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右脳と左脳について面白いのでちょっと調べましたがわかりにくいところがありますので教えてください。
多くの人は言語理解や論理的思考は左脳でしているそうですね。
それって、視覚や聴覚で入ってきたことを記号やカテゴリに置き換えて理解する機能が左脳で行われるということでしょうか。
それとも、右脳で音楽を聴いているときも抽象概念におきかえて理解しているのでしょうか。
また、右脳は全体の把握や直感的空間認識をするそうですが、
直感的空間認識はいろいろな方向を向いたブロックの中から同じ形のものを選ぶ能力だと思いますが、
道を聞かれて、「この100mくらい先に」と説明する場合は、右脳の直感的空間認識でしょうか、それとも左脳の論理的思考でしょうか。
また、右脳は「全体の直感的把握」もするそうですが、それはたとえばどういうことでしょうか?

詳しい(面白い)サイトもありましたら教えてください。

A 回答 (3件)

■左右の脳を役割分担させて他視点で説明されてますが、



より、実態に即した表現だと・・・・

脳神経細胞は誕生後、次々、死滅(整理され)し、
再生しない、、これは実際、顕微鏡で目で見て確認されたことでしたが、、

臨床医らの間で、
それにしては、一旦、死滅したはずの部分の脳の機能が
復活している例がしばしば見られる・・・
本当に、脳神経細胞は再生しないのか?
という臨床側からの問いかけで、
十数年前、それまで脳生理学で左右機能論の学者らが脚光を浴びていたのですが、
一石を投じられます。

昨今もてはやされてる心理や精神科学、教育論にまで展開した
脳の左右機能論に、
左右脳の代替機能という実態が、
疑問を呈したわけです。。

手も足も二つあるために、
ややこしくならないために、歩くとき、階段を下りるとき、
右足左足、両手を使って、土をこねて器を作るなら、
左右両手の動きが混乱しないように、、
しかも、協調するように動かねばなりません。
その意味から、左右二つの脳ができたというのが
より、自然な見方のようです。
もともと、脳医学の始まりは、
日本では、阪大の外科で始まり、
脳外科として始まり、
日本では1970年代のオカルトブームの頃、
(当時の世界でのアメリカ≒ユダヤ政商の動きに関連性?を疑います?!?)
地味な基礎医学者らの中から、
マスコミに出演し、心理学や性を語るときに、
当時まだ医学的に脳が未開の時代であるにもかかわらず、
脳生理学者という振れこみで一般人相手に、
左右脳の機能分担論と、
マスコミで心理学や性の話に絡めて言い始めたのを
振り返ります。

世界歴史的には・・
1963年、ノーベル賞受賞した ジョン・エクルス卿に始まるようです。。
神経と脳がどのように 働くかという研究で医学賞を受賞してますが、
彼は、サー・カール・ポパー(ロンドン・スクール・オブ・エコノミックス教授)と共著で、
「自我と脳(The Self and its Brains)」を遺し、
心と身との相互作用に焦点を当て、カントを
二元論で見る視点を脳生理学から関連付けています。

ポパーは最近、京大中西教授安倍フェローシップ第一期生に続く、
アメリカ留学した後、帰国し、教授になった一群の識者と言われる人たちの中で、
大いに守り立てられてる思想のようです。。
(二元論ですので、論理的には単純で理解しやすいですが、
自然界が地球の歴史で、宇宙の歴史で作り上げてきた
究極の産物である脳を
単純に!二元論で片付けるには、
大いに!!  片手落ち!!であること、、

上記傾向の思惑には・・教育により、
植民する対象の大衆を
脳からいかに奴隷化するか、
自分で思考することはせずに、
与えられたマニュアルに従いどんな残忍なことでさえ忠実に実行する
人格を作り上げるか、、という研究から派生してる?!?
と言う視点も考えに入れたほうが、

その危険性と、
ナチは世界史の上で、形の上では解決されたものの、
ナチを実際に創設した=弁舌上手のヒットラーに資金を与えた、
ロスチャイルド一族はそのまま、アメリカに移り、
この戦争で一層富んで、顕在しますし、
その思想、価値観が後継者らに伝承されていっている。。。?!?

