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自分が誰なのか何なのかを深く考えると、自己意識がなくなってしまい自分と外の世界との境界がなくなってしまうような感覚、どう表現してよいのか適当な言葉が出てきません。この感覚をうまく説明できる方いませんか?小学生の時から考えていますが、考えても分からないので諦めてしまいました。同じような経験のある方、おられましたらご意見ください。

A 回答 (7件)

わかります。

自分は何なのか というより周りの人、草、水など全ての物に対しての存在、この世界とは むしろ「世界」とは とか考えていると強烈に神秘的なことに発展してしまいやがて思考は停止します。

多分それをわかることはないでしょう。そういう「世界」に位置する「人間」というものに生まれてきたのだから。万が一それがわかっちゃう人がいたとしたら 宇宙人かなんかでしょう。あってはならないという事項はこの世にも存在してるとおもいますから。

哲学知識ゼロの一般高校生の意見ですが参考までに。
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この回答へのお礼

そう、思考が停止する。
「人間」だからか・・、
aleycrossさん、あなたすごい!
答えはでないけど、なんで分からないのか分かりました。

お礼日時:2007/02/20 00:17

あなたの持つ疑問が解決された時、人類最後の日です。



つまり、その哲学・宗教問題を解決できないが、解決しようとするら、人間は、社会は発展していくものなんでしょうね。

ギリシャ神話に[シジフォスの岩』と言うのがあります。
読んでみてください。
貴君の質問の回答の[足し]にはなるかと思います。
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この回答へのお礼

シジフォスの岩調べてみます。
ありがとうございます。

お礼日時:2007/02/20 01:14

無意識の感じる不安に同調しているだけです。


無意識世界の住人は自我が希薄で自己の同一性を保つために意識に依存する部分が多いのです。
ひどい場合は自らが生きていることすらわからなくて不安に感じることがあるようです。
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この回答へのお礼

無意識の感じる不安に同調する人もいるのですね・・
同一性よりもむしろ存在そのものに驚いています
ありがとうございます。
参考になりました。

お礼日時:2007/02/20 00:57

昔、「どらえもん」のストーリーは、第一話でのび太が事故に遭い植物状態の中で永遠に見ている世界・・。

なんて噂が流行りましたが。そんな感覚でしょうか?
最近でいう映画「マトリックス」みたいな、しかし映画で言うプラグ?を抜いた状態もまた、そんな世界ではないのか?とか思ったり・・。
街でたまに感じますが、自分から見ると、周りの人々はただの景色、風景の一部でしかない、逆に他人から自分を見た時、自分は景色の一部に過ぎない世界がある・・。となると自分はいったい何なのか?なんて違和感を感じる時があります。
それを考えた時、生かされている?みたいな、あくまで物凄く広い意味で・・ですが。「どらえもん」や「マトリックス」のような世界に一人一人それぞれが存在しているのではないのかと思いました。
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この回答へのお礼

>>となると自分はいったい何なのか?
うん、うん。
深く思考していくと、覚めそうで覚めない夢みてる感覚
この夢覚めたらどうなるんやろ・・
ありがとうございます。

お礼日時:2007/02/20 01:10

生後まもなくの赤ちゃん状態。



この時期の赤ちゃんには、自分と外界との境界がありません。自分の指もおもちゃのガラガラも同じです。
大脳が相当発達し先端の宇宙物理学を理解した状態でこの境地に達すれば人間の本質や宇宙の存在理由を体感するかもしれませんね。
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この回答へのお礼

本当に大脳が自分を認識して体感しているのかどうか、これも不思議なんですよ。
存在理由を体感できる人間は、もう人間じゃないのかも・・
ありがとうございます。

お礼日時:2007/02/20 20:55

[自分と外の世界との境界がなくなってしまうような感覚]


ですね。
「心」が溶け出そうとしているのでしょうね。
「心」の部分にはすべての生き物に共通する部分があるのです。つまり「心」は個別独立なものでなく同じ木の小枝や葉のひとつのような同一性、共通性があるのですね。
普通は、この共通性がいろいろな境界を作る考えや肉体で区分され、個性を持ってあたかも独立であるようになっているんですね。
「心」が溶け出すというのは、道元禅師が「心が抜け落ちた」といっていることと同じですね。
「心」が溶け出すとすべての境界がなくなり、「自他は別個ではなく一体である」ということがわかってくるのですね。
これが仏教的「諸法無我」につながっているのです。
生まれもっての体質的なものもあるのでしょうね。まず自己をしっかり確立してから良き体質を生かせば自分が誰なのか何なのかがわかるときがくるかもしれませんね。
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この回答へのお礼

自己を確立するのを、あえて避けているような感じがあります。自己を確立し自己実現に人生を掛けていたら、私のこのような疑問もわいてこなかったと思います。ありがとうございました。

いままで、誰にもわかってもらえなかった私の疑問に答えてくれて、皆さんありがとうございました。短時間にこれだけ回答がくるとは、ほんと感謝・感激です。
教えて!gooって最高です。

お礼日時:2007/02/20 21:54

私は、その意識の感覚は正解なのではないかと考えます。



つまり、本来意識とは外との境界などないもので、完全公平、フラットなものだと思うのです。

しかし、人間が自我を持ち、他と自己という構図を描くのは、「刺激」が理由なのではないでしょうか。考える主体が、人体という物質に依存している故に、自己と他の弁別が起こるのだと思います。

ですから、意識レベルだと、質問者さんが不思議だと感じるその感覚こそが、感覚本来のもので、「自己意識」などというものは、意識に自己という余分なものがくっついている特殊な状態なのではないかと考えます。我々はその特殊な状態になれているに過ぎないのではないでしょうか。
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この回答へのお礼

そう、フラットの状態ってちょっと慣れないから、すぐに元に戻ろうとする。
だから日常生活の中で自己主張したり、自己満足に浸ったりしているほうが気が紛れている訳なんですね。
だんだん、わかってきました。
ありがとうございます。 

お礼日時:2007/02/20 21:19

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