電子書籍の厳選無料作品が豊富!

 キリスト教がギリシア正教といわれるようになった契機は、ローマ帝国が東西に分裂したことだと思っています。なぜ、ビザンティン=カトリックといわなかったのでしょうか。また、ギリシア正教と言い始めた宗教会議など(例えば、東西分裂前の、ニケーア公会議など)は、あるのですか。いつ、誰が、ギリシア正教と命名したのでしょうか。

A 回答 (6件)

ルール違反かと思いますが、5番の方の回答は、歴史的に正しくないりで。



>皇帝とローマ大司教が親密になっていったんですね。

キリスト教を公認したコンスタンティヌス帝以降、ローマ帝国の中心は、コンスタンティノープルにあり、ローマはむしろ地方都市となります。
東西分裂後まもなく西ローマが滅びますので、その後東ローマ帝国の管轄下にはいります。
それから逃れるために、カール大帝やオットー大帝を教皇が選出しました。
つまり、ローマ教皇は、皇帝と疎遠になったため、独自の道を歩みだしたのです。

>すったもんだがあって、やがて「ローマ大司教を別格の地位に置くべき」という要望が出た。

これは、フン族がローマに攻め込んだとき、西ローマ皇帝が逃げ出してしまい、時のローマ総主教レオ1世が、フン族と交渉し、ローマを守った事により、皇帝に並ぶ権威として、教皇を名乗った事によります。

>コンスタンティノープル大教区を除く他の3つの大教区はそれを認めた。

認めていません。
アレキサンドリア教会の末裔は、現在のコプト教会ですし、エルサレム教会の末裔は、マロン派、アンティオキア教会の末裔は、ヤコブ派になり、カルケドンの公会議(451年)以降異端とされています。
ただし、マロン派は、第一回十字軍時代に、カトリックに加わり(東方典礼カトリック)ます。

>コンスタンティノープルは、ローマ大教区から分離独立し、のちにロシアに布教を展開していく。
これが後のギリシャ正教。

ギリシャ正教は、あくまで、ギリシャとキプロスを管轄下におき、アテネに総主教座を持つ正教会を指します。
ロシアのモスクワに総主教座を持つのはロシア正教ですから、ここでは「ギリシャ正教」ではなく、「正教会」とすべきです。

>宗教には大いに関心があったが、政治的支配に関心が無かったわけです。

これは、全く逆で、ビザンツ帝国では、皇帝は総主教の上に立つ存在で、総主教も皇帝の権力の一部にしかすぎませんでした。
そのため、皇帝の政治的権威の及ばない地域では、その宗教的力が及びませんでした。
そのため、今日の正教会のように、国ごとの正教会ができる事になります。(セルビア王国にセルビア正教会、ブルガリアにブルガリア正教会、ロシアにロシア正教会など)

>皇帝と親密な政治的な関心を持つローマ大司教は4世紀後半には自分達の大司教を教皇と呼んでいた

「皇帝と密接な関係を持たない」が正しいです。
>コンスタンティノープル大教区は自らをギリシャ正教会(東方正教会)と呼ぶ(ギリシャオーソドックス教会。オーソドックスは正統という意味。)

当初は、カトリックに対してオーソドックスを使用したのではなく、異端である単性派(コプト教、ヤコブ派、アルメニア教会など)や二元論異端(パウロ派やボゴミール派)に対して、自分達こそ正統という意味で使用し、ローマ教会との分裂後は、単性派はイスラムの支配下になり、二元論異端も納まったため、カトリックに対してオーソドックスを使うようになります。
    • good
    • 0

ローマ帝国は各地を支配していく上で、キリスト教を使っていたんですね。



支配した土地に管理者を置いた。
ローマ大司教、コンスタンチノープル大司教、アンティオキア大司教、エルサレム大司教、アレキサンドリア大司教。

ローマ支配下にある地域には教会がいくつもあり、それらを統率していたのが、上に書いた人たち。


それぞれの大司教は同じ地位だったんですが、ローマ以外は地理的に遠い。
今のように電話もファックスもメールもありませんから、だんだん一番近いローマ大司教に伝え、その大司教が各地の大司教に伝える という風になっていって、やがて、皇帝とローマ大司教が親密になっていったんですね。

それでローマ大教区の管理者の地位は、他の大教区とは実質上別格となり、地理的に皇帝と直接話ができるローマ大教区の管理者の考えが、他の大司祭に伝えられるようになり、ローマ大司祭が他の大司祭を統率するようになった。

2世紀後半になるとこれに他の信徒から抗議が起こり、3世紀になると地方の教会の中でもローマ大教区と絶交するものもでてきた。

地方の大司教は自分の支配下にある教会たちが、ローマ大教区と絶交して離れてしまうと、それだけ支配する教会が減るので困りますよね。


すったもんだがあって、やがて「ローマ大司教を別格の地位に置くべき」という要望が出た。
それが教皇 法王 イエスの代理人という絶対的な権限を持つ地位。


コンスタンティノープル大教区を除く他の3つの大教区はそれを認めた。
 
こうしてローマ大教区が3つの大教区を統合してトップになり、これがカトリック教団となっていった。
(まだ この時点ではカトリック教団と名乗っていなかった)


