今年の桜は咲き急いでいますが、今年施行の「ゆとり」教育は学問の遅咲きを願うものだと解釈してます。

「ゆとり」である以上学力は当然低下します。
これを愚民教育と評する人も多いですけど、そういう大人達の今の学力はどれほどあるのでしょうか。
大人になるとパッと忘れてしまうような知識で、受験競争をいつまでも続けている事の方が愚かな行為ではないでしょうか。

学問も料理や工芸の職人と同じく、30歳ぐらいで資格の取れる社会を構築するべきではないかと思います。
子供の頃から知識を詰め込んできた東大生より、アルバイトをしながら、人と対話しながら自主的に一日2時間ほどの学習を長く続けてきた人の方が、同じ知識量でも何か人間的な面で違いが生まれるように思います。

競争も大切ですが、それと同じぐらい「ゆったり」と時間を過ごすのは大人にも子供にも大切なものではないでしょうか。
人の知性は緊張の時生まれるものもあれば、緩和の時生まれるものもあるでしょう。

小学校の徒競争で、トップで走って来た生徒がゴール前立ち止まり後ろを振り返って、全員が手を繋いでゴールするという授業があります。
皆が一斉に批判するこの授業ですが、僕にはこれが羨ましいのです。

トップを走って来た生徒がゴール前立ち止まって後ろを振り返ります。
まるで大切な落し物を探すかのように。

お暇あらば、貴方の教育論「ゆったり」と聞かせて下さい。tiger-ryuji

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A 回答 (24件中21~24件)

再投稿です。



お礼の欄に書いて頂いた、「若い時は将来の職業に直接役に立たない事もやるべきではないか」ということについては当然そうあるべきです。
しかしその事と才能ある子供を子供のうちにもっとその才能を伸ばしてやることが、どうして両立しないと思ってしまうのか不思議です。
将来の職業には役に立たない様々なことをやりながらも、小学校で高校の数学をやりたい子供にはやらせて上げられるというのがどうしていけないのか理解に苦しみます。
なぜ難しいことを学びたいのに、『それは悪いことだ』などと言って足を引っ張るべきなのか。

バスケットで言えば皆均等にシュートを決めないといけないのでしょうか。
皆がポイントゲッターにボールを集めて、チームワークの良さでより多くの得点を入れることが素晴らしいことではないのですか?
ドリブルが上手な人、シュートが上手な人、パスが上手な人、リバウンドを拾うのが上手な人など、それぞれがお互いを理解して尊重するように教える事が正しい教育だと思います。
たとえそれが小学生であってもです。
能力が欠けているのにそれを知らされず、『みんなと同じ』と思ってしまうことこそ悲劇です。

もう一つ、『三等国家でも皆が幸せ』という意見がありましたが、発展途上にある国家ではそういうことも有り得るかもしれません。
しかし、一度豊かになった国が貧困に向かうとき、『清貧』などと言う言葉は存在しませんよ。
豊かさを知らないからこそ『清貧』でいられるのです。
たとえその中に『清貧』があったとしても、それは知的レベルの高い一部の人間にしか存在しません。
豊かな国から貧しい国へ移行するとき、必ず暴力や富の一極集中が起こります。
そして国全体がスラム化してゆくのです。
このときに歴史教育で豊臣秀吉や聖徳太子の偉業を話して聞かせても、盗みを働かないと生きてゆけない子供たちの耳に入ってゆくでしょうか。

日本は既に後戻りのできない所まで来てしまったのです。
貧しくなることは許されない状況だということが分っていない『楽観主義者』のために、日本全体が危うくなろうとしている事に気付いている人が、もっと大声で発言してもらいたいと思っています。

もう一度言わせて貰いますが、数学や理科が国際的に低いレベルのままで、科学技術立国である日本の経済が維持できることは100%在り得ません。
このことは断言できます。
そして貧しくなればなるほど、教育に掛ける国家予算も無くなっていくのです。
軽々しく『貧しくても心の豊かな国』などといって欲しくはありません。
『貧しい国』は一部の富裕層を除いて、辛く住みにくい国であることに早く気付いて、生命線である科学技術を活かし経済的に豊かなままで心も豊かになる道を選択するべきだと思います。

最後にもう一つ、日本の今までの教育で一番の間違いは、記憶力に重きを置いたことです。
記憶などは大して重要ではないことに、多くの人が気付いていません。
大切なのは『思考力』です。
物事につじつまを合わせ総合的に理解し、それを使って新たな物を創造する力です。
カブトムシは蜜を吸うと覚えているだけの子供と、蜜を吸うのだから砂糖水を染ませた綿を木に置いておけばカブトムシが集まってくるかも?と考える子供とでは雲泥の違いがあります。
『知っている子供』ではなく『考える子供』になってもらいたいのです。