戦後の東独で、
孤児や貧しい子供を特殊な教育方法において養育し、
人間性の解明の実験?の過程で、
心から人間性を奪い、知能だけ人間の叡智を与えることで、
完璧な戦士やスパイを作り上げようというプロジェクトが
日本のGHQにより世界史から隠されてしまった、
731細菌兵器部隊と同様に、
ナチで研究されていたそうですが、
それが、東独のユダヤ人街タウン?のキンダーランド(幼児施設)で続けられていた・・という噂?!?(ま。これは兎も角として・・)

オウムの頭に電極をつけていたのを見て、
私たちはバカな、と言ってましたが、
その知識が健在し、それがオウムに伝えられたものだという視点・・

あの時、殆どの日本人がバカな、と笑ったり、身震いしましたが、
最近のロボテクス?等、アメリカからこういう視点で、
脳をみなした上での
新たな実験研究実用化に政府も又安倍氏らと連携してる企業らが予算を出している。。??
中西京大教授第一期生以後、安倍フェローシップで帰国した識者らがNPO団体代表や弁護士や、第三者委員などと、
有識者として、一斉に!コンプライアンスやSOX法で、
企業は株主のものであるという説をとることから、
企業として、
大株主の意向の奴隷とならざるを得ない。。
日本の一流企業が、そういう分野に手を伸ばさざるを得なくなってる・

ユダヤ人であるポパーは、二元論にして、
大衆に覚えやすいように定義づけていくことで、
自分の論理を説得していく、言葉の魔術師?有能な弁士だったようですが。。

そうした背景のもとで脚光を浴びた一部脳生理学者らが
それまで実験的に解明されていた、運動生理学だけでなく、
心理学精神科学の分野まで左右二元論の脳生理学を展開していく・・
しかし、、
それに対し、
十数年前から、臨床医たちの中から、それまで指摘されていた、
実際の診療経験から、
左右の脳は本来、代替脳としての根本的機能を視点に入れていないことを指摘。。

脳が二つあるのは、、
本来一つだった脳が、
両手両足に混同しないで伝達するように
夫々別個にしかも協調して動くように
左右脳に神経分布することとなる・・・と言う視点、、、

だからこそ、どちらかの脳が損傷すると、
必要は発明?開発?の母のように、
左右論に反して、
左右脳は、互いに補い合う。。
小脳でさえ!
大脳で代替し得る・・

つまり・・彼らが主張してるように、、
脳には、左右と領域で
あらゆることが限定されてるわけでなく、
致命傷でない多くの殆どの機能は、、
脳は補完機能を有するとてもフレキシブルな能力、組織、機能と言う見方が最も最新の考え方ですが・・
(言語学のチョムスキー論の普遍文法理論でも同様)

ユダヤ政商らが力を持つにつれ、
世界で彼らが侵略戦争を活発化するに連れ、
これらの研究は停滞したままになって、

二元論者らの視点で、
どんどん人間の脳の生理学が推し進められ、
実用化され、
教育でも採用されています。。

脳学者は結局は、哲学者として視点をどこに置いてるか、
で脳を医学的に論じるわけですが、

二元論の弱肉強食主義で白黒つけていく人と対照にあるのが、

共生、共存主義の学者がいらっしゃると思いますが、
どういうわけか・・・・
まず! 安倍フェローシップの中には卓越する人物は見られないし、
平坦にお二元論者がフラットに並列しています。。

意識と脳を扱った、
理解しきれないものの、
兎も角も直感的にも
ひきつけられた学者に、
品川嘉也博士(湯川博士の最後の愛弟子。
京大医学部生理学教室助教授というステータスには恵まれず、
その為に研究費用稼ぎに雑多な本もかかれてますが、
真髄は『意識と脳』紀伊国屋書店m1982年、
これは京大医学部で医学概論のテキストだったそうです。)
の脳の解析、分析論が

