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「他人の不幸は、蜜の味」と言いますし、実際にマスメディアにはそういった記事が溢れています。

こういった風潮の良し悪しはさて置いて、何故「他人の不幸は、蜜の味」と感じるのか、その心理を分析していただけますか。

A 回答 (9件)

 いろいろあると思うんですが、「引き下げの心理」と言うのが大きいのではないでしょうか。


 
 自分が何かで、最下位だとへこんでしまいます(目立つし、実際に最低の評価だから)。しかし、もっと下に他の誰かがいたとすれば、安心しますよね。
 
 ですから、他人の不幸に注目するのは、
1.自分の不幸を目立たなくする。(自分より下がいるんだから、私は注目されずにすむ)
2.実際に、自分より不幸な人がいた。最下位じゃなくて良かった。

と言うような心理じゃないでしょうか?
 
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

「引き下げの心理」、他人を自分より下に引き下げることで、自分が安心したいという心理は、あるでしょうね。

お礼日時:2006/09/19 21:12

1.「自分はまだマシ」(自分よりもっと不幸な人を見ると、自分の不幸など小さなものだと癒される)


2.「他人の方が不幸になれば、そのぶん自分に得が回ってくる」(同僚の失脚など)
3.「ざまあみろ」(普段こちらの苦労苦痛も考えずに暮らしていた相手が、災厄に見舞われて苦しみを思い知った場合など)

どれも人間として非常に下劣な心理ではありますが、そう言ってはばからない人がいるのは事実です。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

「自分はまだマシ」、自分が下ではないことで、安心したいのでしょうね。
「他人の不幸=自分の得」、狭い範囲では、確かにある心理ですね。
「ざまあみろ」、心理的な仇討ちみたいなものでしょうか。

お礼日時:2006/09/19 21:15

自分は自分、他人は他人といった自我の確立がなされない社会において



周囲に合わせて目立たないようにしていなければならないストレスから、
特段境遇が変わったわけでもない自分であるけれども
他人にみまった不幸は、幸福に感じられるのでしょう。

裏返せば、自分に幸運が訪れたとき他人のうらやみを買って
村八分不幸に突き落とされる恐怖があるのだと思います。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

自分自身は変わっていないのに、他人の不幸で相対的に幸福感を味わえるという心理でしょうかね。
これも、都合のいい考え方で、逆になった時が念頭にないんでしょうね。

お礼日時:2006/09/19 21:18

「他人の不幸は、鴨の味」ともいいますね。


たとえば、ホリエモンが、逮捕されたときは、快哉を叫んだ人が多数いると思いますが、いわれもない犯罪に巻き込まれてわが子を失った人にこの言葉を使えるでしょうか。
使えませんね。
対象のAさんの行状を見知っていて、快く思っていなかったり、うらやんでいたりした場合、Aさんが不幸になると、この言葉は、ぴったりはまります。
生き死にに関係ない程度の不幸で、ちょっと茶化す感じのこの言葉は、多くの人の心理、深層心理にあると思います。
もちろん、自分にもあります。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

「鴨の味」というのは知りませんでしたが、ねぎをしょっていそうですね(笑)

確かに、同じ「不幸」といっても、大きな違いもあります。
この場合は、「つきがない」<「不幸」<「悲劇」の違いでしょうか。

程度が軽いほど、蜜の味がするようです。

お礼日時:2006/09/21 20:11

大昔、人類が猿の様に暮していた頃、時々仲間が狼やトラみたいな


天敵に食われていた。
 そして仲間一匹が食われると言う事は、その他の仲間のしばらくの間の生を保証する事でもあった。
 だから彼らは、仲間が食われれば内心ホッとしてつかの間ではあるが
自分が生きている実感を噛締め、
「もう居なくなった仲間の事をくよくよしてもしょうがない、俺たちにには明日があるんだ!」と
希望に燃えた・・・のかもしれない。

他人の不幸が蜜の味なのはその頃の先祖の心理が余波として我々の内面に生きている・・・・のかも?
 
