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心理学系の本で他者との境界がしっかりしていないと
相手に侵入されて嫌な扱いなどを受けやすいとありますが
境界がしっかりしているとはどういう事でしょうか?。
また具体的にどうすると他者との境界をしっかりもてるようになりますか?。

A 回答 (8件)

#2です。

ご返事ありがとうございました。
>参考にする程度でそうする時は自分の意思でしています。
:そうですか。
それを、相手にはっきりわからせることが必要な場合もあるかもしれませんね。

>しかし相手からの侵入はされやすいように思うのです。
:自我の主張が弱いか、または弱いと思われている、ということでしょう。
自我は損得に関与する精神と言えますから、これが弱いと思われるとつけ込もうとする人が出てくる可能性はあるでしょうね。
自分の利益を主張することは健全なことですから、そのへんをもう少し前面に出すとまた別の魅力になったりします。
程度問題ですが、今のoreevu12さんは試してみる価値があるような気もします。
  
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この回答へのお礼

再度の回答ありがとうございます。
自我の主張が弱いか、または弱いと思われている
>ふむふむ、心当たりがあります。
「自分の利益を主張する」は是非心がけてみたいと思います。
ご回答ありがとうございました!。

お礼日時:2007/02/15 14:11

>境界をはっきりさせる方法というのを知りたかったので



私の回答は境界線ははっきりさせないほうがいいという希望を込めていました。
なぜなら境界線は孤独につながるからです。年を重ねれば嫌でも境界線はできてしまいます。そして、今度はそれをなくすにはどうすればいいのかと悩み始めるのです。

oreevu12さんの質問に答えるならば境界線とは自我のことです。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2007/03/13 12:59

>境界線を強くするにはメージを明確とあったのですがどのような事をさすのでしょうか?



oreevu12さんは自分という人間をどんな人間だと思っていますか。趣味は読書、得意な科目は歴史、好きなタイプは伊東美咲などなど。そういった自分が考える自分という人間の印象(イメージ)が少なからずあると思います。
境界線とは現実的な隙間や溝、柵ではなく、たとえるなら写真に写る人物と背景の境目のようなものです。境界がはっきりしていないというのはピントがぼけている写真のようなものです。極端にピントがぼけるとモヤモヤした霧状に見えますよね。逆にピントが合っていればそれぞれの被写体がはっきり見えますよね。
逆の言い方をすれば境界をはっきりさせるにはピントを合わせる必要があるということです。
そしてピントを合わせるには被写体がはっきりと認識できていなければなりません。被写体とはoreevu12さんのイメージです。ピントを合わせるべきイメージがはっきりしなければボケた写真になってしまうのではないでしょうか。
言うまでもなくこれはあくまで心理上の話です。現実には我々は肉体を持っていますので他人に侵入されることはありません。
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この回答へのお礼

再度の回答ありがとうございました。
お礼が遅くなってすみません。
実はよくわからなかったのでなかなかお礼が書けませんでした(-_-;)。
えーっと印象についてなのですが
自分が良い印象をもっている場合はいいのですが
気が弱いとそいうイメージの場合コレをしっかりさせたら駄目ですよね;^_^A。
これはアイデンティティが達成された方の境界の持ち方なのではないかと感じました。
私自身はといえばまだ「アイデンティティ拡散」か「モラトリアム」
という形だと思います。この中で境界をはっきりさせる方法というのを
知りたかったので・・・ちょっと難しいかなと感じました。
でもご回答ありがとうございました。

お礼日時:2007/03/07 11:07

境界線とは自分が感じる自分自身のイメージではないでしょうか。


無意識に積み上げてきた自分自身のイメージが強ければ輪郭がはっきりしてきます。それによっておのずと他人との境界線もはっきりしてくるのではないでしょうか。過度に進めば逆に侵食に対して過敏になりると思いますが。

よって境界線を強くするにはメージを明確することになりますが、逆に質問です。イメージをまったく持っていなかったらどうなりますか。そのとき他人が侵食してきて、嫌な扱いを受けるでしょうか。侵食されるべきイメージがないのです。

この回答への補足

ご回答ありがとうございまいした。
境界線を強くするにはメージを明確とあったのですが
どのような事をさすのでしょうか?。
例えでいいので具体的書いていただけると嬉しいです。

