今年の桜は咲き急いでいますが、今年施行の「ゆとり」教育は学問の遅咲きを願うものだと解釈してます。

「ゆとり」である以上学力は当然低下します。
これを愚民教育と評する人も多いですけど、そういう大人達の今の学力はどれほどあるのでしょうか。
大人になるとパッと忘れてしまうような知識で、受験競争をいつまでも続けている事の方が愚かな行為ではないでしょうか。

学問も料理や工芸の職人と同じく、30歳ぐらいで資格の取れる社会を構築するべきではないかと思います。
子供の頃から知識を詰め込んできた東大生より、アルバイトをしながら、人と対話しながら自主的に一日2時間ほどの学習を長く続けてきた人の方が、同じ知識量でも何か人間的な面で違いが生まれるように思います。

競争も大切ですが、それと同じぐらい「ゆったり」と時間を過ごすのは大人にも子供にも大切なものではないでしょうか。
人の知性は緊張の時生まれるものもあれば、緩和の時生まれるものもあるでしょう。

小学校の徒競争で、トップで走って来た生徒がゴール前立ち止まり後ろを振り返って、全員が手を繋いでゴールするという授業があります。
皆が一斉に批判するこの授業ですが、僕にはこれが羨ましいのです。

トップを走って来た生徒がゴール前立ち止まって後ろを振り返ります。
まるで大切な落し物を探すかのように。

お暇あらば、貴方の教育論「ゆったり」と聞かせて下さい。tiger-ryuji

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A 回答 (24件中21~24件)

再投稿です。



お礼の欄に書いて頂いた、「若い時は将来の職業に直接役に立たない事もやるべきではないか」ということについては当然そうあるべきです。
しかしその事と才能ある子供を子供のうちにもっとその才能を伸ばしてやることが、どうして両立しないと思ってしまうのか不思議です。
将来の職業には役に立たない様々なことをやりながらも、小学校で高校の数学をやりたい子供にはやらせて上げられるというのがどうしていけないのか理解に苦しみます。
なぜ難しいことを学びたいのに、『それは悪いことだ』などと言って足を引っ張るべきなのか。

バスケットで言えば皆均等にシュートを決めないといけないのでしょうか。
皆がポイントゲッターにボールを集めて、チームワークの良さでより多くの得点を入れることが素晴らしいことではないのですか?
ドリブルが上手な人、シュートが上手な人、パスが上手な人、リバウンドを拾うのが上手な人など、それぞれがお互いを理解して尊重するように教える事が正しい教育だと思います。
たとえそれが小学生であってもです。
能力が欠けているのにそれを知らされず、『みんなと同じ』と思ってしまうことこそ悲劇です。

もう一つ、『三等国家でも皆が幸せ』という意見がありましたが、発展途上にある国家ではそういうことも有り得るかもしれません。
しかし、一度豊かになった国が貧困に向かうとき、『清貧』などと言う言葉は存在しませんよ。
豊かさを知らないからこそ『清貧』でいられるのです。
たとえその中に『清貧』があったとしても、それは知的レベルの高い一部の人間にしか存在しません。
豊かな国から貧しい国へ移行するとき、必ず暴力や富の一極集中が起こります。
そして国全体がスラム化してゆくのです。
このときに歴史教育で豊臣秀吉や聖徳太子の偉業を話して聞かせても、盗みを働かないと生きてゆけない子供たちの耳に入ってゆくでしょうか。

日本は既に後戻りのできない所まで来てしまったのです。
貧しくなることは許されない状況だということが分っていない『楽観主義者』のために、日本全体が危うくなろうとしている事に気付いている人が、もっと大声で発言してもらいたいと思っています。

もう一度言わせて貰いますが、数学や理科が国際的に低いレベルのままで、科学技術立国である日本の経済が維持できることは100%在り得ません。
このことは断言できます。
そして貧しくなればなるほど、教育に掛ける国家予算も無くなっていくのです。
軽々しく『貧しくても心の豊かな国』などといって欲しくはありません。
『貧しい国』は一部の富裕層を除いて、辛く住みにくい国であることに早く気付いて、生命線である科学技術を活かし経済的に豊かなままで心も豊かになる道を選択するべきだと思います。

