dポイントプレゼントキャンペーン実施中!

今日本の教育は平等型から競争型にシフトしていると思います。
平等型は落ちこぼれが少ない反面、できる人は能力が伸ばせません。
競争型はできる人間は能力が伸ばせますが、その分できない人間との
差が大きくなりがちです。

一長一短があるので、一概にどちらがいいとはいいません。
落ちこぼれが少なく、できる人間の能力が伸ばせれば最高なんですが
それはできないんでしょうか?

これからは1人の天才か?100人の秀才か?
それとも1人の天才と100人の秀才を同時に育てることが可能なのか?
みなさんはどう思いますか?できれば理由もあわせてお願いします。

A 回答 (6件)

立場を明らかにしてもらった方が、答えやすいんですけどね。



学生さんですか?

不可能と思うとアイデアは出てきませんので、次ぎの世代としては可能性を追求して欲しいところですね。出来ない理由なんていくらでも考え付きますが、それが正しいと証明する事は不可能です。

長い間わたしも可能と思ってましたが、一人の天才に期待されている仕事と、100人の秀才に期待されている能力は違うのですよ。

一人の天才と言った時にに期待されているのは、不連続なイノベーションであって、既存のものからはジャンプした発想を持つ必要があります。それには安全な環境が必要です。そして問題は、一人の天才を育てることは難しくなってきていて、100人の天才を育てる環境が必要になってきていることです。(切磋琢磨し合い、協力も出来る仲間が必要です)

100人の秀才に期待される能力は、既存のものの進歩、すなわち連続的なイノベーションで、これは組織論で解決可能ですが、優秀な人から天才性を塗りつぶしてしまう必要があります。そのため、特に日本では徹底的なアラ探しが行われ、批判にさらされます。

で、いずれにせよ、平等型教育では天才も秀才も育たなくて、塾や一部進学校に頼っていました。

しかし、平凡な人を底上げする教育は必要で、それは平等型教育なんですね。なので平凡な人が行く学校は平等型で良いと思います。むしろ、勉強以外の才能を見出せる「自由型」が必要だと思いますけど。

今までの歪の原因は、学校では平等型を建前としつつ、受験は競争型になっていたことですね。受験が人生を決めますので、受験に重心を置く事になり、秀才は塾や予備校に頼るしかなかったのです。

なので、平凡な人にも競争を求めたり、優秀な人を平等教育に縛り付けるのが間違っているのです。いい変えると、教育関係者が、個々に自分達の存在意義をかけてバラバラに生徒に強い要求をつきつけるので、過度な負担となっているのです。これは日本型の「マネージメント不在マネージメント」(縦割り)がもたらす弊害の一つに過ぎません。

ただ、ドイツみたいに子供のうちから進路が決まってしまう様な事になると、それはそれで鬱になりそうですが。

自由で柔軟、シンプルで、可能性を色々と試せる体系が必要と思います。

この回答への補足

プロフィールにも書いてありますが大学生です。

補足日時:2007/03/29 15:15
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2007/04/05 21:53

中年の平凡なおじさんですけど投稿させて頂きます。


私は社会人をそこそこやっててすごく感じる事があります。
学生時代の学力の成績よりも、得意分野のセンス・躾や社会常識・コミュニケーション・自分の個性のアピール・年下(後輩)の育成力などの能力が特に必要なのでは・・・と。
私は1人の天才や100人の秀才じゃなくて多数の個性が共存して、お互いを育て合う環境が一番いいと思います。
その為に学校教育は専門分野を広くして、上に上がっても基本育成を同時に教えながら社会に送り出す様になればいいな~って感じます。

以上、零細企業の管理職のおじさんでした。

この回答への補足

天才といっても別に学問だけの話ではありません。
様々な分野のプロフェッショナルを育てようとするのが競争型です。

>多数の個性が共存して
これはどちらかというと才能を伸ばそうとする競争型に近いと思います。
個性、オンリーワン、最近よく言われることですが
なにもしない人間に特別な個性があるわけないというのが私の考えです。

補足日時:2007/03/30 14:52
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2007/04/05 21:52

 極端すぎると思うんですが。


 どんな方法を採ろうとも1人の天才だけが伸びれば良い、という様な事はあり得ないと思います。だってこのやり方なら1番と2番は全く異なる扱いをする事になりますが、実際上位層にそんな差はないでしょう。
 逆にいえば100人の秀才だって100人が皆同じレベルにあるはずなく、1番~100番があるはずです。100人の秀才の中の1番や2番は間違いなく「天才型」でしょう。

 偏差値という概念が重んじられている以上、お金をかけてトップレベルの学校や進学塾に通える子供とそうでない子供の間に差が生じるのは当然だと思います。これは教育云々の話ではなく「格差社会」に原因がある事でしょう。

 で個人的な考えでは「平等型」など機能することはないと思います。結局勉強する人(もしくはさせられる人)はするし、しない人はしないでしょう。平等型を実現しようとしても結局競争型になってしまうのが現状だと思います。上記した偏差値偏重の背景もあり。
 できない人の為の受け皿は必要だと思うけど、やる気がある人と無い人をあえて型にはめる方が問題だと思うんですが。

この回答への補足

これはわかりやすく説明するための例です。
勘違いしてほしくないのはこれは単なる比率です。

補足日時:2007/03/30 14:48
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2007/04/05 21:52

秀才教育と言うのは有っても、天才を教育(←型にはめる)をすると才能は萎んでしまい凡人に成って仕舞います。



教育期間(高校か大学(院))が終われば一般的には社会人に成りますが、一般社会で、全員が横並びなんて事は有り得ないのだから生まれた時から過当競争を味あわせてその中から秀でた遺伝子を育てて行けば、日本中秀才だらけに成ります。幾ら頑張っても駄目なやつは、福祉で面倒を見るとか!!
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。
優生学がちょっと入ってますね。

お礼日時:2007/04/05 21:50

今の日本の教育が競争型ですか?


日本は年齢主義で飛び級も無ければ留年も無いです。
これは太田総理という番組で見たのですが、
他の国では小さい頃からIQの高い者だけを集めて天才を育成する特別なカリキュラムをやらせたりします。
フランスではサッカー選手を育成する学校もあり、今の代表選手のほとんどがその学校の出身者らしいです。
しかし日本はどれだけ頭の良い子でも出来ない子と同じ問題を解かないといけないです。運動会では足の速い子も遅い子も手をつないで一緒にゴールさせます。
ここまで平等型の教育は他の国どこ探しても日本だけです。

この回答への補足

書き方がまずかったですね。
『シフトしてきている』と書くべきでした。

補足日時:2007/03/29 16:13
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2007/04/05 21:48

>今日本の教育は平等型から競争型にシフトしていると思います。


ゆとり教育の見直しのことを言ってるのかなぁ。

基本的に落ちこぼれを無くすこととは即ち、全ての人間がおちこぼれという状況しかあり得ないと考えています。

>これからは1人の天才か?100人の秀才か?
>それとも1人の天才と100人の秀才を同時に育てることが可能なのか?
天才を育てるなどどだい無理な話です。矛盾しているとさえ感じます。
教育とはそもそも秀才を育てることしかできません。

この回答への補足

天才を育てるというより、天才が能力を十分に育てられる環境にする
といった方が正しいですね。

補足日時:2007/03/29 15:37
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2007/04/05 21:48

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!