Dejimaさんも書いておられるように文系の大学では英語や社会や国語というほとんど記憶以外は必要のない科目だけで入学してしまいます。
そしてその人たちが社会に出て人の上に立っているのです。
もちろんその中には非常に優れた『思考力』も持ち合わせている人もいますが、かなり多くの人がテレビとビデオデッキやパソコンとプリンターの接続などという、説明書を読めば小学生でもやれることすらできない『低能力』であることは否定できません。
内部のシステムと違い電線は眼に見えるのですから、何をどこにつないだらいいか説明書を見れば明白です。
これは文系、理系とか得手、不得手とか専門、専門外の問題ではなく『常識』です。
この程度のことを『難しいこと』などと思うこと自体が、『学問的』にではなく人間の基本的な部分に於いて『低能力』『常識外れ』の証なのです。
その『低能力』を省みることもせず『ゆとり教育』などと言っている官僚などには『何様のつもりなのか』と言ってやりたい気持ちで一杯です。

Dejimaさんが仰るように、人の上に立つ人は総合的な知識と能力(思考力)を備えた人でなくてはならないのに、テレビとビデオを接続するだけで電気屋を呼ぶ人間が、どうして人の上に立てるでしょうか。
こういうところに日本の教育の矛盾があります。

考える教科を子供のうちにしっかりとやり、十分な『思考力』を身に付けてから覚える教科をやるべきだと思うのです。
その為にも数学や理科は小学校の頃からその割合を増やすべきだと思っています。

以上、長々と書かせて頂きました。
お読み下されば幸いです。
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この回答へのお礼

こんばんは。

日本人の数学や理科の学力が低下していいとは言っていない。
しかし10代の成績に拘る事はなかろう。

周りより高度な数学を学ぶ事は勿論悪い事ではないです。
では数学を学ぶのを一旦辞めて、別の事に熱中する事は悪い事なんだろうか。
18歳で結果を出さなければいけない今の受験体制では、大抵の親御さんにとってそれは悪い事になってしまうだろう。
しかし10代の時は勝ち続ける事をするより、負けるだろう勝負に向かって行く勇気が大切だと思わないか。

学力の向上と人間の成長が両立できれば、それが理想の教育でしょう。
しかし今の受験体制でそれが不可能であるのは、お役人達が立証してくれています。
こないだ文部科学省は「ゆとり教育」の説明をどっかの体育館でやってました。
これは子供の頃からカラーテレビを見てきた若い世代にとって滑稽な光景でしかありません。
何かの理念があるなら何度でもテレビに出て来て説明してくれればいいだろう。
たとえそれが凡人には理解できない高尚なものであるにしても、自分のプライドのために国民にグッと向かって来るべきなのだ。
つまり彼らは勉強ばかりやってきて、説明能力も説明責任も持つ事ができなかったのでしょう。


数学は目の前の勝ち負けよりも、自分の将来の指針を示してくれるじゃないか。

お礼日時:2002/04/02 21:08

 ひとりひとりの幸せが大切か、日本という国家が大切か、という問題になりますね。

ゆったり教育というのは、前者の考え方です。また国家の安泰とか隆盛とかが、けっきょくは個人の幸せにつながるのだ、というのは後者ですね。
 しかしいま問われている、ゆったり教育論は、個人と国家をどちらを先にするか優先するかの問題ではなくて、損得とか勝負とか成長とか向上とか国力とかいうような、いわば今まで絶対の価値を持つと思われていたものが、どうやら変わり始めている、そういう価値観が崩壊しようとしている、一種の兆候であると見るべきでしょう。日本と日本人が変わろうとしているわけですね。
 わたしの個人的な考えでは、とても結構な時代が来ようとしているように思えます。経済国家から文化国家へ、競争社会から、のんびり社会へ、一等国から三等国へ、世界で一番ダメな国だが、国民は世界で一番幸せ、などなどという国へ、わが日本国は軌道修正に入っているらしいと感じています。
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この回答へのお礼

こんばんは。

変わり行く日本。
貴方はこれを感性で捉えられたのですか。

僕が日本社会がはっきり変わる方向に流れたと思ったのは、阪神大震災の後です。
ここで国民は政府のあり方にハッキリ不信感を持ったように思えます。
日本人が変わろうとしている気持ちに、もう後戻りはしないでしょう。

