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伊是名島は位置的には北部なのになぜ島尻郡なのですか。

A 回答 (1件)

伊是名島は位置的には北部なのになぜ島尻郡なのですか。



伊是名島は本島辺土岬より北、伊平屋島を挟んでいるとはいえ一望することが出来る距離にありながら、なぜ、はるか南の島尻郡に属しているのでしょうか。不思議と言えば不思議ですね。

廃藩置県で「伊平屋島役所」が置かれる

明治12年明治政府は廃藩置県を断行し、沖縄県を大きく9地区に分け、それぞれに役所を置いたのです。那覇、首里、国頭、中頭、島尻,宮古、八重山、久米島、伊是名、の9つです。この時、伊江島間切は国頭に、渡嘉敷、座間味などの離島は那覇に属していました。伊是名島と久米島は単独で役所を置く事になった訳で、島と本島の交流が首里、那覇を主としていたからと考えられます。

 明治15年~29年は、「那覇区」に編入

明治12年の廃藩置県で赴任して来た島根県士族戸田敬義役所長は、たびたび島の状況を県庁に報告し、明治14年12月27日の「甲第129号布達」で、次のように「伊平屋島役所」を廃止、「那覇役所」の所管にする事を決めました。

 明治29年に島尻郡に編入

明治政府は、明治29年に2区分(首里、那覇)、5群(国頭、中頭、島尻、宮古、八重山)を編成しました。この時、那覇区に属していた伊平屋、久米島とともにすべての本島周辺離島は、島尻郡に編入され、さらに明治42年に「島興町村制」の施行で村制がスタートし伊是名村(昭和14年までは伊平屋村)は、昭和20年の米国統治まで沖縄県島尻郡伊是名村と呼称していました。

 昭和47年、祖国復帰に際しても島尻郡を選択

昭和20年~昭和47年の米国統治下では「郡」問題は、それほど論議されるようなことはありませんでした。しかし、いざ復帰となり、「郡」問題がクローズアップされました。琉球政府総務局は、国頭郡への編入を打診してきましたが、村当局は毅然として「われわれは島尻郡である事」明言したのであります。

 島尻郡であるための珍現象

小中学校の教科書は島尻郡と同じものを使用しているが教育行政は国頭教育事務所の管轄です。
南部振興会に財産をもちながら、北部広域事務組合に加わって北部行政と一体になっています。

参考URL:http://www.rik.ne.jp/izena/
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この回答へのお礼

歴史の流れの中でこんな風になったんですね。
詳しく教えてくださり、ありがとうございました。

お礼日時:2002/04/18 11:17

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