最後にもう一つ、日本の今までの教育で一番の間違いは、記憶力に重きを置いたことです。
記憶などは大して重要ではないことに、多くの人が気付いていません。
大切なのは『思考力』です。
物事につじつまを合わせ総合的に理解し、それを使って新たな物を創造する力です。
カブトムシは蜜を吸うと覚えているだけの子供と、蜜を吸うのだから砂糖水を染ませた綿を木に置いておけばカブトムシが集まってくるかも?と考える子供とでは雲泥の違いがあります。
『知っている子供』ではなく『考える子供』になってもらいたいのです。

Dejimaさんも書いておられるように文系の大学では英語や社会や国語というほとんど記憶以外は必要のない科目だけで入学してしまいます。
そしてその人たちが社会に出て人の上に立っているのです。
もちろんその中には非常に優れた『思考力』も持ち合わせている人もいますが、かなり多くの人がテレビとビデオデッキやパソコンとプリンターの接続などという、説明書を読めば小学生でもやれることすらできない『低能力』であることは否定できません。
内部のシステムと違い電線は眼に見えるのですから、何をどこにつないだらいいか説明書を見れば明白です。
これは文系、理系とか得手、不得手とか専門、専門外の問題ではなく『常識』です。
この程度のことを『難しいこと』などと思うこと自体が、『学問的』にではなく人間の基本的な部分に於いて『低能力』『常識外れ』の証なのです。
その『低能力』を省みることもせず『ゆとり教育』などと言っている官僚などには『何様のつもりなのか』と言ってやりたい気持ちで一杯です。

Dejimaさんが仰るように、人の上に立つ人は総合的な知識と能力(思考力)を備えた人でなくてはならないのに、テレビとビデオを接続するだけで電気屋を呼ぶ人間が、どうして人の上に立てるでしょうか。
こういうところに日本の教育の矛盾があります。

考える教科を子供のうちにしっかりとやり、十分な『思考力』を身に付けてから覚える教科をやるべきだと思うのです。
その為にも数学や理科は小学校の頃からその割合を増やすべきだと思っています。

以上、長々と書かせて頂きました。
お読み下されば幸いです。
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この回答へのお礼

こんばんは。

日本人の数学や理科の学力が低下していいとは言っていない。
しかし10代の成績に拘る事はなかろう。

周りより高度な数学を学ぶ事は勿論悪い事ではないです。
では数学を学ぶのを一旦辞めて、別の事に熱中する事は悪い事なんだろうか。
18歳で結果を出さなければいけない今の受験体制では、大抵の親御さんにとってそれは悪い事になってしまうだろう。
しかし10代の時は勝ち続ける事をするより、負けるだろう勝負に向かって行く勇気が大切だと思わないか。

学力の向上と人間の成長が両立できれば、それが理想の教育でしょう。
しかし今の受験体制でそれが不可能であるのは、お役人達が立証してくれています。
こないだ文部科学省は「ゆとり教育」の説明をどっかの体育館でやってました。
これは子供の頃からカラーテレビを見てきた若い世代にとって滑稽な光景でしかありません。
何かの理念があるなら何度でもテレビに出て来て説明してくれればいいだろう。
たとえそれが凡人には理解できない高尚なものであるにしても、自分のプライドのために国民にグッと向かって来るべきなのだ。
つまり彼らは勉強ばかりやってきて、説明能力も説明責任も持つ事ができなかったのでしょう。


数学は目の前の勝ち負けよりも、自分の将来の指針を示してくれるじゃないか。

お礼日時:2002/04/02 21:08

 ひとりひとりの幸せが大切か、日本という国家が大切か、という問題になりますね。

ゆったり教育というのは、前者の考え方です。また国家の安泰とか隆盛とかが、けっきょくは個人の幸せにつながるのだ、というのは後者ですね。
 しかしいま問われている、ゆったり教育論は、個人と国家をどちらを先にするか優先するかの問題ではなくて、損得とか勝負とか成長とか向上とか国力とかいうような、いわば今まで絶対の価値を持つと思われていたものが、どうやら変わり始めている、そういう価値観が崩壊しようとしている、一種の兆候であると見るべきでしょう。日本と日本人が変わろうとしているわけですね。
 わたしの個人的な考えでは、とても結構な時代が来ようとしているように思えます。経済国家から文化国家へ、競争社会から、のんびり社会へ、一等国から三等国へ、世界で一番ダメな国だが、国民は世界で一番幸せ、などなどという国へ、わが日本国は軌道修正に入っているらしいと感じています。
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この回答へのお礼

