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 先日、大学の経済学史の講義において、「スミスが『国富論』において自由な競争を擁護したのは現代の市場原理主義的な効率の観点ではなくて、衡平という観点からである」と教授が言っていたのですがこれはどのような意味でしょうか?
 スミスの『国富論』は自由な競争による効率性によって社会全体の利益が達成されるという市場原理を説いたものではないのでしょうか?
どなたか、よろしくお願いします。

A 回答 (5件)

スミスの日本語の通名である国富論(詳しくは,諸国民の富の本質と書原因に関する研究)を読めば,先生のおっしゃることは明白になるでしょう.スミスは,前半で富について,そして,価格論,そして,最後のほうで市場万能主義の限界を説いているからです.第5編第1章.


これは,いわゆる「市場の失敗」の先取りです.前で市場原理とといておきながら,すでにその限界をも説いているのは,すごいと思いませんか?厳密には長期ミクロ論に則っていますが,現代のミクロ経済学の大枠です.

スミスは,個人の財産のあり方は,自己の利益に任せるべきだが,
財産を守る経済秩序は,市場には任せられないという政府と公共政策のあり方を論じているからです.教育や交通や安全(警察)など,利潤追求に任せておいては社会は衰えてしまいます.すなわち,衡平というのはもっと道徳的なのです.自由主義「的」経済哲学という叙述の中にスミスが位置づけられていることからも分かると思います.単にスミス=市場原理の解釈はうすぺらくなったしまいます.スミスがグラスゴー大学で倫理を教えていた経歴からも窺い知れます.
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この回答へのお礼

ありがとうございました。とても参考になりました。
少しずつですが、スミスが現代の市場原理主義者とは違うということがわかってきました。しかし、スミスは少し楽観的すぎるような気もします。つまり、スミスの理論によって経済が発展したとしても労使間の力関係の差は解消されるどころか益々広がってしまうような気がします。かといって、法律などによって資本家階級の利己心のみを制限するようなことはスミスの理論に反してしまう様な気もします。結局、国富論では富と徳の両立の条件は示されていないということなんでしょうか?

お礼日時:2006/12/26 18:55

今回、国富論をあらためて読んでみました。



国富論全体では、いろいろな時代のいろいろな地域の事柄に多くの言及があって読みにくいのですが、一番言いたいことは、国民の富は、金銀財宝によってではなく、日常の商品、すなわち国民の労働の生産物による、ということだと思います。

そして、労働の生産力の改善として、例の有名な分業の理論を説明し、生産の結果としての分配について、賃金・利潤・地代の三つの要素を挙げて、それぞれを解説しています。

ここまでが第一編で、第二編が資本(ストック)に関する解説、第三編は国が富裕になってゆく過程の解説(分量は少ない)、第四編が重商主義及び重農主義の学説に対する批判、第五編が国家財政についてです。

全体に一貫している考え方は、いわゆる自由主義の考え方であり、重商主義に基づく規制や補助金などについては、消費者の犠牲の下に生産者を優遇するものとして批判しています。

有名な「見えざる手」については、第四編の重商主義批判の中で、「個人の利益を目指す投資が、見えざる手に導かれて社会の利益を促進する」という具合に出て来ます。

また、第五編の最後には、植民地拡大による大英帝国拡大の計画が、国民の利益にならないことを主張しています。

以上から、アダム・スミスの考えに関しては、社会全体の利益というものを強く念頭に置いているのだろうと感じました。効率性を重視した市場万能主義とは少し違うという印象を受けます。

なお、おっしゃるような「労使間の力関係」に関しては、国富論では具体的には意識されていない課題なのだろうと思います。ただ、国家の三つの役割のうちの一つに、「社会の成員一人一人を、他の成員の不正や抑圧から、出来る限り保護する義務、つまり、司法行政を確立する義務」を挙げていることから、労働者の権利を守る法制に関しては、アダム・スミスは反対しないだろうと私は感じます。
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この回答へのお礼