補足日時:2007/02/21 15:28
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個人的なことで申し訳ないのですが、最近「君は他者との境界がない」とある人に言われました。

その人は注意を促す意図で伝えたのですが、確かに言われるとそうだ!と改められた自己発見となりました。

ポジティブな方向では人見知りをしないこと、明るいと言われること、あと人を疑うことをしないということですが、その代償として舐められやすい、セクハラされやすい、ネガティブに代わる場合もあるということが個人的な経験からいえることです。

私は嫌なことを頼まれたりしたときなどはきちんと断れるのですが、相手のそういう先入観やバイアスがあったとき次にその「意外性」をどう捉えられるかが問題となるでしょう。
たとえば何でもやってくれそう、何でも許してくれそう、と思われいたら、こちらのそのような態度はもしかしたら否定的に捉えられるかもしれないからです。
たとえばお笑い芸人と付き合ったけれどプライベートではすごくおとなしい普通の人。付き合った女性は「こんなつもりじゃなかったのに」と思うかもしれません。でも嫌われたくなくて24時間「公式的な自分」を相手に対して奉仕するわけにもいかないですよね。「非公式な自分」も受け入れてくれる相手を見つけるのが対人関係上でのとしての至福だと思うのですが、なれば確かに自分と外部の世界の境界を律することは自分を守る術になる。

話は変わりますが境界性人格障害という病気がありますね。この名前は神経症と精神病との境界という分類での区別ですが、症状の一つで共依存というのがあるのですが、病名のとおり、相手と自分(の問題)との境界が曖昧になる状態です。依存しあうわけですから、自他の境界を超える・・・というよりも、相手の人生に自分の問題を投影し、まるごと自分のものとして扱うというような感じ(イメージですが)だと思います。
また自己評価が低い、依存性というのも特徴ですが、自己評価が低い場合、相手に迎合しやすくなる。迎合して相手の考えを取り入れるということになれば、自分の意志が薄まるがそれに承諾しているわけですから、そのやり方で自分の場所を確保してもその場は相手の領域になってしまっているわけです。相手がそこにいてよいという承認を得てもそこは相手の世界の賃貸人ということになってしまう。それに気がつかずその場から離れがたくなるというのはひとつの依存ですよね。自分が自由にその場を選択できるにも関わらず、自分の意志が自由にならないというのは依存の現われでしょう。

ちょっと他の回答を閲覧していて拾ったのですが、

「投影心理について、具体例をいくつか挙げて、説明して下さい。」
http://okwave.jp/qa2732004.html?ans_count_asc=20

この中に
「>境界性人格障害の“鏡像化”は“原始的防衛”による“投影”で、境界性人格障害の高度な感受性を利用し、“投影”した相手の心理を読むのに長けているから、精神科医泣かせだよね」

というくだりがありました。当方を「境界がない」と言った上述の人からはまた、彼に対する私の過剰な解釈や彼自身も認めた洞察力は「天才的」とも言われました。もっとも本当に天才ではなく、妄想が膨張してって、それが理論的に筋が通っているだけだと思います。

この相手の気持ちを察知する能力というのは境界例のさらなる特徴であるのですが、つまり投影することや共感するということも、自他の境界を曖昧にさせる、または侵入する、させることを許す、ということになると思います。

健全な洞察も病的な洞察もさておき、相手が見る私も私が見る相手も自己認知できるという共通項があるけれど肉体は分離されているし、個性という圧倒的な違いのために自分を守る必要もあるから他者との境界に対しての感受性は必要かもしれないけれど、概念において境界はもともとないのかもしれない。

境界例ほど様々な境界の要素を内包し(そして自己矛盾)、葛藤し、極端に体現し、極端(二律背反)の世界観を強烈に主張するのは他に類をみない「キャラクター」だと思うのですが、実は境界に対してものすごく曖昧なんですね。
境界性人格障害は、その内なるカオスに対し、自己矛盾に対しての線引きを自覚し、自己矛盾と外部との線引きを実践する、つまりアイデンティティの収束につきるということになるのですが・・・。