賛成しなかったコンスタンティノープルは、ローマ大教区から分離独立し、のちにロシアに布教を展開していく。
これが後のギリシャ正教。



>キリスト教がギリシア正教といわれるようになった契機は、ローマ帝国が東西に分裂したことだと思っています

ユダヤ教の一派がいつから自分達の集団をキリスト教と言い出したのかはわからないです。
キリストという意味は救世主で、ユダヤ教のメシーアハ(油を注がれ者)をコイネーに翻訳したとき、それに該当するギリシャ語が無かったので、救世主を意味するキリストにしたようです。
尚 キリストとは12月25日が誕生日の太陽の子ユピテルのこと。だから神をデウス(ゼウス)って呼ぶわけです。


キリスト教は、、、ユダヤ教の信者のイエスを神だとする宗教のことです。

尚 カトリックという名前になったのは、、、、、
えっと、、、そもそもコンスタンティノープルがこの宗教の発祥地で本家本元的存在で、ローマ大教区は開拓地だったわけです。
コンスタンティノープルは本家なのでイエスに関する資料も豊富に所有し、神学的な研究も熱心だった。
宗教には大いに関心があったが、政治的支配に関心が無かったわけです。


で、コンスタンティノープルは6世紀末になると、コンスタンティノープル総大司教(大司教たちを取りまとめる役職)ヨハネス4世は自らを世界総大司と名乗っていたらしい。

かたや皇帝と親密な政治的な関心を持つローマ大司教は4世紀後半には自分達の大司教を教皇と呼んでいたらしいんですね。

そして二人が正式に離婚したのが、1054年らしいです。

コンスタンティノープル大教区は自らをギリシャ正教会(東方正教会)と呼ぶ(ギリシャオーソドックス教会。オーソドックスは正統という意味。)

ローマはこれを機に、ローマ公教会(ローマカトリック教会)と自らを称した。
カトリックとは普遍という意味。

まあ どっちもこっちが正しいって譲歩せず決裂したため、離婚したわけです。

政治的 宗教的 どっちが人を幸福にするか。
難しいですね。


>ビザンティン=カトリックといわなかったのでしょうか。

ビザンチン帝国とは後世の人がそう名づけたわけで、当時に人はそう名乗っていませんでした。
    • good
    • 0

本家が、わざわざ分家からの言われ方を踏襲するはずがない。


ローマ時代における主要な5つの教会のうち、四つは東部分にあり、ローマは西側(キリスト教徒のが少なかった部分)での一つでしかない。
西欧人=ローマ教会側が、自分たちが本家だという前提でギリシャ地方の正教会という意味で、ギリシャ正教と呼んだに過ぎない。
ギリシャ正教側は、単純に 正教会です。Orthodox Church

また、395年にローマ帝国が東西に分かれたと言われるのは、395年に分割統治を開始した後で再統合が無かったためであり、その前の段階でも、二つに分けたり、四つに分けたり、帝国外の外敵からの防衛単位を便宜的に決めていただけに過ぎない。これは、皇帝が、国家統合や行政の首座というり、軍の司令官であったという意味が強いため。

宗教団体として東西に分かれたのは 11世紀のシスマ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E8%A5%BF% …

ギリシャ正教会という名前が出たのは、19世紀初頭、近世国家としてのギリシャ王国の独立前後だったと記憶しております。
    • good
    • 0

ギリシャ側こそが「(分裂前の本家の)正統の後継者」である


そういう意味合いでしょうか・・・・
とすると相手ローマ側を異端視するようで過激ではありましょうか
    • good
    • 0

質問の意味がわからないのですが。


ギリシャ正教とは、現在のギリシャの正教会を指します。
正教会とは、「正統教会」のことで、基本的にカトリック「普遍的」に対して使用される言葉です。
ビザンツ側は、カトリックに対し、自分達が正統である事を主張するために、正教会(オーソドックス)の名前を使用しました。
正教会は、国や民族ごとに分かれており、そのうちのギリシャの正教会をギリシャ正教と言います。
その他に正教会には、セルビア正教、ブルガリア正教、ルーマニア正教、世界正教(トルコ)、ロシア正教、グルジア正教、シリア正教があります。
日本の正教会は、ロシア正教の管轄下にあるものと、独立した自治教会とに分かれます。

上記のうち、シリア正教会は、いわゆる正教会(三位一体を主張する教会)と、単性派教会(ヤコブ派)が、共にシリア正教会を名乗っているため、混乱しがちです。

その他紛らわしいのに、ギリシャカトリック(東方典礼カトリック)があります。
ギリシャカトリックは、カトリックに属しているのですが、典礼方式が、正教会方式で行われる教会で、レバノンのマロン派(ヤコブ派方式での典礼)、ウクライナ(ロシア正教方式)、イラク(アッシリア教会方式)、エジプト(コプト教会方式)があります。

正教会が、自分達こそ正統であると主張しだしたのは、ネストリウス派や単性派教会を異端として弾圧を始めたころです。
エフェソスの公会議449年(ネストリウス派を異端とする)
カルケドンの公会議451年(単性派を異端とする)
(ネストリウス派は、キリストは人間であったとする考え方で、単性派は、キリストは神の一部であったとする考え方です。)

この両派に対して、正統である事を主張し、正教会(正統教会)と名乗りますが、単性派教会の地区が、イスラムの飲み込まれ、単性派・ネストリウス派の脅威が無くなるころビザンツ帝国内に、偶像崇拝問題が起こり、教皇と対立し、カトリックと正教会が分裂(1054年)すると、カトリックに対し、自分達の正当性を主張するためにより「正教会」を主張するようになります。
    • good
    • 0

英文でgreek authority、 authodoxy?


でしたか?
ローマ・カソリックに対して、自分の所の方が正当だ 確か、そう主張してるのではなかったのでしょうか?
それでギリシャ正教と言っていたのではないかと・・・・
    • good
    • 0

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!