日本の構造改革もゆとり教育も、その結果はどうあれ、もうサイは投げられてしまっているように思えます。

お礼日時:2002/04/01 16:01

 どれほど本を読むかは、学のあるなしのひとつの目安になると思っています。

北杜夫がその著書の中で、50年前の高校生は「ダフニスとクロエ」を読んでいるのが当然だったと書いています。私は約20年前高校生でしたが、読んでいませんでした。決して読書家とは言えなかったけれども、そんなタイトルさえ聞いたことはありませんでした。私の頃の常識本を挙げれば、「老人と海」「異邦人」「雪国」「沈黙」といったところで、「坊ちゃん」は常識以前の問題であり、「三四郎」「それから」「門」あたりを読んでいるかどうかが読書家へのハードルでした。
 今はどうなんでしょうか。もっと読まなくなっていませんか。

 大人の学力というくだりがありますが、大人にペーパーテストを受けさせるつもりではないでしょうね。学校で習うことはまずは広く浅くの基礎部分です。やがて社会に出て仕事をするようになると、程度の差はあれ、ほとんどの人がその中の何かひとつの分野に特化していくのです。自動車修理工が徒然草の冒頭の文句を忘れているからといって責められることはないでしょう。多くの人は学校で学んだ知識のうち一部を役立てることになるのです。
 ですから学校で勉強した中で使わなくなる知識が多いのは当然です。だからといってきわめて早い時期に分野を限定して専門教育を行うのは危険です。
 ひとつの理由としては、専門バカを養成することになりかねないということ。社会に出ても与えられた仕事をするだけの人ならそれでもよいでしょう。しかし、自分で何かを作り出さなくてはいけない立場になる人は、一見何の関係もないような知識が柔軟な発想をもたらすということを知っておくべきで、その意味からよろしくありません。

 また、ひとつの分野に特化しない人もいます。ゼネラリストという言葉を使うようですが、要は経営者とか政治家など社会の中枢に関わる人に求められる資質です。こういう人は広い範囲の知識を持つことが絶対に必要です。広範囲にわたる決断を下さなくてはいけないからです。はじめは広く浅く、そしてだんだんと広く深く知ることが大切になります。不足している部分を補うためにはブレインとなる人も必要になってくるかもしれません。しかし、最終的には自分が判断することになります。
 こういう人にとっては、学校の勉強では不足です。しかも無駄な分野は存在しません。特に大学では自分で学ぶことを覚えて、それを実行してこないと社会で通用しません。極端に言えば、ダシの取り方から原爆の製造法まで知識として知っているか、もしくは調べる方法を知っていること。
 現にそういう資質を満たしていなくても、政治家にも官僚にもなっているではないかと問われるかもしれません。しかし、問題を起こしてみたり、問題を解決できなかったりしているのを見てみれば、やはりそういう人は政治家として、官僚として不適格であると考えることも出来ます。日本はそういう人が社会の中枢にいることも出来るわけですから、非常に将来に不安がある国だと思います。

 現在、多くの文系大学生は社会で求めるレベルに達しないまま大学を出てきています(理系は少なくとも専攻分野では社会に追いついているようです)。資格がどうのといった問題ではありません。簿記の2級を持っていても、まず経理で即戦力にはなりえません。それよりも、手紙をきちんと書ける人のほうが使いでがあります。
 何よりも問題発見能力の低さは嘆息すべきです。また、問題解決能力にも問題があります。どういうことになるかと言うと、仕事を与えてやらないと、自分では見つけられない。仕事のやり方を1から10まで教えてやらないと、自分でやり方を見つけられないといった具合です。大卒がこれでは、高卒を雇ったほうが悪癖を覚えていない分だけましではないか、と思わざるを得ません。一方、今の大人はそこまで無能ではありません。少なくとも自分で考える能力はこの木っ端大学生よりは確実にあります(暴言になってきた)。
 これは典型的な、教育による効果の表れと思います。自分で考えるには想像力が必要で、こういったものを身につける訓練が欠けているからこそ、揃いもそろって仕事を与えてくれるのを待っている、まるで犬みたいな新人が社会に出てくるのに違いありません(また暴言だ)。

 競争については、やはり教えておくべきことです。社会は日々競争の連続で絶えることはありません。商売の多くは決まった総数のパイを奪い合っており、実績の上下はゼロサムゲームです。しかし、どうもこういう説明では夢がありませんね。
 では別の言葉で。ヘミングウェイはこう言っています。
 「スポーツというやつは、正々堂々と戦って勝つよろこびを教えてくれるし、また、負けた者に対する思いやりも教えてくれる。つまり、スポーツは人生ってやつを教えてくれるんだ。」(うろおぼえで主旨のみご理解ください)

そういったことを知るのに小学生では早すぎるとは思いません。勝つこと負けることを経験する。いろんな個性・長所を持つ子供たちにそれを生かす機会を与える。必要なことだと思います。

 なお、文部科学省がどう考えているのかいま少し調べたところ、昨年の国会の文部科学委員会の中で、行き過ぎた結果平等主義はよろしくない旨の副大臣の発言があります。そして、順位をつけない徒競走といったものは、すでに過去のものになりつつあるとの報告があります。URLはその会議録です。