最も、科学者として論理的であるし、
自己の思い込みによる推察の度合いを最も!排斥した
学者らしい学者の客観性がかじられる説であること。。

又、今回、調べると・・・
昨今の、安倍フェローシップ論陣一辺倒の退屈さと閉塞感で
須磨ら無かったのですが、
芝崎厚士さんのこの説明を丁寧に読んでみたいと思いました。。

研究ノオト71 真木悠介(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%9F%E6%9C%A8% … 東大学者事件の張本人)
の『自我の起原 第5章、第6章』2005/08/28第1稿
【テキスト】
真木悠介「5 <創造主に反逆する者>−主体性の起原」「6 <かけがえのない個>という感覚−自己意識の起原」(以下「第6章」)『自我の起原』岩波書店、1993年。


また、オカルトが流行ってる時期も、
ユダヤ政商らのプロトコールで、
植民地化プログラムの一段階として含まれています・・
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この回答へのお礼

なんか難しそうなところもありますが、大変面白く、また視野を広げてくれる回答をありがとうございます!

お礼日時:2007/02/19 20:02

こんにちは。


ANo.2です。回答をお読み頂き、ありがとうございます。

>ええっと、もしも脳の半分を怪我をしたりして視野(というかその人にとっての世界)が半分になった場合でも、論理思考と感性とのどちらかがばっさり欠如するということではないってことでしょうか。

はい、病気や怪我などによって特定の組織が破壊されてしまい、その機能だけが「ばっさり欠如する」、このようなものを「器質性傷害」といいます。そして、この先どのような脳のメカニズムが解明されるかは予測が付きませんが、少なくとも左右両脳の機能分化に起因する論理機能と感性機能の「器質性傷害」というのは、まず起こらないと思います。これには、左脳と右脳は「論理脳・感性脳としては機能分化していない」というのが前提となります。

但し、左右分化に起因する機能障害はありませんが、大脳皮質の連合野における認知機能が損傷した場合は教科書に載るような「論理機能の器質性傷害」として、片や大脳辺縁系の情動機能が損傷した場合は信じられないような「感性機能の器質性障害」として、どちらもはっきりと現れることになります。
これがどういうことかと申しますと、つまり、我々の脳内のいわゆる「論理機能」と「感性機能」といいますのは、これは左脳・右脳の左右で機能分化しているのではなく、大脳皮質と大脳辺縁系の「上下で機能分担」されているということなんです。従いまして、左右どちらかが破壊されても半分ずつは残りますが、上下どちらかが壊れますと、正にばっさりとなくなってしまうというわけです。
前回に申し上げました通り、「左脳:論理脳/右脳:感性脳」という機能分類には科学的な根拠はないというのは宜しいですよね。これに対しまして、現在の脳科学では「大脳皮質:論理脳/大脳辺縁系:感性脳」という生理学的事実がほぼ完全に受け入れられています。ですから、我々の脳内で論理機能と感性機能といいますのは、左右に分かれているのではなく、上下に役割分担されているんです。そして、この事実が覆されるということは、今後恐らくないと思います。

ちょっとくどいようですが、質問者さん曰く、この「ばっさりと」というのが「器質性傷害」の特徴です(ばっさりが気に入ってしまった)。
大脳皮質で発生するこの「ばっさり傷害」で最もはっきりしているのは「健忘症」です。連合野の機能には「学習・認知・記憶」というものがありますが、この内、学習機能が損なわれて新しいことが覚えられなくなるのが「前向性健忘」、記憶の再生ができなくなるものを「逆向性健忘」といい、どちらも因果関係のはっきりとした「器質性健忘症」です。そして、学習ができ、記憶も再生できるのに、それが何なのか分からない??? このような連合野における「認知機能の障害」が、果たしてそのまま「認知症」というものでありまして、これを即ち大脳皮質における「論理機能の器質性障害」と呼んで良いのではないかと思います。
ではこのように、論理機能の障害といいますのは連合野の認知機能の損傷によって発生するものですから、例え視覚機能の損傷によって外の世界が半分になってしまっても、それが原因で論理的な処理ができなくなってしまうということはないわけです。当たり前のことを申し上げるようですが、目が見えなくなるというのは「知覚障害」であり、論理的な判断が付けられないというのは「認知障害」です。ですから、その原因は全く別物なんですね。
大脳辺縁系の情動反応の中核は「扁桃体」ですが、これを切除されたサルが怖い物なしになってしまったという実験は有名です。人間の患者さんでは、あろうことか感情というものを全く現さない不思議な人格に変貌してしまったという事例があります。このようなものが「感性機能の器質性障害」ではないでしょうか。
目が見えなかったり、耳が聞こえなかったりすれば、残念ならが風景や音楽などに対して直接感動をするということはできません。ですけど、これは飽くまで知覚障害でありますから、大脳辺縁系の情動機能そのものが壊れてなくなってしまったということではありませんよね。病気や怪我で、不幸にして視覚を失ってしまったとしても、心まで失ってしまうということはないわけです。
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この回答へのお礼