こんばんは。

変わり行く日本。
貴方はこれを感性で捉えられたのですか。

僕が日本社会がはっきり変わる方向に流れたと思ったのは、阪神大震災の後です。
ここで国民は政府のあり方にハッキリ不信感を持ったように思えます。
日本人が変わろうとしている気持ちに、もう後戻りはしないでしょう。

日本の構造改革もゆとり教育も、その結果はどうあれ、もうサイは投げられてしまっているように思えます。

お礼日時:2002/04/01 16:01

 どれほど本を読むかは、学のあるなしのひとつの目安になると思っています。

北杜夫がその著書の中で、50年前の高校生は「ダフニスとクロエ」を読んでいるのが当然だったと書いています。私は約20年前高校生でしたが、読んでいませんでした。決して読書家とは言えなかったけれども、そんなタイトルさえ聞いたことはありませんでした。私の頃の常識本を挙げれば、「老人と海」「異邦人」「雪国」「沈黙」といったところで、「坊ちゃん」は常識以前の問題であり、「三四郎」「それから」「門」あたりを読んでいるかどうかが読書家へのハードルでした。
 今はどうなんでしょうか。もっと読まなくなっていませんか。

 大人の学力というくだりがありますが、大人にペーパーテストを受けさせるつもりではないでしょうね。学校で習うことはまずは広く浅くの基礎部分です。やがて社会に出て仕事をするようになると、程度の差はあれ、ほとんどの人がその中の何かひとつの分野に特化していくのです。自動車修理工が徒然草の冒頭の文句を忘れているからといって責められることはないでしょう。多くの人は学校で学んだ知識のうち一部を役立てることになるのです。
 ですから学校で勉強した中で使わなくなる知識が多いのは当然です。だからといってきわめて早い時期に分野を限定して専門教育を行うのは危険です。
 ひとつの理由としては、専門バカを養成することになりかねないということ。社会に出ても与えられた仕事をするだけの人ならそれでもよいでしょう。しかし、自分で何かを作り出さなくてはいけない立場になる人は、一見何の関係もないような知識が柔軟な発想をもたらすということを知っておくべきで、その意味からよろしくありません。

 また、ひとつの分野に特化しない人もいます。ゼネラリストという言葉を使うようですが、要は経営者とか政治家など社会の中枢に関わる人に求められる資質です。こういう人は広い範囲の知識を持つことが絶対に必要です。広範囲にわたる決断を下さなくてはいけないからです。はじめは広く浅く、そしてだんだんと広く深く知ることが大切になります。不足している部分を補うためにはブレインとなる人も必要になってくるかもしれません。しかし、最終的には自分が判断することになります。
 こういう人にとっては、学校の勉強では不足です。しかも無駄な分野は存在しません。特に大学では自分で学ぶことを覚えて、それを実行してこないと社会で通用しません。極端に言えば、ダシの取り方から原爆の製造法まで知識として知っているか、もしくは調べる方法を知っていること。
 現にそういう資質を満たしていなくても、政治家にも官僚にもなっているではないかと問われるかもしれません。しかし、問題を起こしてみたり、問題を解決できなかったりしているのを見てみれば、やはりそういう人は政治家として、官僚として不適格であると考えることも出来ます。日本はそういう人が社会の中枢にいることも出来るわけですから、非常に将来に不安がある国だと思います。

 現在、多くの文系大学生は社会で求めるレベルに達しないまま大学を出てきています(理系は少なくとも専攻分野では社会に追いついているようです)。資格がどうのといった問題ではありません。簿記の2級を持っていても、まず経理で即戦力にはなりえません。それよりも、手紙をきちんと書ける人のほうが使いでがあります。
 何よりも問題発見能力の低さは嘆息すべきです。また、問題解決能力にも問題があります。どういうことになるかと言うと、仕事を与えてやらないと、自分では見つけられない。仕事のやり方を1から10まで教えてやらないと、自分でやり方を見つけられないといった具合です。大卒がこれでは、高卒を雇ったほうが悪癖を覚えていない分だけましではないか、と思わざるを得ません。一方、今の大人はそこまで無能ではありません。少なくとも自分で考える能力はこの木っ端大学生よりは確実にあります(暴言になってきた)。
 これは典型的な、教育による効果の表れと思います。自分で考えるには想像力が必要で、こういったものを身につける訓練が欠けているからこそ、揃いもそろって仕事を与えてくれるのを待っている、まるで犬みたいな新人が社会に出てくるのに違いありません(また暴言だ)。