『ただ、国家の三つの役割のうちの一つに、「社会の成員一人一人を、他の成員の不正や抑圧から、出来る限り保護する義務、つまり、司法行政を確立する義務」を挙げていることから、労働者の権利を守る法制に関しては、アダム・スミスは反対しないだろうと私は感じます』大変参考になりました。ありがとうございました。

お礼日時:2007/01/10 19:15

市場原理そのものというよりも、市場という存在そのものを『見えざる手』に例えたのだと思います。

まあ突き詰めていけば市場原理主義にたどり着くのかもしれませんが、市場原理そのものではないということを言いたかったのではないでしょうか。

ちなみに私は古典ばかり薦める人を評価しません。
学問というのは探求を続けているモノですから、幾らスミスが天才だとはいえ、その後を引き継ぎ現代に至った最新の学問こそ価値があると思います。
これは情緒的要素を含まない純粋な学問を例にとって考えれば分かります。物理学を学ぶ時ニュートンを、生物学を学ぶ時ダーウィンを、化学を学ぶ時のラボアジェを、読む人はいないでしょう。それと同じ事です。
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この回答へのお礼

たしかに現代の市場原理主義そのものを言いたかったのではなかったのではないかということは何となくわかるような気がしました。
また、最新の学問があっての古典なのだと私も思います。
つまり、最新の学問がどのような経緯でそこにたどり着いたのかを考える上で古典が必要とされるということだと思いました。
ありがとうございました。

お礼日時:2006/12/17 03:47

 アダム・スミスは次のように言っています。


 「われわれが自分たちの食事をとるのは、肉屋や酒屋やパン屋の博愛心によるのではなくて、かれら自身の利益にたいするかれらの関心による。われわれが呼びかけるのは、かれらの博愛的な感情にたいしてではなく、かれらの自愛心(セルフ・ラブ)にたいしてであり、われわれがかれらに語るのは、われわれ自身の必要についてではなく、かれらの利益についてである」
 「もちろん、かれは、普通、社会公共の利益を増進しようなどと意図しているわけでもないし、また、自分が社会の利益をどれだけ増進しているかも知っているわけではない。外国の産業よりも国内の産業を維持するのは、ただ自分自身の安全を思ってのことである。だが、こうすることによって、かれは、他の多くの場合と同じく、この場合も、見えざる手に導かれて、自分では意図しなかった一目的を促進することになる」
 アダム・スミスに好意的は立場で言うと、「マネーゲームのプレーヤーがルールに従って自己の利益を追求すると、誰も予想していなかった経済成長が促進される。本来ゲームの審判員であるべき国家・政府がこのゲームにプレーヤーとして参加すると、自由な競争が阻害される」となるでしょう。
 けれども、これだけハッキリ自由経済を主張するには、現代では勇気のいることです。マスコミなどが「格差」を問題にしている現代、経済学者・評論家は批判されるのが怖いので、アダム・スミスの考えを薄めて教えているようですね。「アダム・スミスは現代に生きている」と考える人は、貴方の言うように「自由な競争による効率性によって社会全体の利益が達成されるという市場原理を説いたものだ」と考えています。
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この回答へのお礼

ありがとうございました。
確かに格差の問題までは『国富論』の理論ではカバーできそうにはないですね。

お礼日時:2006/12/17 03:41

 衡平という言葉は広辞苑には出ていますがあまりポピュラーな言葉ではないですね。

たぶん需要と供給のバランスで経済が成り立つということをこの言葉で表現されたのでしょうが、私は貴下の説に賛成です。
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この回答へのお礼

賛成ありがとうございます。
しかし、私の意見を教授にぶつけてみたところ私のような理解は俗流的な理解で『国富論』をもっとちゃんと読み取れば市場原理を説いたものではないことがわかると言われました。どうやら『国富論』はとても奥が深いようです。

お礼日時:2006/12/16 08:34

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