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

「他人の犠牲は、自分の命」となりますでしょうか。
本能というより、生存競争の遺伝子があるのかもしれませんね。

お礼日時:2006/09/21 20:13

基本的に、取り合いの世界だからじゃないかと思います。



地位や名誉が全員に行き渡ることはありません。
社長は一人。他の人はなれません。部長や課長も、買った人がなります。取り合いですから、脱落者が居た方が、勝負に有利になります。

魅力的な異性と結婚するのも取り合い。
魅力的な異性も全員に行き渡ることはありません。恋愛では取り合いはよくあること。

豊かな生活も取り合い。それどころか、歴史的には食物さえ取り合いしていた時代の方が長いですね。日本国内はともかく、世界的には今もそう言えるのではないでしょうか。食料も足りない(工夫次第では、そうでもないようなのですが)。全員には行き渡らないので、奪ってでも食うし、敵は少ない方が自分に回ってきます。

水田耕作だってそうですね。両方に平等に水が入れば問題ないですよ。でも、水が少ないときに、敵対者の側の水をこちらへ引き入れることで、自分の畑が潤いますね。昔は深刻な問題だったはずです。


結論としては、みんなに蜜が行き渡らないから、他人が不幸になること(蜜からあぶれること)は、自分にとってのチャンスとなることが、この世界に多かったために、それが心の深くまで習性として身についてしまったということではないかと思います。

個人差はもちろん大きい問題なのですが、とかくこの世界は「取られた(損をした、先を越された)」という心の傷を抱きやすいのですね。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

枡の中の幸せを取りっこする、ということでしょうか。
欲しい物が無限にあったとしたら、「他人の不幸は、水の味」・・・になるかもしれませんね。

お礼日時:2006/09/21 20:18

基本的に人間の心理は、DNA保存本能によって説明されると思います。


他人の不幸・・つまりそれは他のDNA保存の危機であり、それは自分のDNA保存にとっては絶好のチャンスだからです。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

「DNA保存の絶好のチャンス」・・・やはり、生存競争が埋め込まれているんでしょうか。

お礼日時:2006/09/21 20:20

人間が、相対的思考に陥りやすい生き物だからではないかと思います。


自己の中で完結している絶対的幸福という概念よりも、他者との比較でより自らの幸福を認識できない人が多いということでしょう。
当初、いくら自分が幸せと感じていても、それが(たとえ無意識的であっても)他者を基準にしている場合には、新たな他者の出現によってその幸せの定義が脅かされ揺らぐこともあるでしょう。
逆に、新たに出現する他者(または、その状況)が不幸であるということは、取りも直さず自らの幸福に直結するという論理が成立してしまいます。
つまり、このような相対的価値観に自らの立脚基盤を置いている人にとって、「他人の不幸は蜜の味」は当然の定理と言えるでしょう。

ただ、相対性を全く否定して自己を認識することもまた不可能と言えるわけで、
その「他人」が「自分」と同義であったかもしれない可能性を想像できる能力があるかないか、によって、「甘いだけの蜜」か「苦味の効いた蜜」か、受け止める感覚に差は出てくるような気がします。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

「相対的思考」・・・社会的な生き物だけに、他人を意識せざるを得ないんでしょうか。
相手の立場になって考えることも出来るので、どちらの考え方が勝っているかで「蜜の味」が変わるかもしれませんね。

お礼日時:2006/09/21 20:22

(1)自信が無いからだと思います。


「蜜の味」がするのは、そのとき感じる「優越感」だと思います。
「優越感」が、「自分の自信のエサ」になってしまう状態なのだと思います。

(2)傲慢だからだと思います。
「他人の不幸が蜜の味」→他人が自分より幸福であることがイヤ→他人の幸福に「嫉妬」→自分が持っていないものを他人が持ってるなんて許せない→傲慢・・だと思います。

ということで自覚された「悪意」であることは少ないと思います。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

「劣等感」が、相手の不幸に面して「優越感」に変わることが、快感なのでしょうか。
「傲慢」、自分が一番幸せでいたいという心理もありそうですね。

お礼日時:2006/09/21 20:25

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