 競争については、やはり教えておくべきことです。社会は日々競争の連続で絶えることはありません。商売の多くは決まった総数のパイを奪い合っており、実績の上下はゼロサムゲームです。しかし、どうもこういう説明では夢がありませんね。
 では別の言葉で。ヘミングウェイはこう言っています。
 「スポーツというやつは、正々堂々と戦って勝つよろこびを教えてくれるし、また、負けた者に対する思いやりも教えてくれる。つまり、スポーツは人生ってやつを教えてくれるんだ。」(うろおぼえで主旨のみご理解ください)

そういったことを知るのに小学生では早すぎるとは思いません。勝つこと負けることを経験する。いろんな個性・長所を持つ子供たちにそれを生かす機会を与える。必要なことだと思います。

 なお、文部科学省がどう考えているのかいま少し調べたところ、昨年の国会の文部科学委員会の中で、行き過ぎた結果平等主義はよろしくない旨の副大臣の発言があります。そして、順位をつけない徒競走といったものは、すでに過去のものになりつつあるとの報告があります。URLはその会議録です。

参考URL:http://www.shugiin.go.jp/itdb_main.nsf/html/kaig …
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この回答へのお礼

こんばんは。

質問の最後に、教育論を「ゆったり」聞かせて下さい、の一文を入れたのは、文部科学省の形式的な見解には興味なく、貴方の教育への思いを気楽に語って下さいという意です。

(スポーツは人生ってやつを教えてくれるんだ)
ホンマ僕にとってはその通りでした。
子供の頃スポーツマンシップを学んでいなければ、社会や教育について特に考える事もなかったでしょう。
スポーツは小学生全員に是非やって欲しいと思ってます。

ところが監督やコーチは大会で勝って結果を残したいと思うでしょう。
しかし生徒にとっては、その大会での結果はそれほど重要なものなのでしょうか。
僕は20歳過ぎてから結果に拘る選手であって欲しいし、そういう制度であって欲しい。
学問は更に遅く、25歳、30歳過ぎてから結果を残そうとする人間であって欲しいし、そういう社会制度であって欲しい。

それが正々堂々と競い合える条件のように、僕のスポーツマンシップが感じてしまうのです。

お礼日時:2002/03/31 17:59

『ゆったり』と話す能力に欠けていますので、私の意見の要点のみ書かせていただきます。



『ゆとりの教育』を肯定される方々は、将来の日本が今のように豊かであると勘違いされているのではないでしょうか。
どこに今の日本の豊かさを将来にまで保障してくれるところがあるでしょう。

今の日本の経済的豊かさはひとえに科学技術によるもので、観光や天然資源などの輸出における外貨獲得によるものでは決してありません。
農業大国であるアメリカやフランスやドイツなどよりもはるかに科学技術に頼らざるを得ない日本の子供たちの理科や数学の学力は、既に先進国の中でかなり低いレベルまで落ちてきています。
中国や台湾や韓国にかなり離されてしまったのです。

このまま行けば100年も経たないうちに中国や韓国の『下請け』的技術しか持ち得ない国になってしまいます。
言い換えれば収入が下がり満足に輸入もできなくなり、かと言って自国で農産物を増産する条件にも恵まれておらず八方ふさがりになってしまうということです。
既に半導体技術などでは日本では追いつけない分野もあるのです。

日本の経済力は経済学者や商社が作り出した物ではないのです。
経済学者や商社がどんなに知恵を絞っても、国際競争力の無い商品は全く売れないのです。
その競争力の一番の要因が『技術力』です。
そしてその『技術力』を支えるのが数学や理科の学力だということを理解できない人の見識を疑います。
学力は若いうちに高める必要があり、30歳になってから勉強しても追いつくのは至難の業です。

どうして落ちこぼれを無くすために学習内容のレベルを下げるのか理解できません。
既に数十年にわたり数学などの学習レベルを落としてきた弊害が顕著に現れているにも関らず、また大幅に下げるのですから何をか謂わんやです。
なぜ高いレベルの学習を望む生徒の機会を奪うのでしょうか。(高いといっても世界的に見れば普通のレベルですが)

