかという気がします。
こういった人々は「他人と違わないこと」に腐心することでしょう。
ゆえに、「他人の不幸を喜ぶ」というレベルから「他人の不幸を醸成する」段階へと足を踏み入れる者がいたとしても何の不思議もありません。
 
生来的とはいえ本能に操られつつという状態でしかアイデンティティを確立できないというのは、人間としては不幸な状況ということが言えます。
なぜ不幸かと言えば、(進化論を信じるとすればですが)動物が人間へと進化した、まさにそのほんのわずかの違いが、本能に対する制御が可能かどうか、という点だからです。
つまり、
「他人の不幸を喜んで優越感に浸る」ような人は、この違いをクリアしきれていない人種という結論が導かれることになります。

ところで、
「>動物としてのヒトが持つ生来的本能」と
「動物の本能」とは区分して考えるべきだろうと個人的には思います。
「>動物としてのヒトが持つ生来的本能(のひとつ)」とは、ここでは「アイデンティティの確立」を指すわけですが、この観点からすると、
「他人の不幸を喜んで優越感に浸る」ような人は、この確立方法を誤った人である、ということに気づかれると思います。
(時節柄なので)オリンピックに譬えれば、金メダル候補の失敗を願う(あるいは足を引っ張ろうと画策する)選手のようなものです。
何が誤りかと言えば、自らの(人間としての)可能性を貶めていることになる(しかも、そのことに気づけない)からです。

>やはり、男女を問わず生まれつき悪い人間はいるのでしょうか?

上で述べてきたような私見に基づけば、基本的には、【生まれつき】悪い人間というのは存在せず、あくまで「作られるもの」だと考えます。
なぜならば、「生来的本能」を制御していく超自我性というものは動物との違いとして人間に【芽として】備わってはいますが、それは育てていかなければ育たないものだからです。
いくら踏まれても芽を出すたくましいものもあるでしょうが、これは個体差があります。
ひねくれた方向に育ったり、あるいは途中で枯れてしまうものだってあるでしょう。
また過保護に育てすぎても正常な発達は望めません。
適度の栄養と適度の水分と適度の陽の光りを必要とする植物のようなものです。

無論、植物と違うのは、人間は成人ともなれば自己責任が伴うということです。
責任は負わなければなりません。
しかし、そうなった原因が全て本人だけにあるということとはまた別の問題です。
「>人間の性格は生育環境だけでは説明がつかない気がします。」
とおっしゃる点については、このような感想を述べるにとどめておきましょう。

>また、そのような悪人も、生物学的視点からは、
生物界全体の進化向上にとっては必要であるが故に存在する、
“必要悪”と考えられるのでしょうか?

「必要悪」というわけではなく、生物学的視点からは、
単に「そういったものだ」という確率論になるのではないか、という気がします。
総体としてどうなのか、ということは留意されても、個体ごとの評価をしようとするのは(生物学的には)おそらく無意味でしょう。

人という種族が仮に進化すべき方向に向かうならば、そういった個体(悪人)の出現する確率も次第に減ってくるだろう、ぐらいのことになるでしょうか。
さらに言えば、そうなった時点では「悪人」の概念もまたさらに進化?というか、他の要素が組み込まれている可能性はあるでしょう。

とりとめもない感想に終始してしまい失礼しました。
  

>他人の不幸を喜んで優越感に浸る人が男女問わずいます。
これは一体どういう心理的メカニズムによるのでしょうか?
動物としてのヒトが持つ生来的本能なのでしょうか?

おっしゃるとおり「>生来的本能」が大いに関係しているでしょう。
ただ、「他人の不幸を喜ぶ」というのはひとつの形態にすぎないのであって、根本的には、相対的な価値観でしか自己基盤を確立できない憐れな(ある意味で健気な)人種と言えます。
いわゆるアイデンティティ無しには人は生きられないようですが、このアイデンティテ...続きを読む

Q他人の不幸の味わい方

他人の不幸からくる蜜の味をご存知の方に質問します。
私は今まで他人の不幸をみて蜜を味わったことがないんです。
例えば道端で救急車で運ばれてる人を見ても、
近所で空き巣に入られたという噂を聞いても全く美味しくありません。
でも他人の不幸は蜜の味という言葉は誰でも知っているくらい有名な言葉ですから、そう思っている人が多数派なのだと思います。
そこで質問なのですが、どうすれば他人の不幸の蜜を味わえるようになるんでしょうか。

Aベストアンサー

私が、知っている限りでは、「他人の不幸からくる蜜の味」というのは、

誰かが不幸になる事で自分が得をすることです。

例えば、あなたに嫌いな人がいて、その人とあなたはピアノが弾けるとしましょう。
そして、学校の音楽祭であなたは、伴奏をしたかったのに、その人が伴奏をすることになってしまった。
そういう時はやはり、素直に喜べないものです。
しかし、音楽祭の1か月前その人が事故に遭ってしまい、伴奏ができなくなってしまいました。
当然、あなたが伴奏を弾くことになります。そうすると、嬉しいはずです(たぶんですが・・・)

このように、自分が得をすることをいいます。いわば嫉妬みたいな感じなんです

あなたがもし、そのような気分になったことがないというならばはあなたはきっととても優しい心の

持ち主なんだと思います。

興味があるのは、分かりますが、なるべくなら、味あわない方が、人生楽しく生きられます!!

回答になっていないと思います。すいません。ですが、実は私もいつも嫉妬とかを自然にしてしまうの

で、どうすれば、そんな感情がうまれるのかが、よくわからないのですww

下のサイトを参考にされてはいかがでしょうか?

http://www.kagakunavi.jp/topic/show/156

あと、インターネットを探すと同じような質問をしていることがよくあるので、そちらも参考にして下さい<(_ _)>

私が、知っている限りでは、「他人の不幸からくる蜜の味」というのは、

誰かが不幸になる事で自分が得をすることです。

例えば、あなたに嫌いな人がいて、その人とあなたはピアノが弾けるとしましょう。
そして、学校の音楽祭であなたは、伴奏をしたかったのに、その人が伴奏をすることになってしまった。
そういう時はやはり、素直に喜べないものです。
しかし、音楽祭の1か月前その人が事故に遭ってしまい、伴奏ができなくなってしまいました。
当然、あなたが伴奏を弾くことになります。そうすると、嬉しいは...続きを読む

Q「幸福であるだけでは十分ではない。他人が不幸でなければならない。 」

「幸福であるだけでは十分ではない。他人が不幸でなければならない。 」
by ホセ・フェルナンデス

という格言を聞いて気づいたのですが
現実は幸せになるには他人が不幸でなければ成り立たないのでしょうか?

「自分が幸せと思えばそれで幸せ。他人がどうであろうと関係ない」
というのは幻想ですか?

Aベストアンサー

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B8%E7%A6%8F
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E5%B7%B1%E5%AE%9F%E7%8F%BE%E7%90%86%E8%AB%96

古典から考えられている幸福の追求は、他者との相対的位置を見出してはいません。

ここからは完全に持論なのですが、
あるレベルよりも高い位置へ自分が、あるいは自分が支援する何かが移動した時に、自己として幸福を感じるのであると私は考えています。
(例えばスポーツ選手の自己記録更新など)

つまりは社会的良性行動を起こした絶対的な位置移動の結果が幸福となっているのですが、「他人の不幸は蜜の味」というような、自分は何かをしていなくても相対的に下にいるものがいる、というのは自己努力の結果ではないので擬似的な幸福でしょう。
言わば根本的に幸福を追求できていない、仮の姿で満足しているのです。


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