また、あまりにも線引きをしてしまった例では他世界との融合を取り入れる必然性が生じてきます。
外出恐怖症(に限らないのですが)の行動療法では、1歩ずつ玄関から先に足を踏み出せるようになり、2歩下がってしまっても次はまた1歩進むことができるようになる手順をとるように、「境界」に挑む現象もあるということです。「境界」は外の世界と自分を守る線引きでは大切なことですけれど、それを意識させられる何らかの事情によって、改めて乗り越えなければならない課題を背負う場合もあります。そのようなとき、自分と外世界との境界の曖昧さというのが逆に必要になるときかもしれません。

もちろん精神的に安定な人も、互いの領域で許される範囲の中で「やり取り」の相互作用を通して関係を営んでいるのですが、依存しあうという現象も潜在的、暗黙の状態で存在していると思うのですが、それが病理に至るのはそれが過剰になってしまうがための弊害、または顕在化されてしまうことによる発見、その違いでしょう。だから「異常」なのではなく、過剰ということが重要だと思います(差別や偏見を考慮する意味で)。

>境界がしっかりしているとはどういう事でしょうか?

つまるところ「バランス」ということでしょうね。私も「境界」のせいでイタイ思いは人一倍しているので、これからは窓のカーテンの隙間からそうっと訪問者を伺うようにします。今まではそれが「押し売り」であろうと「勧誘」であろうと「オープン・ザ・ドア!」にしてしまったので(苦笑)。

でも人は「共感」という素晴らしい心の機能をもっていますよね。境界の線引きを太く濃くしてしまうと、えてして人の好意への感受性もにぶるかもしれません。
だからANo.2さんがおっしゃるようにそれは程度問題でしょうね。要は人間関係の健全性はバランス感覚かもしれません。もちろんそれには自分のメンタル面もバランスがとれていることが前提ですよね。

自省も込めて言わせていただくと、人見知りをしないという場合そのポジティブな面が過剰になると依存なる性質を省みて、その線引きを自覚すること。逆に防衛のためによい個性を削りたくありませんから。つまらない恋愛はしないことですね(笑)。
私は音楽をやっているのですが、常に音符に境界はないと感じるしだいです。だから肌の色や言語の境界って何のためにあるのかなあと憤りさえ感じるほどです。ポジティブな境界とネガティブなそれとの「境界」を認識し、線引きする場合や対人、その判断と律し方が肝心なのでしょうが、そうやって対外と自問自答してゆく過程もまた人生の味わい深さだと思っています。これは「病理」(過剰)とか「健全さ」(平均値)とかを超えた普遍性なものだと言いたい。

余談ですがネットという環境も境界に対して曖昧ですよね。自分の問題を相手の問題に投影しやすくなる。この巨大掲示板がそうではないですか。相談に答えるのも、共感して「がんばって」と励ますのも太くて多数の問題を鏡としてみているからでしょうね。
互いの情報が不明確である分だけ投影もしやすくなるのでしょうけれど、「鏡」を見せつけられていることさえ気づかず怒りが暴走して乱反射しているような人も見かけますね。相手が誰だか分からないのに批判を恐れるという心理も興味深いですね。

ところでANo.1さんがとりあげている本はとてもためになりそうですね。一読してみようと思います。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。

自己評価が低い場合、相手に迎合しやすくなる。迎合して相手の考えを取り入れるということになれば、自分の意志が薄まるがそれに承諾しているわけですから、そのやり方で自分の場所を確保してもその場は相手の領域になってしまっているわけです。

>なるほど・・・そうですね。融合しやすいです。
人に縛られること無く
自分の意思で自由に動ける居場所を作る事大切ですね。

ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2007/02/20 12:37

こんにちは。



自分と他者との境界が曖昧だと、
他者が、自分の一部のように見えてしまったり、
逆に、自分が他者の一部のように見えてしまったり、
他者の欲求や感情が、自分のものであるかのように思えてしまったり、
逆に、自分の欲求や感情が、他者のものであるかのように思えてしまったり、
他者は、自分と同じ欲求や感情を持つものだと思えて一方的に与えてしまったり、
一方的に押し付けられたものごとを、自分が欲したのだと思って受け取ってしまったり、
とかく、他者と、同化しがちになってしまいますね。
境界侵入されがちになってしまいますね。
といいますか、「境界侵入を招きがち・させがち」になってしいまいます。
といいますか、境界侵入されても、それを理不尽と名付けることができず、
正当に怒ることができなくなってしまいます。