今までの教育で足りないところは、トップを走る生徒が他の生徒と対等であることを教えないことと、どうしてもできない学習を回避して個々の生徒に合った学習を選択する機会が無いことです。
トップを走ってきた生徒がそのスピードを緩めることなく、他の生徒と対等であることを教えることを怠ってきたのです。
対等や平等を重んじるが故にトップの生徒のスピードを落とすことが、本末転倒であることに気付かない人がいることに驚きを隠せません。
トップを走る生徒はその分野で才能を伸ばし、その才能で国や世界の発展に貢献する広い意味での責務を負っているのだし、他の生徒も自分でできる範囲での社会貢献をするためにさまざまな勉強を続ければいいのです。

横並びにレベルを落とすことの愚かさに、文部科学省が早く気付いてくれることを祈るばかりです。
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この回答へのお礼

こんばんは。

僕は子供の頃、数学の勉強をコツコツやってました。
中学の時には周りから一歩抜けた感じがしましたが、その事で未来が明るくなったわけではありませんでした。
トップを走るのは肩に力が入ったロボットのように思えてきたのです。
それで高校は数学は辞めて朝から晩まで野球の練習です。
浪人して今度は文系の受験勉強です。

数学は大人になってから学び直しました。
僕は数学への愛着を持ち続けていたのです。
この時、数学は初めて僕に未来を見せてくれました。

この質問の主旨は、若い時は将来の職業に直接役に立たない事もやるべきではないかと言うことです。
今の子供達にはそういう「ゆとり」の発想から学ぶ楽しさが生まれてくるのではないかと思うのです。

お礼日時:2002/03/30 21:17

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「劣っている」ことの代名詞に使われるほど、「ゆとり」という言葉だけが独り歩きしているように、私には思われます。
でも具体的に、「ゆとり」教育を受けた世代の人たちの学力が、他の世代と比べて劣っていることを示す 客観的・科学的な調査結果はあるのでしょうか?
そのようなデータの所在や、内容のあらまし などを教えて下さい。

Aベストアンサー

検証に耐えられる客観的な実証研究データはない。

No2にある各世代のPISAの国際ランキングはあてにならない。自国のレベルが上がっていても、他国のレベルがそれ以上に上がっていれば順位は落ちる。

例えば、里谷多恵のモーグルの実力は長野よりバンクーバーの方が上だが、周りのレベルがそれ以上に上がったので順位が落ちた。

Q団塊の世代が新人類を作り。 新人類がゆとり世代を作るまでは 仕方ないが。 ゆとり世代が悟り世代を教育

団塊の世代が新人類を作り。
新人類がゆとり世代を作るまでは 仕方ないが。
ゆとり世代が悟り世代を教育するのって 無理ないですか??

Aベストアンサー

団塊の世代 1947~1950年
新人類1961~1970
ゆとり世代 1987~2004年
さとり世代 1990年代うまれ

 産むのではなく教育して人格を作るのなら団塊の世代が新人類を作ることは可能ですが(笑)
新人類がゆとり世代を産むことは可能ですね(笑)私が家がそうですし。
ゆとり世代とさとり世代はほぼ同じ世代ですが、ゆとり世代の大卒の新任教師が高校生のさとり世代に教鞭をとることはもちろん可能です。数歳しか変わりませんし。

Q実際お仕事を経験した実績のある人間VS学歴社会で勝ち抜いた知識階級の人間一体どちらを大切にされますか?