またとても面白い話をありがとうございます。
認知について、脳の上下に機能が分かれるというのは初めて聞きました。心理学的な研究以外に解剖学的にもずいぶん解明されているのですね。
それにしてもわかりやすい説明です。

お礼日時:2007/02/24 10:23

こんにちは。


「右脳・左脳論」といいますのは、これまで比較的広く受け入れられてきた仮説ではありますが、実際には未だこれといった科学的根拠は何も見付かっていないんです。にも拘わらず、世の中にはこの「右脳・左脳論」を基にしたと思われる「左脳:論理脳/右脳:感性脳」といった実しやかな機能分類がありますが、少なくとも、これに関しては科学的根拠と言えるものは何ひとつありません。

我々人類を始め、多くの陸上動物がその進化の過程で「脳の機能分化」を進行させたというのは概ね事実だと思います。「利き手」や「利き足」といったものは運動中枢における「脳の左右非対称」としては動かし難い事例でありますし、感覚系にも「利き目」というものがありますよね。ですが、このような陸上哺乳動物に見られる「左右両半球の機能分化」に関しまして現在までに辛うじて判明していますのは、我々人間の大脳半球における「言語中枢のあるなし」だけであり、これ以外には左右両脳の遺伝的・解剖学的な違いというのは何ひとつ発見されていません。
「言語中枢」といいますのは人類の90%で左脳に獲得されますが、それ以外のひとは右脳に作られるわけですし、ごく少数ですが左右両方を使っているひともいます。では、我々の言語中枢は左にあるのだから、人類の右利きというのはそのせいかと言えばそうでもありません。左利きのひとでもその半数が左脳に言語中枢を持っていますし、何よりも、言語中枢を持たない他の動物にもちゃんと「利き足」というものがあります。このように、左右両脳には明らかに機能の違いというものはあるのですが、まず言語中枢との関係は未だ全く判明しておらず、それ以外には、左脳と右脳に解剖学的な違いというものはありません。つまり、両方とも全く同じ臓器なんです。

言語中枢は必ず左に作られるものではありませんので、これを機能分類する場合には、便宜上、言語中枢のある方を「優位脳」、そうでない方を「劣位脳」としますが、どちらかが優秀で、どちらかが支配をしているということでは決してありません。
さて、このように左脳と右脳の機能は本来全く同じものなのですが、人間の場合に限っては言語情報の認知と言語運動の機能は全て「優位脳(左脳)」で賄われており、このため、必然的に左脳は右脳と全く同じだけの量の情報処理を行うことは物理的にできません。右脳と左脳の違いに就いて、現時点で言えるのはここまでであり、果たして、これも人間以外の動物には全く適用されません。
従いまして、左脳と右脳がその効率を高めるために何らかの機能分化をしているというのは間違いのないことですが、その原因として特定される具体的な解剖学的違いというのは何処にも見当たりません。少なくとも、世間で良く言う「左脳:論理脳/右脳:感性脳」といった機能分類などは、何の根拠もないデタラメと考えて頂いて良いと思います。ですから、詳しく調べようとすると、ほとんどのひとが必ず質問者さんと同じ矛盾にぶち当たってしまうのは、それは「左脳:論理脳/右脳:感性脳」というこの機能分類が、実際の脳の構造とは全く一致しないからなんです。