自分は他者の一部ではなく、他者も自分の一部ではないことを理解し、
他者は、自分とは別の欲求や感情を持っていることを理解し、
自分の欲求や感情を、自分でちゃんと分かってあげるよう心がけ、
それを、表現できるよう心がけるとよいのではないかと思います。
それから、自分には、他者(の感情・欲求・人生)をコントロールする権利はなく、
他者には、自分(の感情・欲求・人生)をコントロールする権利はないということも、
覚えておいてほしいと思います。

それでは。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。

私自身は人のコントロールはあまりしていないと思っています。(無意識の部分でしてしまっている時はあるかもしれないですが)
ずっと意識してしないように気をつけきたからです。

一方的に押し付けられたものごとを、自分が欲したのだと思って受け取ってしまったり、とかく、他者と、同化しがちになってしまいますね。
>見た感じそんな風にとられていると思います。
気持ちの上では違うのですが
波風をたてないために行動はそんな風に動いてしまっています。

境界侵入されても、それを理不尽と名付けることができず、
正当に怒ることができなくなってしまいます。
>多分ここら辺すごく問題ですね!。
怒りをなかなか表現できず大人しいので
理不尽な扱いをうけたりしやすいです。
あからさまに理不尽だと言い返しやすいのですが、そういう事をやってくる人は上手くNOが言えないような理由をつけてきたり、「あなたがやって当然」というような雰囲気でなので。。。
いや、でも頑張ります!。

他者には、自分(の感情・欲求・人生)をコントロールする権利はない
>心にとめておきます、この言葉。

ご回答ありがとうございました!。

お礼日時:2007/02/17 18:01

>境界がしっかりしているとはどういう事でしょうか?


:端的に言うと、
「自分のことは自分で責任を持つ」
ということになるでしょうか。
我々は完全な生き物ではあり得ませんが、それでも一個の個人として完結していたければ、自分のことは自分で責任を持つしかありません。
無論、他人を頼ったり信じたりすることを否定しているのではなく、頼るなり信じるなりという行為自体も自分の責任において行なっているのだ、ということを忘れてはならない、ということです。

他人を信じるということと、無条件で寄りかかることは似ているようで全く別のことです。
言葉を変えれば、選択の連続が生きるということであるとも言えますが、その選択権は自分にしか無い、ということになります。
この選択権が自分のものであることを理解していないと、自分のことを自分で決めれなくなりますから、
誰か他の人が、「じゃ、私が決めてあげるね」と【親切に】あなたとの境界を乗り越えてくることになります。

これは、あなたが相手に対する場合も同様です。
最終的な決定権は相手にあるということを忘れると、一時的には「決めてくれてありがとう」と感謝されても、後で必ず恨まれます。
相手の人の人生をとってしまったと同じですからね。
十分注意してあげましょう。
また、自分自身もそうされないように注意しましょう。
ただ、お互いに信頼したり、協力することを否定するものではありませんから、誤解されないように。
自分で選択したければ(自分の力で生きたければ)、選択の最終責任は自分で負うしかない、という単純な論理を述べただけです。

>具体的にどうすると他者との境界をしっかりもてるようになりますか?
:死ぬ時はひとりで死ぬしか無い、という本質的なことをもう一度よく考えてみることです。(^^;)
今生きていることがあなた以外の人生であるはずがないことが良くわかるでしょう。
 
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
hakobuluさんが書いてくれた内容は
大まかには理解しているつもりなのですが・・・。
私自身は相手の決定権を奪う事をしませんし、
大きな内容を決める時は人の意見は聞くものの、
参考にする程度でそうする時は自分の意思でしています。
しかし相手からの侵入はされやすいように思うのです。
ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2007/02/14 20:29

>また具体的にどうすると他者との境界をしっかりもてるようになりますか?。


はっきりと、「NO」と言う事が大事です。

下記の本が参考になると思います。

境界線(バウンダリーズ)―聖書が語る人間関係の大原則

http://www.amazon.co.jp/%E5%A2%83%E7%95%8C%E7%B7 …
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
はっきりNOという事・・・・・。
それ大切ですね。
URLも参考にさせてもらいますね。
ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2007/02/14 20:31

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