お仕事の関係でアジア諸国の知識階級の人に対してとても感心します。彼ら達はいろんな意味で優秀でエリートの知識人です、大抵近い将来保証される職を持ちます、場合によって国に戻れば政府レベルの優遇されて、また国の将来の運命に影響を与える立場として珍重されるています。しかしながら日本の方は既に30年~40年前の学歴社会から脱皮され、今はどの大学及び大学院卒業されても必ずしも企業に採用され優遇される事は誰も保証できない、本格的な就職氷河期にたたされてます。また日本の大学と大学院の学歴を持つことによって何か保証され、何か専門とする職を持つ事も無く、色んな面での優遇されるケースは減ってきた。逆に学歴の無い、自らの夢を抱いて職人を目指す若い努力家も少なくない、こういった何かしら家庭の事情で若いうちに自ら独立され手に職を持つ学歴の無い人たちは、まさに社会から厳しい試練を受け、人間の人徳の面から見ても職業的に専門の職人としての完成度は非常に高いです。親の甘え汁を吸っている大学生や大学院生(もちろん親離れして努力されている人も居ります。)と較べると、学歴の無い彼らは意外に孤独で苦労人です、選択した道に対していろんな面で試行錯誤したり悩んだりしてます、やっと苦労を乗り越え職人として認められるんです。最近の中国及び韓国と諸外国の知識階級の方の厳しい学歴競争はまるで日本の30年~40年前の状況に近いっと思います。何故なら歴代各国の創業者や偉人は必ずしも学歴のある人では無かった、むしろ学歴は無くて差別をされながら努力に苦労をかさねて実際現場で実現と経験をして、ある日初めて社会からの認められる人間は沢山います。では、実際お仕事を経験した実績のある人間VS学歴社会で勝ち抜いた知識階級の人間一体どちらを大切にされて珍重されますか?ご意見を頂きたいです。

お仕事の関係でアジア諸国の知識階級の人に対してとても感心します。彼ら達はいろんな意味で優秀でエリートの知識人です、大抵近い将来保証される職を持ちます、場合によって国に戻れば政府レベルの優遇されて、また国の将来の運命に影響を与える立場として珍重されるています。しかしながら日本の方は既に30年~40年前の学歴社会から脱皮され、今はどの大学及び大学院卒業されても必ずしも企業に採用され優遇される事は誰も保証できない、本格的な就職氷河期にたたされてます。また日本の大学と大学院の学歴を持...続きを読む

Aベストアンサー

ほかの方も書かれていますが、学歴で得た知識と社会で得た知識とは同レベルで扱える問題ではないと思います。どちらもベクトルが若干ずれて存在していますのでどちらも大事です。

世の中に知識と呼ばれるものなかでもいろいろあると思います。社会で必要とされる知識、技能もしかりです。外国語というものは具体的にどれだけ使えるかというのが重要であって資格、検定ということは本来意味がないでしょうし、英語圏で見た場合は日本の資格なんぞ全く無意味なものでしょう。
PCのスキルもしかりです。

ですが高度な論理的思考、法律的解釈、特定の科学分野の知識などは社会に出てから取得するのは困難です。低学歴の人は取得する機会すらないわけですから比較するだけ無駄です。
会社で学ぶ知識と大学・院で学ぶ知識は目的・方法からして違うのですが、世の中では両方必要です。

過去の偉人がどのような経歴であったかはすでにこれから訪れる未来とは異なった時代背景ですので参考度はますます低くなると思いますが。
学歴だけで使えないひとより、社会で経験をつみ技術を持った人の方が評価されるのは当たり前ですが、学歴もあり、技術もある人が学歴がなく技術もある人より評価されるのもまた当然です。
学歴というのは単に大学を卒業したというだけでなく、それにふさわしい高度な思考能力、知識を身につけ、その結果社会でもさらに知識を習得し結果を残せる人間というのが本来評価されるポイントで、現在の日本はそのようになっているのではないでしょうか?
つまり世の中の評価基準がより厳しく、より洗練されてきた以上、この2つのうち1つがかけているというだけですでに致命傷だと思います。
無論どちらも後から取得することは可能ですので、就職後に大学に戻るというのもありだと思いますし、1度働いたら学生には戻れないという考えの方がおかしいと思います

ほかの方も書かれていますが、学歴で得た知識と社会で得た知識とは同レベルで扱える問題ではないと思います。どちらもベクトルが若干ずれて存在していますのでどちらも大事です。

世の中に知識と呼ばれるものなかでもいろいろあると思います。社会で必要とされる知識、技能もしかりです。外国語というものは具体的にどれだけ使えるかというのが重要であって資格、検定ということは本来意味がないでしょうし、英語圏で見た場合は日本の資格なんぞ全く無意味なものでしょう。
PCのスキルもしかりです。

です...続きを読む

Q【アメリカの奴隷制度でジャズ文化が生まれ、日本の労働奴隷制度では自殺文化しか生まれなかった】 日本の

【アメリカの奴隷制度でジャズ文化が生まれ、日本の労働奴隷制度では自殺文化しか生まれなかった】


日本の非正規労働は負の文化しか生まなかったのになぜ未だに続けているのでしょう?