>多くの人は言語理解や論理的思考は左脳でしているそうですね。

ですから、そうではありませんね。
確かに言語中枢というのはほとんどのひとで左脳にあります。ですが、そもそも左脳といますのは「知覚処理・認知処理・運動出力」という神経伝達において「我々の身体の半分の部分」を受け持つ中枢です。間違っても論理的な思考を専門に行うためにある臓器ではありません。

>それって、視覚や聴覚で入ってきたことを記号やカテゴリに置き換えて理解する機能が左脳で行われるということでしょうか。

そんなことは一切ありません。
感覚入力を記号化する作業を「知覚処理」といい、知覚処理された情報をカテゴリ分類することを「認知処理」といいます。
「知覚処理」は大脳皮質の入り口であります「感覚野」で行われ、視覚・聴覚・内覚etc.に対してそれぞれ「視覚野」「聴覚野」といった専門の受け入れ窓口が決まっています。そして、「認知処理」といいますのは大脳皮質の「連合野」と呼ばれる部分で行われるのですが、それぞれの感覚野で処理された知覚情報に対して「視覚連合野」「聴覚連合野」といった受け持ちがあります。これらは身体左右の感覚器官からの入力を半分ずつ処理しているのですから、左右両脳は全く同じ構造になっています。
例えば、ちょっとややこしいのですが、左脳視覚野には右目左半分と左目左半分の視覚情報が入力され、左脳視覚連合野で認知処理されるのですが、当然、残り半分の視覚処理は右脳で同時進行しています。視覚神経の半分ずつが脳内で「半交差」し、左右両視覚野に接続されているというのは解剖学的な事実ですから、これが左脳でしか行われないとしますならば、我々は視野の半分しか認識できないことになってしまいます。
同様に、身体右半身の運動機能は「左脳運動野」、左半身は「右脳運動野」によって司られており、その中枢機能は基本的には全く同じです。そして、どうしてそこに利き手・利き足といった運動機能の違いが発生するかに就きましては、まだほとんど解明されていません。

>それとも、右脳で音楽を聴いているときも抽象概念におきかえて理解しているのでしょうか。

音楽を聴くのも、それを理解するのも、それは左右両方で同時に行われることであり、決して右脳専門の機能ではありません。そして、音楽を聴くというのは脳が聴覚情報を処理するということであり、別にその情報が抽象的な概念に置き換えられているというわけではありません。耳に入ってきたのがたまたま「音楽」や「小川のせせらぎ」のようなものである場合は、その認知結果はどうしても形にすることのできない抽象的なものになってしまいますが、それが言語情報であるならばより論理的な思考が可能になるというだけの話です。

>また、右脳は全体の把握や直感的空間認識をするそうですが、

おかしいですね、私はそんな話は聞いたことがないのですが。
そもそも「空間認知」といいますのは視覚野で処理された知覚情報のうち、位置関係や距離といった空間情報がその認知器官であります「頭頂葉連合野」において認知されることですが、申し上げるまでもなく、これは左右両脳の連合野で同時に行われることです。
これに対しまして、空間情報ではなく、色や形といった視覚情報は全く別の「側頭葉連合野」で認知されます。ですから、「全体的な把握」ということでありますならば、それは別々なところで認知された結果を統合して認識するということですが、大脳皮質におけるこのような作業を一般に「思考」といいます。では、それではこの「思考」の段階で右脳による何か「全体的で直感的な処理」が行われているということになりますが、現在のところ右脳にそのような特別な機能は発見されていません。