参考URL:http://www.shugiin.go.jp/itdb_main.nsf/html/kaig …
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この回答へのお礼

こんばんは。

質問の最後に、教育論を「ゆったり」聞かせて下さい、の一文を入れたのは、文部科学省の形式的な見解には興味なく、貴方の教育への思いを気楽に語って下さいという意です。

(スポーツは人生ってやつを教えてくれるんだ)
ホンマ僕にとってはその通りでした。
子供の頃スポーツマンシップを学んでいなければ、社会や教育について特に考える事もなかったでしょう。
スポーツは小学生全員に是非やって欲しいと思ってます。

ところが監督やコーチは大会で勝って結果を残したいと思うでしょう。
しかし生徒にとっては、その大会での結果はそれほど重要なものなのでしょうか。
僕は20歳過ぎてから結果に拘る選手であって欲しいし、そういう制度であって欲しい。
学問は更に遅く、25歳、30歳過ぎてから結果を残そうとする人間であって欲しいし、そういう社会制度であって欲しい。

それが正々堂々と競い合える条件のように、僕のスポーツマンシップが感じてしまうのです。

お礼日時:2002/03/31 17:59

『ゆったり』と話す能力に欠けていますので、私の意見の要点のみ書かせていただきます。



『ゆとりの教育』を肯定される方々は、将来の日本が今のように豊かであると勘違いされているのではないでしょうか。
どこに今の日本の豊かさを将来にまで保障してくれるところがあるでしょう。

今の日本の経済的豊かさはひとえに科学技術によるもので、観光や天然資源などの輸出における外貨獲得によるものでは決してありません。
農業大国であるアメリカやフランスやドイツなどよりもはるかに科学技術に頼らざるを得ない日本の子供たちの理科や数学の学力は、既に先進国の中でかなり低いレベルまで落ちてきています。
中国や台湾や韓国にかなり離されてしまったのです。

このまま行けば100年も経たないうちに中国や韓国の『下請け』的技術しか持ち得ない国になってしまいます。
言い換えれば収入が下がり満足に輸入もできなくなり、かと言って自国で農産物を増産する条件にも恵まれておらず八方ふさがりになってしまうということです。
既に半導体技術などでは日本では追いつけない分野もあるのです。

日本の経済力は経済学者や商社が作り出した物ではないのです。
経済学者や商社がどんなに知恵を絞っても、国際競争力の無い商品は全く売れないのです。
その競争力の一番の要因が『技術力』です。
そしてその『技術力』を支えるのが数学や理科の学力だということを理解できない人の見識を疑います。
学力は若いうちに高める必要があり、30歳になってから勉強しても追いつくのは至難の業です。

どうして落ちこぼれを無くすために学習内容のレベルを下げるのか理解できません。
既に数十年にわたり数学などの学習レベルを落としてきた弊害が顕著に現れているにも関らず、また大幅に下げるのですから何をか謂わんやです。
なぜ高いレベルの学習を望む生徒の機会を奪うのでしょうか。(高いといっても世界的に見れば普通のレベルですが)

今までの教育で足りないところは、トップを走る生徒が他の生徒と対等であることを教えないことと、どうしてもできない学習を回避して個々の生徒に合った学習を選択する機会が無いことです。
トップを走ってきた生徒がそのスピードを緩めることなく、他の生徒と対等であることを教えることを怠ってきたのです。
対等や平等を重んじるが故にトップの生徒のスピードを落とすことが、本末転倒であることに気付かない人がいることに驚きを隠せません。
トップを走る生徒はその分野で才能を伸ばし、その才能で国や世界の発展に貢献する広い意味での責務を負っているのだし、他の生徒も自分でできる範囲での社会貢献をするためにさまざまな勉強を続ければいいのです。

横並びにレベルを落とすことの愚かさに、文部科学省が早く気付いてくれることを祈るばかりです。
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この回答へのお礼

こんばんは。

僕は子供の頃、数学の勉強をコツコツやってました。
中学の時には周りから一歩抜けた感じがしましたが、その事で未来が明るくなったわけではありませんでした。
トップを走るのは肩に力が入ったロボットのように思えてきたのです。
それで高校は数学は辞めて朝から晩まで野球の練習です。
浪人して今度は文系の受験勉強です。

数学は大人になってから学び直しました。
僕は数学への愛着を持ち続けていたのです。
この時、数学は初めて僕に未来を見せてくれました。

この質問の主旨は、若い時は将来の職業に直接役に立たない事もやるべきではないかと言うことです。
今の子供達にはそういう「ゆとり」の発想から学ぶ楽しさが生まれてくるのではないかと思うのです。

お礼日時:2002/03/30 21:17

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