企業奴隷に良い文化が生まれた事例はあるのですか?

Aベストアンサー

> なぜ未だに続けているのでしょう?

奴隷からは解放されても、失業者になりますが?

> 企業奴隷に良い文化が生まれた事例はあるのですか?

非正規雇用の問題は、身分が不安定であることと、正規雇用と比べ、生涯賃金が低いこと。

逆に言えば、短期労働の前提であれば、非正規雇用の方が有利な面も多々あり。
上手く賢く、派遣労働などを利用している人も多いです。

非正規雇用とは、労使双方にとっての「選択肢」に過ぎません。
その選択肢を奪い、減らすことは、必ずしもバラ色の結果は生じず・・。
恐らく、悪い結果の方が多いかと。

Q私はゆとり教育の影響を大きく受けているのでしょうか

閲覧いただきありがとうございます。


ゆとり世代の二十代です。
7月26日に放送された、日本テレビ系列「コレってアリですか?」というのバラエティー番組で、

「ゆとり世代は失敗を恐れるため、マニュアルを必要とする」
「ゆとり世代は怒られ慣れていないため、少しのことでもへこむ」

などと放送され、私は上記の2つが当てはまりました。
マニュアルはあれば、相手に失礼の無い様振舞え、仕事に馴染むのも早いと思いますし、
私はゆとり世代でもありますが、いわゆる完璧主義者でもあるので、小さな失敗でも大きくへこむことが常です。

やはり、私はゆとり教育の影響を大きく受けているのでしょうか。
だとしたら、仕事などで話す相手に不快な思いを与えているのではないかと心配です。
また、ゆとり世代だと甘く思われるのも好ましくありません。
(この失敗を恐れる考えや他人を気にすること自体がゆとり独特の考え方なのかもしれません)

皆さんはどうお考えでしょうか。
よろしければご回答お願いいたします。

Aベストアンサー

>「ゆとり世代は怒られ慣れていないため、少しのことでもへこむ」

これには少し疑問があります。
私の場合、親に虐待に近いスパルタ教育を施されました。
当然、叱られましたし怒られまくりました。
なのに、いざ叱られると物凄くヘコミます。
この事を考えると、叱られ慣れないから、へこむというのは理屈として合いません。

理屈として合うのは強迫観念なのだと感じます。
仮に教育の段階で『能力がないなら生きていけない!』という強い刷り込みを与えられていたとします。
叱られる事が能力が無い自分を自覚するキッカケになるなら、その結果として生きていけないという不安を抱えヘコミます。

もし、ゆとり教育の影響があったとすれば、授業時間が減った事に悲観して、親が子供を塾に通わせる等でプレッシャーを与えて、『能力がないなら生きていけない!』と思わせた事が原因かもしれません。
でも、それはゆとりが教育が無かったとしても同じ事かもしれないです。
社会不安がある限り、プレッシャーを与えるでしょうから・・・

これが40~50歳世代の人だったら、『能力がないなら生きていけない!』という刷り込みは、とても少なかったと思います。
その世代は子供時点では不況は訪れて無いですから、社会不安も今よりも小さいです。
不安が無い世代に育てられれば、その分、プレッシャーそのものも少ないから『能力がないなら生きていけない!』という刷り込みも少ないです。

ゆとり問題は、親が不況を体験した事で、それを教訓として子供に教育してしまった事にあると思います。
そしてその事を殆どの人が気付いていないのが、問題をより一層大げさにさせていると感じます。

いずれにせよ、へこみ体質とは共存するしか道は無いですから、一緒に頑張りましょう。

>「ゆとり世代は怒られ慣れていないため、少しのことでもへこむ」

これには少し疑問があります。
私の場合、親に虐待に近いスパルタ教育を施されました。
当然、叱られましたし怒られまくりました。
なのに、いざ叱られると物凄くヘコミます。
この事を考えると、叱られ慣れないから、へこむというのは理屈として合いません。

理屈として合うのは強迫観念なのだと感じます。
仮に教育の段階で『能力がないなら生きていけない!』という強い刷り込みを与えられていたとします。
叱られる事が能力が無い自分を自...続きを読む


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