>直感的空間認識はいろいろな方向を向いたブロックの中から同じ形のものを選ぶ能力だと思いますが、

確かに我々は見た瞬間にそのような判断が可能ですが、これは脳の認知機能としては当たり前のことですから、厳密には、それは「直感」ではありませんね。
このような視覚情報は視覚野で知覚処理された段階では、例えば「垂直」「水平」「45度右傾き」「30度左傾き」といった様々なパーツに分類されています。そして、それが何処に幾つあるかといったことを基に対象を分別するのが「認知作業」です。同様に、左右の耳から入る情報の違いによって、我々は音の方向を瞬時に認識します。認知とはそもそもこのようなものですから、これを「直感」と呼ぶわけにはゆきませんよね。まして、これが右脳機能であることには逆立ちしてもならないわけです。

では、「直感」とはいったい何でしょうか。
「女の勘」やニュータイプの超能力など、一口に直感といっても様々なものがありますが、論理的な思考によって導き出された結果を我々は「直感」とは言いませんよね。
大脳皮質の認知作業といいますのは、複数の情報を基に行われるものですから、そのためには、これらの情報は作業が完了するまでの間、「短期記憶」として連合野内に一時保持されていなければなりません。そして、入力された知覚情報や、呼び出された記憶情報が連合野内に一時保持されることによって、我々は初めてそれを自覚することができるわけですが、これを「意識」といいます。
このように、認知情報といいますのは大脳皮質の意識に上る情報であり、無意識に論理的な思考を行うということはできません。しかしながら、「直感」とは論理的な結果ではなく、意識せずに導き出されるものでなければなりません。本能行動や情動行動はもともと大脳皮質を使わない無意識行動ですが、果たして大脳皮質にはこのような無意識の直感というのはあるのでしょうか。
それが認知を伴うものである以上、基本的にはないはずなのですが、我々は、本来ならば論理的な思考であるはずの複雑な結果を瞬時に導き出してしまうという経験を誰でも持っています。どうしてそんなことができるのかと言いますならば、ひとつの理由としては、それが過去の学習体験に基づいて無条件に選択されてしまうというのが考えられます。

例えば、「3×4×10=120=十ダース」という結果を出すのに、我々はしばしば「サンシが十ダース」といった離れ業をやってしまいます。誰でもできることなのにどうして離れ業なのかと言いますと、これが人間の脳であり、スーパー・コンピュータでもマネはできないからです。
簡単な計算であることに間違いはありませんが、取りも直さずこれは、過去に何度も体験することにより、途中のプロセスを省いても対応する結果の選択ができてしまうということではないでしょうか。まして、小学校で覚えた「九九」などは、これそのものが既に無意識の結果選択なんですね。
本題と反れてしまうといけませんので端折りますが、如何なるわけかはまだ分かっていませんが、我々の脳には全ての情報が与えられなくとも結果を出力することができるという特徴があります。従いまして、もともと与えられていない情報であるならば如何に大脳皮質といえどもそれを意識に上げることはできません。ならば、それで結果が出せるのであるならば、無意識の選択というのは実際に幾らでもあるわけです。このようなものを「直感」というのではないでしょうか。そして本題に戻りますが、これが特に右脳の得意とする機能であるという根拠は、やはり何処を探してもちょっと思い当たりません。

>道を聞かれて、「この100mくらい先に」と説明する場合は、右脳の直感的空間認識でしょうか、それとも左脳の論理的思考でしょうか。

ですから、何軒くらい先なのかといった情報を基に計算したのであるならば論理的な思考ですが、自分が過去に歩いという実体験から100mくらいという数値を割り出したとするならば、それは直感的ということになるのではないでしょうか。右脳・左脳は、一切関係ないと思います。

この回答への補足

左右論がいまいちすっきりわからないなーと思っていたら、そうだったんですか!左右論がまるで科学のように言われているから騙されていたようです。
なーんだ。回答いただいた内容のほうがずっと納得できます。
大変わかりやすい回答をありがとうございました!

ええっと、もしも脳の半分を怪我をしたりして視野(というかその人にとっての世界)が半分になった場合でも、論理思考と感性とのどちらかがばっさり欠如するということではないってことでしょうか。

補足日時:2007/02/19 19:55
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この回答へのお礼

ruehasさんに20ptつけようとしたのに間違えてしまいました。
すみません。

お礼日時:2007/03/31 21:48

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